宴
そして河野の国主・高科晴明と輝明、河野の家臣が並ぶ。沢山の明かりが灯され、春の暖かさもあり戸が開け放されて、庭に焚いた松明の光もあって広間はかなり明るかった。
夕刻から始まった宴は、大変賑やかなものだった。大広間には、浜名の城主夫妻に雅直、桜の父・友信親子や二人の弟と家臣たち
雅直が言っていた通り、料理は豪華なものだった。焼き魚、鮒寿司、なます、鴨汁、蛸、かまぼこ、香の物などが膳に載り、菓子もまんじゅうや羊羹などが用意されていた。酒も沢山振る舞われ、下座にいた若い家臣たちは唄い、踊りだす。皆笑い、平安で楽しい。
桜は、伯父たちと浜名、河野両国の家老たちにお酌して回った。皆、古くから早瀬家に仕えてくれている者たちだ。今は白髪の方が多くなった家老は、子供の頃から出入りしているこの城で雅直といたずらをして、よく怒られたものだった。
「姫さまに酒を注いで頂ける日がくるとは……」
家老の一人が、満面の笑みで喜んでくれた。桜もつられて嬉しくなる。
「いやあ、雅直さまといたずらばかりしておったのに、姫らしくなられて」
「そうじゃ、この前まで髪も結い上げておられて、子供だと思うておったのに、お美しくなられた」
桜は、余計なことを言うなと怒鳴りたかったが、宴席なので耐えた。大分酒も進んだのだろう、皆、饒舌だ。輝明や晴明もいるのだ、言うなら声は小さめで話してもらいたい。幼い頃の話など、本人にとっては恥ずかしい以外に何もない。
桜は恨めしそうに、家老たちを上目で睨んだが、酒が入っては気づかない様子だ。
そして、先ほど挨拶をした高科晴明はこの話が聴こえたらしく、笑っていた。できれば、気が付かないでほしかった。晴明は輝明よりも更にがっしりとした体躯で、包容力のありそうな男だった。河野の主として堂々としたものだ。この御方が、やがて義父になるのだ。輝明と同じく、優しそうでほっとした。
「ははは、面白い姫だ。それに和政どのや友信どのの言う通り、可愛らしい」
「そうであろう、わしの可愛い姪だ。輝明だから嫁にやれるのだ。輝明、桜を大切にするんだぞ」
皆酔っている。桜はそう思った。
これから進める縁談ではなかったのか。婚儀として決まっていたことなのか。だから、輝明は縁談をどう思っているのかを尋ねたのではなくて、結婚という言葉を使ったのか。
思わず眉根を寄せて、父・友信を睨むと父は目線を逸らした。知っていて私に言わなかったのか。結婚は決まっていたという事実が、説明がなくても突きつけられた。私だけが知らなかったのか。憤りが湧いてきた
輝明は、そんな桜の顔をちらりと見ると和政に向き直る。
「ありがとうございます、叔父上。大切にしたい所存でございます」
無難に答えたのだろう。その様子を一通り眺めると、桜は父の前に酒を注ぎに行った。
「父上、縁談ではなかったのではないのですか?結婚と決まっておられるみたいですが」
小声で杯に酒を注ぐと、父は苦笑いを浮かべた。
「いやあ……桜に何の話もなしにって怒られると思って言い出せず、返って、桜に悪いことをした」
「父上、だから、怒るから桜に隠し事をするなと進言したのに」
隣で淡々と酒を飲んでいた兄・高信が杯をあおり、桜の前へ無言で注げと杯を差し出した。桜は口を尖らせて、兄の杯へ酒を注ぐ。面白くない。桜だけが知らなかったのだ。
「ああ、でも……きぬは知っておったはずだぞ」
父は思い出したように、明るく言う。
何?きぬが知っていた?
桜がきぬに話した時に、初めて知ったように驚いていたのだが。あれは、演技だったのか。そう言われれば、少し前から「姫君なのですから」と小言が増えた。あれは、結婚が決まっていたから、厳しくなり始めたことなのだろうか……。しかし、考えたところで、ここに本人がいるわけではないので、確かめる術などないのだ。
「もう、いいです」
諦めてぷいと顔を背けると、雅直の姿が目に飛び込んだ。酒に弱いわけではないはずだが、考え込んだように誰の話の輪にも入っていかない。少々膳に箸をつけ、時折、杯に口をつける程度だ。
どうしたのだろう。具合でも悪いのだろうか。そんなに騒ぐような性格でもないが、様子がおかしい。昼間に木の下で話した時も違和感を覚えた。その後、話をしている間は何もなかったはずだ。広間に入って来た時、また少し様子がおかしかった。桜と輝明と三人で話している時は、特に変わったことはなかったはずだ。その後だ……桜は、雅直のことを思い返してみる。
確か、家臣が呼びに来て、伯父上に呼ばれて……。
伯父上に何か言われたのか。そうとしか考えられなかった。
桜はそっと酒を注ぐ振りをして、雅直の隣へ移動した。それに気が付いて、ぼんやりと顔を上げる。やはり、様子が変だ。
「雅直さま、どうかなされたのですか?」
雅直は、隣の桜に杯を差し出すと、ふっと目を細めて笑った。作り笑いのように桜は感じた。何か誤魔化されているのだろうか。寂しい気持ちが桜の中から湧き上がる。子供の頃からの仲だ。隠し事をされるのは、親・兄は笑って許せるものだが、雅直は違う、信頼しているだけ寂しく感じる。
桜は酒を注ぐと、雅直の顔を覗き込む。
「桜、何でもないよ。そんなに見られると吹き出してしまうではないか」
「まあ!今しがた伯父上たちから可愛いと褒められたのに、あんまりです」
心配は無駄だったか?そう思ったが、もう少し話してみないと分からない。
「すまぬ。しかし、本当に何もないよ」
「しかし、私たちと別れた後、伯父上とお話なされたのでしょう?」
「ああ、その話はまた後で話すよ」
やはり、何かあったのだ。だから、様子がおかしかったのだ。桜が雅直に問い詰めようとした時、酔った家臣たちが桜を呼んだ。
「姫さまぁ、某の話も聞いてくだされぇ」
振り返ると顔を真っ赤にした酔っ払った家臣たちが上機嫌で桜を呼んでいた。今から、雅直と話すところなのに……。何て間の悪い。家臣の元へ行くのをためらって、動かないでいると、あぐらの上に肩肘をついてあごを乗せ、桜を見ていた雅直が苦笑いを浮かべた。
「行っておいで。ただし、相手は酔っ払いだ。適当にあしらえ」
止めてくれないのか!
誰が好んで酔っぱらいの相手などしたいと思うのか。だいたい、雅直との話がまだ終わってない。歯がゆい思いで立ち上がり、ふうと大きなため息を吐くと、先ほど桜を呼んだ家臣の元へ作り笑顔で向かった。
しばらくして、桜は気持ち悪くなり、大広間を後にした。酒の臭いで酔ったのだ。いつもなら酒の臭いなど気にも留めないが、自分では気づかずに緊張していたらしく吐き気がする。まだ、宴は続いていたので、そっと廊へ出た。春とはいえ、夜も更けてくると肌寒い。しかし、この冷気が今の桜には心地良い。少し歩いて、広間から遠ざかると松明も少なくて薄暗く、遠くで騒ぐ声が耳に届く。
桜は、柱に左手を着くと、右手で口元を押さえた。胃の腑がむかむかとしている。
「う……」
すると、ぱたぱたと桜に気が付いた侍女が駆け寄って来た。
「姫さま?姫さまっ!」
桜のそばまで来ると、背中を支えた。おろおろする侍女の元へもう一人、少し年配の侍女が騒ぎを聞きつけ寄って来た。
「姫さま、気持ちが悪うなられたのでございますね。今、白湯をお持ちいたします。ほら、早くなさい」
さすが、年配になると落ち着いている。ぴしゃりと先ほどの侍女に指図すると、弾かれたように侍女は小走りで白湯を取りに行った。そして、通りかった侍女にまで命じた。
「姫さまがお休みになられます。準備をなさい」
もう一人の侍女も小走りで、桜の視界から消えた。私、迷惑をかけて……。
「すまぬ……」
「良いのです。それより、姫さま、お話ししていますと、余計に気持ち悪くなられます」
う……本当に、気持ち悪い。それに、怒られてしまった。余計に身が縮まる思いだ。しかし、骨ばった掌で擦られる背中は安心でき、少し不快な症状も収まる気がする。
すると、薄暗い中で軽い足音が聞こえた。白湯が来たのか。桜は、俯いていた顔を、足音の方へ向けると、そこには侍女の着物ではなく、男物の袴が見えた。視線を上に上げると、そこには雅直が立っていた。
「よね、桜を介抱してくれて、助かった。礼を言う」
「いえ、今、白湯をお持ち致します」
よねとは、確か雅直の二つ年下の次男の乳母だったか。あまり働かない頭の中でちらりと思い出した。
「桜、大丈夫か?部屋に戻って、もう休め」
雅直は、桜を支えていたよねから受け取ると、桜の横に立ち腰に手を廻して歩きだした。自然に桜の顔は、雅直の胸にもたれ掛かる。吐き気など吹き飛ぶかと思った。雅直の心音が着物越しに耳に直接届く。血の気が引いていた顔が急に熱くなっていく。
うわぁ……どうしよう。
手を繋いで、顔が赤くなるという事が可愛く思えた。こんな体を寄せ合って……頭が働かないのに、さらに混乱する。雅直の着物からは愛用している香が香るが、時折少し酒臭い吐息が、桜の髪にかかるのは桜の様子を窺うために下を向くためだろう。
雅直はどんな顔しているのか。知りたいが、恥ずかしくて上を向けない。きっと、こんなに動揺しているのは私だけだろう。恥ずかしくて、頭を少し胸から離して浮かせた。
「桜?桜?」
様子を見ながら歩いていた雅直が立ち止まって、桜の顔を覗き込む。
きゃあ!と悲鳴を上げそうになった。雅直の腕の中で、体がびくんと跳ねた。間近に雅直の顔があった。
「はい」
「くっくっ……驚かせたな。大丈夫か?」
体を揺らし、動揺した桜がおかしかったようだ。堪えるように笑った。自分ばかりが狼狽えているのが面白くない。雅直は平気なようだ。
「はい」
前を歩いて、薄暗い廊で足元を灯りで照らしていたよねも、二人の様子がおかしいのに気付いて振り返った。
「ああ、大丈夫だ、行くぞ」
雅直は、よねに先を急がせるために促した。雅直も顔を上げて前を見据える。顔が離れたことで、ほっとしてため息を吐いた。先ほどは驚いたが、雅直の腕の中は思ったよりしっかりして力強くて安心できる。とても心地よい。桜は、遠慮して少し離していた頭を思いっきって雅直の胸に当ててみた。すると、腰に廻されていた手に力が込められるのが分かった。
「桜」
耳に雅直の息と潜めた声が届いた。思い切り振り仰ぎそうになったが、小声だということは、前を歩くよねには聞かれたくないのか。
「はい。何でしょうか」
桜も小声で答えた。しかし、雅直は黙ったまま。たまに吹く肌寒い風が揺らす木々の葉擦れの音と、池の水が流れるチョロチョロという水音だけが聴こえた。呼びかけたのにどうしたのだろう。
「桜、明日、体が良いなら、付き合って貰いたい所があるのだが、どうだ?」
「え?あ、はい。かしこまりました。しかし、明日もまだご予定がおありでございましょう?」
「昼過ぎには空くから、待っていてはくれぬか?」
「はい」
喋り過ぎた。胃の腑がむかつく。吐くほどではないが、口元を手で覆った。回らない頭で、明日もまだ河野との会談の続きがあるのでは……そうだ、河野の方は近くの寺に滞在しているはずだ……そんな時に私とどこへ行くと?しかし……考えがまとまらないし、口にも出せない。
「桜?あと少しで部屋だ」
話せなくてこくんと頷いた。すると、よねが灯りの点いた部屋の前で立ち止まった。
桜が光ヶ崎で滞在している部屋だ。侍女が先に布団を敷いていたので、雅直に支えられていた桜は、転がるように布団に倒れた。
手の中から滑り落ちた桜に、雅直と侍女たちは驚いて、さっとしゃがんで桜を見た。力が抜けたのだった。
「驚かせるなよ……ほら、桜、白湯だ。飲め」
桜の背中を支えて上半身を起こすと、椀を口元に当て白湯を飲ませた。一口飲むと、口の中も喉も胃も落ち着くようだった。三口くらいで一息すると、口元から椀が離れ、雅直が眉根を寄せて心配そうに顔を覗きこんだ。
「急に倒れるな。びっくりしたではないか」
「色々とご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
支えられたまま謝ると、ふっと目を細められて笑顔を向けられた。大広間で暗い様子だった雅直。笑顔の温もりと共に、背中に廻された手の温かみまで伝わりほっとした。本当にあれは何だったのか。
「迷惑だなんて思っていないから、安心いたせ。それより、ゆっくり休むのだぞ」
「はい。ありがとうございます」
支えられたまま、頭だけ頷いた。
「そうそう、若さま、姫さまがお休み致しますので、退室して頂けませんか?」
よねが退室を促した。忙しいのだろう、彼女もやるべき事が沢山あるのだ、桜に構っていられない。雅直ばかりではなく、よねや侍女たちにも余計な手間を取らせてしまった。
「あ?ああ……すまない」
気が付かなかったのか、それとももう少し桜と話したかったのか、雅直はゆっくりと立ち上った。それを、悪戯そうな横目でよねが見た。
「それとも、若様は姫さまのお召し替えを、手伝いたいのでございますか?」
「ばっ、馬鹿を申すな!」
盛大に赤くなった。着替えを手伝うなどとからかう、よねもよねだが…。よねは声を出して笑ったが、侍女たちは遠慮して顔を背けた。いつもなら桜も笑う所だが、今は吐きそうだ。それどころじゃない。
「またな、桜」
そう言って、いつも足音など立てない雅直がどかどかと歩いて退室していった。きっと、照れているのだ。布団の上に座ったままだった桜は、もういない雅直に向けて手を付き頭を下げた。
その後、桜は夜着に着替え、床に着いた。輿に乗っていたとはいえ、山深い篠田山から出てきて疲れもあった。桜はいつもより早い時刻だが、すっと眠りに落ちた。