ねえ、頼むから、もう帰ってくれないか
いつも通りの業務後。
今日は少し帰りが遅くなって、いつも行くスーパーの閉店に間に合わなかった。
閉店間際の値引きは、家計の味方である。
それを逃すことは、決して高給取りではないサヤにはかなり痛い。
月に一度、大好きな洋服を買うためにも、絞れるところは絞ると決めている。
仕方あるまい。今日は残り物で我慢しよう。
冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、家路を急ぐ。
胃袋はいい感じに空腹を訴えており、脳は速度優先のメニューを弾き出す。
自宅に帰りつく頃には、サヤの心はもうすっかり夕食に飛んでいた。
今はもう、この空腹を満たすことしか考えられない。
「たーだいまー……って、何コレ」
実家にいた頃からの習慣で、今は一人暮らしの部屋の玄関で声を上げた。
そして違和感に気がつき、首を傾げる。
おかしいのだ。
玄関の上がり框に足跡が残っていた。
純日本人のサヤには、靴のまま部屋に入る習慣はない。
それにこの足跡は、サヤの靴のサイズより大分大きいようだ。
よくよく見れば、乾きかけの泥で出来た足跡が、点々と部屋の方へと続いている。
サヤは恐る恐る視線を足跡の先、つまり部屋の方へ向けた。
今、サヤは鍵を開けて入ってきた。
つまりドアの鍵は閉まっていた。はずだ。
しかし足跡は、玄関から部屋へ向かう。
そんなバカな。いや、それよりも。
もう声を出しちゃったから手遅れだよね?
もし、本当に誰かがいたら。
様子を窺うも、部屋の電気は消えているし、人の気配はない。
サヤの部屋は、就職して初めて借りたワンルームだ。
駅近く、程々に暮らしやすい立地が気に入っている。
しばらく耳を済ませてみたが、特に物音は聞こえないので、意を決したサヤは部屋に入ることにした。
もし空き巣とかだったら困るし、警察を呼ばなくてはいけない。
そろそろと忍び足で入り、周囲を見渡す。
カーテンの開いた窓から差し込む月の光が、うっすらと部屋を照らし出している。
特に異常はない。
なぁんだ、と拍子抜けしたサヤは知らず力の入っていた肩を撫で下ろす。
足跡なんて気のせいに違いない。
パチリと電気をつけたサヤは、やれやれと首を振った。
考えすぎだ。
さて、着替えて料理でもしようかな、とサヤはタンスに向き合った。
通販で買った、ちょっと可愛いタンス。
ここにはサヤのワードローブがぎっしり詰まっている。
何気なくタンスの扉を開けたサヤの目の前に、一対の光が映った。
近すぎて上手く焦点が合わない。
光はぱちくりと瞬いた。
何だこれ。
見つめあうこと数秒。
息が掛かるくらい近くで、見知らぬ男の顔が困ったようにヘラりと笑った。
「で」
「デ?」
「でたあああああぁあ!」
その後、サヤの悲鳴がアパート中に響き渡ったのは、言うまでもない。
サヤのタンスから現れたのは、若い男だった。
日本人ではないと思う。
顔立ちは何処となく中東系。浅黒い肌に、くっきりした黒目が印象的だ。
彼は全身泥だらけであった。
タンスの中を確認したサヤは半泣きになる。
当然、タンスの中も泥だらけである。
「てゆーか、アンタ誰よ? 何でここにいるのよ!?」
サヤは男に詰め寄った。
お気に入りクリーム色のコートを台無しにされた怒りは大きい。怒りは人を強くする。
男はタンスの中によく収まっていたものだと、感心するくらいに背が高かった。
体格が良いわけではないが、やたらと存在感がある。
「何とか言いなさいよ!」
「*****」
「何言ってるかわからない !」
「***、*****」
「日本語喋りなさいよ! スピーク ジャパニーズ!」
「……」
一切会話にならなかった。
男が口にした言葉の、意味がサヤにはさっぱり理解できない。
英語ですらないようだ。
「……ケーサツ」
携帯電話を掴んだ瞬間、よくない雰囲気を感じたのか、男が慌てて手をのばす。
男は指で自分の腹を指して見せた。
……自分を指すジェスチャーであれば、日本であれば胸、某大国であれば鼻を指差すのが正しい。
サヤがそれを自分を指すジェスチャーだと気がついたのは、奇跡に近かった。
黙って見ていると、次に男はサヤを指差した。やはり指しているのは腹だ。
男は更にいきなりぐわっと両手を頭の上にあげた。
今にも襲いかからんという体勢に、サヤがビクッとして携帯電話を握りしめると、今度は胸の前で立てた手を左右にヒラヒラと振る。
……何故だか最後だけ妙に日本人臭かったが、彼が何かを伝えたがっていることだけは伝わった。
自分、貴方、襲う、ナイナイ。
自分は、貴方を襲わない。
変換に時間がかかった。
つまりこの男は危険がないと言いたいのだろうか?
うろんな目でサヤが見ていると男はいきなり跪いた。
中世の騎士も真っ青な、非常にきれいな礼の形であった。
「えぇーっと」
何を求められているのか、さっぱりわからない。
男の身ぶり手振りを解読しようと試みる。
自分、床、お願いします。
床って何?
自分をこの部屋に置いてくれという動作だったと気がついたのは、それからしばらくしてのこと。
出来るかー! と怒鳴るも虚しく、男はサヤの部屋に居着いてしまった。
その後、日本語を学んだ男が自分は異世界の騎士だと語りだすのだが、この時のサヤはまだ知らない。
ホントにもう、帰ってくれませんかね。
私の優雅なアフターファイブを返せ。
あと、泥だらけの靴を脱げ!