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そこから先はなだらかな坂になっていて、これはきつくはないのだが、いささか歩みを鈍らせる。
だから私と陽子はゆっくりと、過去の一歩一歩を踏み直すように歩くことができた。
坂の途中で不意に彼女が立ち止まる。体を曲げて膝に手を置き、「はあ」と深いため息をついた彼女はひどく弱弱しく見えて、私は思わずポケットから手を引き抜く。
思わず知らず、差し伸べそうになる手を理性で押さえて、私は冗談をいうときのようにわざとらしく意地の悪い笑いを彼女に向けた。
「おいおい、年だなあ」
彼女は童女のようにすこし頬を膨らませて、それがあまりにあざとかったのだから、これも冗談なのだとすぐに気づいた。
「年なのはお互い様でしょ」
「違いないな」
二人で声をあげて笑って、それから彼女はゆっくりと歩きはじめた。私は歩調だけを彼女に差し伸べて、すこし小股でゆっくりとすすむ。
肩が触れるのではないかというほど近くに、並んで歩く。
それでも彼女に触れるわけにはいかないのだ。触れたら何もかもを壊してしまいそうな予感が私にはある。
触れそうで触れないこの距離はあのときのまま、すこし焦れて自分の両手をもてあましている感覚もあのときのまま……私は学校への行き帰りに人気の少ないこの道を歩きながら、いつ彼女と手をつなごうかと策をめぐらせていたものだ。
手の平がぶつかるようにわざとらしく手をたらしてみたりもした。手を握ってしまったときの言い訳をいくつも用意して、どれが一番無理なく通じるのかを頭の中でシュミレーションしたりもした。
今思えば、それはずいぶんと幼いおびえだったのだろう。
手をつなぐことで何かが変わると、恋の次のステージに進むのだと本気で思っていたからこそ、私たちには心の準備が必要だったのだ。
結局、彼女の手の平に触れるまでに何ヶ月もかかってしまった。
今ならば簡単なこと、坂を登る手助けを装って片手を差し出せば、彼女は何気ない仕草で片手を返してくれるだろう。
そうして手をつないだところで今の私たちの関係が変わるわけではない。あれから30年以上の月日を別々に重ねてきて、いまさら中学生だったあのころの気持ちには戻れないほどに二人の道は遠く違ってしまったのだから。
妻あることを言い訳にして隠していた自分の気持ちに、私はここで初めて気がついた。
そう、白昼夢の中でさえ彼女に手を伸ばすことをためらうのは、そこにあのころの気持ちが欠片も残っていないことを知るのが怖いからだ。残酷な時の流れが持ち去った純真な愛情を取り戻せないことが哀しいからだ。
それでも、手の平くらいなら許されるだろうか、あのころのように偶然を装ってたらした手の甲にこつんと当たるぬくもりを楽しむだけなら……
そんな白昼夢は、ため息混じりに吐き出された老女の声でかき消された。
「やっぱりダメね……去年、大病をやってから、体力が落ちてるの」
「あんなに健康優良児だったキミがかい?」
「やあねえ、何十年前の話よ、それ」
笑いながらも彼女のひざが軽く崩れるから、私はとっさに手を伸べた。はからずもつながれたその手は枯れ木のように細い骨が浮き上がって、驚くほどに冷たかった。
「あ」
驚いたような声をあげながらも彼女は私の掌をしっかりと握り締め、いくぶん体重を預けてほっと息をつく。
「あったかい……」
「君の手が冷たすぎるんだ。昔は汗ばむくらいあったかい手をしてたのに」
「そうね、わたしはずいぶんと年をとってしまった……」
「それはお互い様だろう、私だって年をとって……手の平なんかガサガサだぞ?」
「ええ、そうね、『あのころ』の私たちはもういない……」
ふっと坂の上に向けられた彼女の視線はあまりにも遠くて、現在ではない遠い過去を見るような目だったから……私は彼女の手を強く引く。
「年はとったが、まだ坂道ごときでくたばるほどジジイじゃない。ちゃんと引っ張ってやるから、行こう」
白昼夢の中から呼び戻されたように、彼女の瞳が大きく見開かれた。と、次の瞬間には目尻に幸せそうな皺をいくつも浮かべてやわらかく細められる。
「ふふふふふ、そういうところ、変わってないわねえ」
「そういうところって、どういうところだよ」
「ぶっきらぼうで不器用で、だけど優しいところよ」
ゆっくりと歩き出した彼女の歩調は頼りなくて、それに合わせる私は一歩一歩をずいぶんと丁寧に踏み進む羽目となった。
一歩進んではとまり、彼女が足を上げやすいように手を引き上げる。それにすがって彼女が一歩を進めば私がまた一歩先へ、の繰り返し。
その中で、すこし息を切らせながら彼女が言った。
「ねえ、西田君、私たちはずいぶんと変わってしまったわね、昔はこのくらいの坂、走ってでも上れたのに」
「すこしだまって歩け。息があがってるぞ」
「私はこんなおばあちゃんになってしまったのに、ひとつだけ昔と変わらないものがあってね今日までそれを大事にしてきたの」
彼女の声はすこしかすれ気味で、それは終焉を思わせる悲哀にみちていた。だから私は、彼女の口をふさいでしまいたいと思ったのだ。
――決して許されぬ、不埒なやり方で、唇で唇をふさいで声を奪ってしまいたい。
そんな思いを飲み込もうとして、うかつにもそれは、独り言となって唇の外へとこぼれた。
「妻を悲しませたくないんだ」
それをどうとらえたか、彼女から返されたのはクスクスと呼吸を潜めるような笑いだった。
「やあねえ、別にあなたを口説こうとか、そんなんじゃないのよ」
「ああ、いや……」
曖昧な返事に重ねるように、彼女は言葉を続ける。
「私だって夫を悲しませたくないし、今は今で幸せだもの、大事だっていうだけ。ただね、あまりに大事な思い出だから、ずっと人生の忘れ物みたいに、もう一度だけあなたに会いたいという想いが消せなかったの」
「わざわざ帰郷してまで同窓会に出席する余裕がなくってな」
「それは私も一緒。子供のこととか、日々のことにおわれて、同窓会なんて長いこと参加してなかったもの」
「そういうヤツはけっこう多いだろうよ」
「だからね、これは最後のチャンスだったの」
「……そうか」
『最後』という言葉にいくぶんの引っ掛かりを感じたが、それには触れないように陽気な声を出す。
「おお、坂の上公園だ! 懐かしい、まだあったんだな」
すでに坂を上りきったここにある公園は、本当の名前は別にあるのだろうが『坂の上公園』などという子供らしく安易な呼び方で親しんだ場所だ。小学校のころは友人と三角ベースに興じ、中学生になってからは彼女と……つないだ手を解きがたい日に寄り道した、思い出の場所。
「ちょうどいい、少しだけ休んで行こう」
彼女のために座る場所を探せば、昔は木でできたぼろいベンチがあった場所には、プラスチック製のこじゃれたベンチが置かれている。
そこに彼女を座らせたがつないだ手は解きがたく、私はしばらくそのまま突っ立っていた。
所在無くあたりを見渡せば、ここもすっかり変わってしまっている。
回転式ジャングルジムは撤去されたのだろう、そこはきれいに貼られた芝で青々としたじゅうたんが敷かれている。水のみ場も挿げ替えたのか、妙に人工的な緑色の石造りのそれではなくて、コンクリ細工で作られた可愛らしいパンダ型のものが据えられている。
「30年は……長いよなあ」
この公園が残っていること、そしてここで彼女の手をあの日のように握り締めていることまで、全てが軌跡のように感じる。
ただ、この公園のメインであるコンクリート製の滑り台だけが昔のまま、ペンキこそ塗りなおされてはいるが、それがまったく当時のままのように思われて、私は彼女を見下ろした。
ベンチに座っているのはセーラー服にお下げをたらした少女ではない。人生の悲喜こもごもを皺という形で表情の上に刻んできた老女である。
だが、それでも『陽子』なのだと思えば、甘い潮騒がふた度心の砂浜に打ち寄せるような感覚を覚える。
「……君だからいうよ。私は人生の中で何度も、あのままキミと付き合っていたらどうなっていたかを夢想したことがある」
「あら、それは私もよ」
「仕事から疲れて帰ってきたときに、キミが玄関で笑顔で出迎えてくれる、リビングのソファに身を投げ出せば、暖かい食事が目の前に運ばれてくる……でも、想像の中だというのに、私が思い浮かべる玄関といえば現実の中にある我が家の玄関だし、ソファといえば実際にリビングにあるすこし汚れた布張りのソファなんだ」
「そう気づいたとたんに、奥さんのことを思い出してしまうのね?」
「ああ、申し訳ないが」
「気にしないで、それも一緒、私だって、夢想の途中で夫のいる現実に引き戻されちゃうもの」
彼女は小さく笑って、つないだ手を静かに解いた。
「でもね、その現実が今の私には一番大事なの。だから、あなたとの思い出はとても大事だけれど、しょせんは思い出でしかないのよ」
「ああ、それは私も一緒だ」
何気なく滑り台を見上げながら、ほんの少しだけ後悔する。
もしも彼女が少しでも自分の身の上の不幸を語ったならば、私はなににかえても彼女を自分のものにしようとするだろう。過去の中にある幼い恋がそうであったように、純真と愛情のみをささげて彼女に触れようとあがいたかもしれない。
しかし私たちは、お互いに幸せな人生を歩んでしまった。
帰り道、まるだ屋の角、「じゃあまたね」と手を振るように気楽に、お互いの人生に沿っているうちに道は大きく分かれてしまった。いまさらここで再会を果たしたとしても何の意味もない。
それでも私は、彼女がまっすぐに目を上げて滑り台を眺めていることに気づいてしまった。
「ねえ、キスだけでも……しない?」
あの滑り台は、彼女と初めて唇を交わした思い出の滑り台だ。あの時、これから別々の高校に進学する二人は、約束のキスをあのコンクリートの塊の陰に隠れて交わした。
約束だなどと思っているのは当人たちばかりで、本当は会う時間も少なくなって自然消滅する恋への弔いのキスだったのに、私はファーストキスというものにうかれてそんなことには気づかずにいた。ただ唇の柔らかい部分でそっと触れ合うような、吐息さえ感じぬ軽いキスだったことだけは今でも覚えている。
だから私は、あのころのようなキスを交わす自信がなかった。
「無理だよ、キスだけじゃすまなくなる」
指先を再び絡めて、私は囁く。
「わかってほしい、あれは私にとっても大事な思い出で、だから今日まで……絶対に触れようとはしなかった、それほどに30年という時間は……」
私の頬を伝うものは決して涙などではなかったのだと思いたい、墓穴の中まで持ってゆくセンチメンタルを探すにはまだ早いのだから。
「だけど、信じてほしい、あの日の気持ちだけはウソじゃない。遊びで交わしたキスじゃない。だから……」
私の手をそっと押し返す彼女の頬は、確かに濡れていた。
「やあねえ、冗談よ」
「そうか」
「私だってオトナなんだから、キスだけじゃすまなくなる。夫を悲しませたくないって言ったでしょ?」
「……そうか」
「もう行きましょう、集合時間に間に合わなくなるわよ」
立ち上がった彼女の背中を抱きしめて、引き寄せてしまいたい、そんな気持ちを押し隠して……俺は笑っていたはずだ、そういう風に表情を作っていたのだから。
「なんだよ、欲求不満か?」
「おあいにくさま、ウチは円満なほうだと思うわよ」
そんな冗談の応酬さえ哀しいが、私はすでに人生の終焉に向かうこの道から引き返すつもりなどない。
妻は美しく、可愛い娘たちも嫁いで初孫ももうすぐ生まれる。
私の人生は順風満帆で幸せに満ちている。
――それでも、男なんていうのは身勝手な生き物だ
そう思いながらわたしは、彼女とつながっていた指先をそっと離すのだった。