表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ねえ、頼むから、もう帰ってくれないか

作者: 芍薬

 いつも通りの業務後。

 今日は少し帰りが遅くなって、いつも行くスーパーの閉店に間に合わなかった。

 閉店間際の値引きは、家計の味方である。

 それを逃すことは、決して高給取りではないサヤにはかなり痛い。

 月に一度、大好きな洋服を買うためにも、絞れるところは絞ると決めている。


 仕方あるまい。今日は残り物で我慢しよう。

 冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、家路を急ぐ。

 胃袋はいい感じに空腹を訴えており、脳は速度優先のメニューを弾き出す。


 自宅に帰りつく頃には、サヤの心はもうすっかり夕食に飛んでいた。

 今はもう、この空腹を満たすことしか考えられない。


「たーだいまー……って、何コレ」


 実家にいた頃からの習慣で、今は一人暮らしの部屋の玄関で声を上げた。

 そして違和感に気がつき、首を傾げる。

 おかしいのだ。

 玄関の上がり(かまち)に足跡が残っていた。

 純日本人のサヤには、靴のまま部屋に入る習慣はない。

 それにこの足跡は、サヤの靴のサイズより大分大きいようだ。

 よくよく見れば、乾きかけの泥で出来た足跡が、点々と部屋の方へと続いている。


 サヤは恐る恐る視線を足跡の先、つまり部屋の方へ向けた。


 今、サヤは鍵を開けて入ってきた。

 つまりドアの鍵は閉まっていた。はずだ。

 しかし足跡は、玄関から部屋へ向かう。


 そんなバカな。いや、それよりも。

 もう声を出しちゃったから手遅れだよね?

 もし、本当に誰かがいたら。


 様子を窺うも、部屋の電気は消えているし、人の気配はない。

 サヤの部屋は、就職して初めて借りたワンルームだ。

 駅近く、程々に暮らしやすい立地が気に入っている。


 しばらく耳を済ませてみたが、特に物音は聞こえないので、意を決したサヤは部屋に入ることにした。

 もし空き巣とかだったら困るし、警察を呼ばなくてはいけない。


 そろそろと忍び足で入り、周囲を見渡す。

 カーテンの開いた窓から差し込む月の光が、うっすらと部屋を照らし出している。

 特に異常はない。


 なぁんだ、と拍子抜けしたサヤは知らず力の入っていた肩を撫で下ろす。

 足跡なんて気のせいに違いない。

 パチリと電気をつけたサヤは、やれやれと首を振った。

 考えすぎだ。


 さて、着替えて料理でもしようかな、とサヤはタンスに向き合った。

 通販で買った、ちょっと可愛いタンス。

 ここにはサヤのワードローブがぎっしり詰まっている。


 何気なくタンスの扉を開けたサヤの目の前に、一対の光が映った。

 近すぎて上手く焦点が合わない。

 光はぱちくりと瞬いた。

 何だこれ。

 見つめあうこと数秒。

 息が掛かるくらい近くで、見知らぬ男の顔が困ったようにヘラりと笑った。


「で」

「デ?」

「でたあああああぁあ!」


 その後、サヤの悲鳴がアパート中に響き渡ったのは、言うまでもない。


 サヤのタンスから現れたのは、若い男だった。

 日本人ではないと思う。

 顔立ちは何処となく中東系。浅黒い肌に、くっきりした黒目が印象的だ。

 彼は全身泥だらけであった。


 タンスの中を確認したサヤは半泣きになる。

 当然、タンスの中も泥だらけである。


「てゆーか、アンタ誰よ?  何でここにいるのよ!?」


 サヤは男に詰め寄った。

 お気に入りクリーム色のコートを台無しにされた怒りは大きい。怒りは人を強くする。


 男はタンスの中によく収まっていたものだと、感心するくらいに背が高かった。

 体格が良いわけではないが、やたらと存在感がある。


「何とか言いなさいよ!」

「*****」

「何言ってるかわからない !」

「***、*****」

「日本語喋りなさいよ! スピーク ジャパニーズ!」

「……」


 一切会話にならなかった。

 男が口にした言葉の、意味がサヤにはさっぱり理解できない。

 英語ですらないようだ。


「……ケーサツ」


 携帯電話を掴んだ瞬間、よくない雰囲気を感じたのか、男が慌てて手をのばす。

 男は指で自分の腹を指して見せた。

 ……自分を指すジェスチャーであれば、日本であれば胸、某大国であれば鼻を指差すのが正しい。

 サヤがそれを自分を指すジェスチャーだと気がついたのは、奇跡に近かった。


 黙って見ていると、次に男はサヤを指差した。やはり指しているのは腹だ。

 男は更にいきなりぐわっと両手を頭の上にあげた。

 今にも襲いかからんという体勢に、サヤがビクッとして携帯電話を握りしめると、今度は胸の前で立てた手を左右にヒラヒラと振る。

 ……何故だか最後だけ妙に日本人臭かったが、彼が何かを伝えたがっていることだけは伝わった。


 自分、貴方、襲う、ナイナイ。

 自分は、貴方を襲わない。


 変換に時間がかかった。

 つまりこの男は危険がないと言いたいのだろうか?


 うろんな目でサヤが見ていると男はいきなり跪いた。

 中世の騎士も真っ青な、非常にきれいな礼の形であった。


「えぇーっと」


 何を求められているのか、さっぱりわからない。

 男の身ぶり手振りを解読しようと試みる。


 自分、床、お願いします。

 床って何?


 自分をこの部屋に置いてくれという動作だったと気がついたのは、それからしばらくしてのこと。


 出来るかー! と怒鳴るも虚しく、男はサヤの部屋に居着いてしまった。

 その後、日本語を学んだ男が自分は異世界の騎士だと語りだすのだが、この時のサヤはまだ知らない。


 ホントにもう、帰ってくれませんかね。

 私の優雅なアフターファイブを返せ。

 あと、泥だらけの靴を脱げ!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 自分、床、お願いします。が個人的にツボでした。 サヤさんは身振りだけでよく意志疎通できたと思います。笑 ちゃっかり居着いてしまった自称異世界の騎士の話、もう少し先まで読みたいです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ