どうか君が、未来を笑って生きられますように。
「なんだかとても良い香りがしますね」
「あら、お気づきになられました? 当家自慢の調香師に作らせた、白薔薇の香水ですの」
「そうでしたか。華やかな貴方によくお似合いの香りです。甘い花蜜に群がる蝶になったかのような気分にさせられますよ」
「まぁ……」
柔らかな金髪に縁どられた、おっとりとした造りの顔の男から吐き出されるのは、今日出会ったばかりの令嬢を口説く台詞。
多くの人々の参加する、王城でのパーティ会場の一画。
少し離れた距離から見知らぬ女性と甘い言葉を交わし合っているその軽すぎる男の背を見つめるアンジュは息をのみ、扇で隠した口元をぎゅっと引き結んだ。
華やか過ぎる場所はどうしても気おくれしてしまう。
完全に隅っこで壁の花となっているアンジュは、硬く硬く奥歯を噛みしめないと、嗚咽を漏らして泣いてしまいそうで、どうにか堪えなければと必死に顔に力を込めた。
(どうして……)
まるで香りに引き寄せられたというふうに、薄茶色の髪を束ねた令嬢の首元に顔を寄せる彼……ロバートのふしだらな行為に、胸の奥がズキズキと痛む。
彼はアンジュの婚約者だ。
物心ついた頃にはもう将来の伴侶はロバートだと決まっていた。
完全な政略結婚だけれど、アンジュには何も不満はなかった。
アンジュはロバートのことが好きだ。
大好きだ。
愛してるといっても、過言ではないから。
だから他の令嬢に言い寄る彼の姿は、アンジュへ耐え難いほどの苦痛を与える。
……家の長女であるアンジュは、礼儀正しく面倒見が良い、いい姉で居ることを求められていた。
妹たちは可愛いし、頼ってくれることは嬉しいから、それはまったく構わない。
でも、時々疲れることもあるのも本当で。
そんなアンジュを心配して愚痴を吐き出させてくれたり、妹たちよりも自分を優先して我儘を聞いてくれたり。
いつだって甘やかしてくれて、大切に大切に扱ってくれたのが、ロバートだった。
もう当然の流れのように、アンジュは一番優しく甘やかしてくれた、同じ年頃の異性であるロバートに恋をした。
想いを自覚した十歳ごろからは、何度も慕っているのとの言葉を贈り、刺繍や編み物や手紙を贈った。
ロバートも同じように返してくれて、いつからか自分たちは両想いであるのだと信じられるようになった。
―――なのに。
最近……だいたい半年くらい前からだろうか。
ロバートは変わってしまった。
こうやって、パーティーや茶会に赴くたびに、どこぞの令嬢に睦言を囁くような遊び人になってしまったのだ。
もともと柔和で誰にでも優しく接せる人ではあった。
でもきちんとした線引きが出来る人だった。
婚約者がいながら、むやみに余所の令嬢を惑わす言葉を吐くことなんて絶対に無かった。
なのにどうして、今のロバートはアンジュの居ると分かっている場で。
アンジュの目の前で。
余所の女性に吐息がかかるほどにまで顔を近づけ、とろけるような眼差しを送っているのか。
まるで見せつけるかのようなその行為に、アンジュが傷つくのは簡単に想像できるはずなのに。
いや、もしかすると……アンジュを傷つけようとしてやっているのかもしれない。
「どうして、こんなことをするの。ううん……ただ、私に飽きただけかも。面白味のない、普通の人間だものね」
彼がアンジュを突き放す理由として思いつくのは、自分の魅力のなさ。
黒く長い髪は珍しいけれど、華やかさは欠片もなく陰気な感じがするから、自分でも好きではなかった。
顔のつくりも特別に際立っているわけでもなければ、身体も魅惑的なものとはいいがたい。
性格もどちらかといえば大人しく、頭も良いといえるほどに勉強が出来るわけでもない。
人に自慢できるような特技のない、平凡どころか少し劣ってさえいる子。
そんなアンジュに、優しく恰好良く、何にも優れたロバートは愛想を尽かせたのかもしれないと、アンジュは最近考え始めていた。
「何も、理由は言ってくれなかったし……」
ロバートが余所の女の子に目を向け始めた半年ほどまえ、アンジュは真っ先に抗議した。
婚約者であるアンジュは、彼の馬鹿げた行動を抗議するべき立場にいる。
自分が何が気に障ることをしてしまったのか。
もしかして、何かあったのか。
どうして、わざわざアンジュに見つかると分かる場所で女性を口説くのか。
せめて後ろめたそうに隠してさえくれれば、鈍いアンジュは気づくこともなく平穏でいられたかもしれないのに。
でも、ロバートの答えは「女の子との遊びが、楽しくて仕方がなくなったんだよね」という、まったく理解しがたいものだった。
もしかするとロバートは、口で言ってアンジュを直接的に傷つけるのをさけたのかもしれない。
面白味もなく美しくも無いお前と一緒に居るのに飽きたのだと、冷たい言葉を言いたくなかったのかも。
昔から必要なことほど口をつぐんでしまうところが確かにあった。
少し卑怯だと思ったことはあるけれど、そういう彼の弱さを愛おしくも思った。
完璧でないことが嬉しかった。
必要なことほど口に出したがらないひと。
だからロバートは間接的に、アンジュに余所の令嬢との仲を見せつけるという方法で、言葉には出さずにアンジュの恋心を削ごうとしているのかも。
「……まぁ、全て私の憶測でしかないけれど」
重い息を吐き、もう早く抜け出したいと思うパーティー会場を見回した。
皆笑顔で、皆幸せそうで、恨んでしまいそうになる。
「幼い頃は真面目でも、大人になって女遊びやギャンブルという悪い遊びを覚え、崩れていく人は少なくはないわ。ただ成長するにつれてそういう人間になってしまっただけ……とか」
アンジュは扇で隠した唇から大きな大きなため息を吐く。
好きな人が違う人に触れているところを、何度も何度も何度も、繰り返し突き付けられて。
アンジュの気持ちは、もう崩れかけていた。
震える声で吐き出された弱音は、パーティー会場に鳴り響く楽団の音楽にあっさりとかき消される。
「もう、駄目なのかしら」
アンジュだけを特別に大切にしてくれていた、優しく一途で頼もしかった婚約者に、もう戻ってはくれないのだろうかと。
深い悲しみと失意に、扇で隠した唇から、また重いため息が漏れた。
これが恋の終わりというものなのだろうか。
「お父さまに、婚約の解消を願い出てみるべきなのかも」
口には出さないけれど、おそらく彼もそれを望んでいるのだろうと、なんとなく、アンジュを突き放すような最近の空気で分かるから。
* * * *
背中に突き刺さる嫉妬のこもった視線に気づきながら、ロバートは一昔前の恋愛小説さながらのベタすぎる甘い台詞を、目の前の令嬢に囁く。
「香りもそそるけれど、その茶の瞳が特に美しいですね」
「そ、そう、ですか? 茶色なんてごく平凡な色かと思っていたのですが」
「まさか。茶の中でも極上な色。吸い込まれるような深い魅力的を感じますよ」
自分でも何を言っているのか良く分からない褒め言葉だと考えつつも。ロバートの全神経は自分の背中の向こう側、壁際につまらなそうに一人ぽつんと立っているアンジュへと注がれていた。
ロバートが目の前の令嬢に顔を近づけると、泣き出してしまうぎりぎりで必死に我慢して乱れるのだろうアンジュの呼吸を想像してしまう。
人の大勢いるパーティー会場の中であっては聞こえないと分かるのに、どうしても意識して耳立てていた。
「ロバート様? どうかされました?」
唇と唇が触れるほどの距離にまで近くにすり寄ってきた令嬢の、馴染みのない体温と濃厚な薔薇の香りに鳥肌がたった。
初対面の他人としての距離感は遠に超えている。
実は少しばかり潔癖症なところのあるロバートにとって、この距離は耐えがたい感覚だったけれど。
それでも柔らかな笑みを崩さずに顔に貼りつけ続ける。
「おや」
ふと、会場に鳴り響いていた楽団の弾く音楽が変わった。
穏やかで、しかし跳ねるような音が続く可愛らしい曲調。
(アンジュが一番好きな曲だ)
ロバートの口元が自然にほころぶ。
幼い頃、自分の屋敷でアンジュと会ったとき、一緒に何度も何度もダンスを練習した曲。
くるりと回るたび、とても楽しそうに声を上げて笑ってくれた彼女を思い出すととても幸せな気分になる。
ロバートは手の平を目の前の令嬢へと向け、今日一番の極上の笑みをつくる。
金髪碧眼で柔らかな雰囲気の、自分の容姿がどれほどに女性を惑わすものなのかを良く知ったうえでそうしていた。
「よろしければ、一曲おどっていただけませんか?」
アンジュが息を詰めるのを背中で感じながら、ロバートは頷いてくれた目の前の令嬢の手を恭しくとった。きっとアンジュはせめてこの曲だけは一緒に踊りたいと思っていたのだろう。
(そういえばこの令嬢、名前なんていったっけ。聞いた気がするけど……興味がなかったから流しちゃったなぁ)
頬を赤く染めて、うっとりとした表情で寄り添ってくれる令嬢の仕草は、ぎこちなくて初々しくて。
華やかで目立つ装いではあったけれど、決して男に慣れてはいないらしい。
この令嬢の心を、自分は弄んでいるのだ。
アンジュにも彼女にも罪悪感を覚えた。
しかしロバートは意識して、柔和な笑顔を作り続ける。
愛おしいアンジュの悲しみの込められた視線を受けながら、ロバートはその令嬢と何曲も踊り明かした。
* * * *
もう月も頂点を超えて沈み始めた時刻になって、ロバートはようやく帰宅の途につく。
馬車の中、目の前に座る自分の付き人に向かい、微笑みながら口を開いた。
「見たか? 今宵のアンジュは特別に可愛かった」
「えぇ。一昨年のアンジュ様の誕生日にロバート様が贈られた、翡翠のブローチをされていましたね」
「そう。若草色のアンジュの瞳の色に一番似た翡翠を探して。確か何度も何度もデザインを修正したんだ。今も、大切にしてくれているんだな」
それまでの作り笑顔とはまるで違う、少しの幼ささえ垣間見えるほどの、本当に嬉しそうな顔でロバートはくすくすと笑う。
しかしふいに真顔になって、馬車の明り取りの窓から見える月を遠くに眺めながら、自嘲気味な呟きを小さく落とした。
「――――嫌われようとしているのに。まだ好いてくれていることに安堵しているなんて、本当に最悪だな、僕は」
「ロバート様……」
気づかわしげな声を漏らす付き人へと視線を戻した、瞬間。
常に感じていた胸の奥が締め付けられるかのような痛みが、途端にひどくなり、喉から覚えのある感覚がせりあがる。
「ぐっ……!」
「ロバート様!!!」
突然に口元を押さえ、背を丸めてうつむいたロバート。
付き人は慌てて腰を浮かせ、ロバートの隣に身を寄せる。
「大丈夫ですか。あぁ、最近はもう薬の効きまで悪くなってしまわれてお労しい―――これを」
付き人が胸元から出したハンカチをロバートの口元へと差し出し、主の背をゆっくりと撫でる。
「っ………」
「ロバート様。少々お待ちください。馬車をこのまま、お医者様の家へ―――」
「っ、いい……このっ、まま、……屋敷に…」
喘ぐような声での命令に、付き人は悩みながらも頷いた。
医者へ行ったって、もう処置の施しようもなく、出される薬は同じだということを彼は良く分かっていたから。
しばらくしてロバートが口元から押さえていたハンカチを離すと、白いハンカチたった一枚では賄え切れない量の鮮血が吐き出されていて、それを見た付き人は息を詰めて眉を寄せる。
「……もう、アンジュ様に全て告白されては……」
「駄目だ」
「ですが……」
「アンジュにだけは…駄目なんだ」
赤く染まったハンカチを持つロバートの指の隙間から、ポタリポタリと血が落ち、馬車の床と下衣を汚していた。
心配そうに背を撫で続けてくれる手を頼りに必死に呼吸を整えながら、ロバートは震え擦れた声で吐き出した。
泣きだしそうに、顔をゆがませながら。
「……はやく、はやく。僕を嫌って、憎んでよ。アンジュ……」
―――自分がこの世からいなくなった時。
君が『因果応報だ』と笑い躱せるほどに、僕のことを要らなくなればいい。
そうしてあっさりと、消えた人間の事など切り捨てて。
どうか君が、未来を笑って生きられますように。