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告白ハートビート

多少ルビに不備があります。ご了承ください。

 夕焼け空が広がる時間帯の河川敷なんて、考えてみれば結構なデートスポットだ。水面に映る夕日が少し眩しいけれど、そんなことどうでもよくなるくらいには美しく感じる。できることなら、あの子と手を繋いでここを歩きたかったな、と心中で呟いてみた。きっとこれは、世間ではみじめな発言として分類されるんだろう。なぜなら僕には、それが絶対に叶うことのない一個人の淡い希望であることがわかってしまっているからだ。

 そう、ほんの数時間前に。

 要するに、失恋だ。それも、『告白したら断られた』という直接的なダメージを伴うたぐいの。

 出会いは4月だった。全国の高校生が、学年が一つ上がってまず迎えるのはクラス替え。張り出された名簿のなかから自分の名前を見つけ、同じクラスに知り合いがどれくらいいるのかを調べるといった誰しも共通の慣習を例に漏れず行った僕が、新しい自分の教室に入っていこうとしたときのことだった。

 教室から出ようとした誰かに、正面からぶつかってしまった。

 僕の顎は相手のおでこに強力な頭突きを見舞われ、一瞬頭に火花が散った。そのとき僕の鼻腔をくすぐった甘い匂いはいまでも印象的で、『ひゃっほい女の子だ!』、なんて素直な喜びを真っ先に覚えたことを覚えている。相手が超絶美女で、この衝突がきっかけで恋が始まって素敵な青春生活を謳歌できるんじゃないか、なんて希望的な考えを抱かなかったわけではない。でも、なんていうかベタだし、まず普通じゃありえない出来事だから、そこまで本気で願っていたわけではなかった。のだけれど……

 それは、まさかの現実だった。『相手が超絶美少女だった』という項目に限り。

 すっげぇ美しかった。どこがどうって、もう全部が綺麗な人だった。長くて絹糸のようになめらかな黒髪、眦がきつくなく穏やかな双眸、控えめながら形のいい鼻、薄桃色をしていて柔らかそうな唇。衝突の衝撃に耐えきれず転んだ僕が体を起こしたとき、相手のあまりの美人さに大いに戸惑いながらその顔をじっと見つめてしまっていた。

 倒れることなくなんとか踏みとどまった彼女はすぐに僕に駆け寄り、こちらに手を伸ばした。


「す、すみませんでした……お怪我はありませんか?」


 申し訳なさそうな表情がまた綺麗で、言葉遣いも上品なお嬢様みたいで感じがよくて。

 恋に落ちるのに、時間はかからなかった。

 というか、これだけ揃っていれば男は誰でもそうだろう。

 至って一般的な感性で且つ、ちょうどその頃恋に飢えていた僕は、その一瞬の出来事だけで彼女――倉葉沙紀くらばさきさんを、心の底から好きになっていた。

 新クラスが始まって数ヶ月、僕は倉葉さんに積極的に話しかけにいった。ここまで恋に正面から挑んだのは、もしかしたら人生で初めてだったかもしれない。彼女はやっぱり優しくて、頻繁に絡んでくる僕を邪険に扱うようなこともせず、むしろ一緒に楽しんでくれているみたいに見えた。そんな彼女の姿を間近に見ていた僕はどんどん彼女への気持ちが膨らんでいって、ついに今日、思い切って彼女に僕の気持ちを伝えたのだけど……


『……あの、……すみません。お気持ちはすごく嬉しいんですけれど……』


 一瞬、頭が耳に入った言葉の理解を拒絶した。でも、目の前の彼女は見るからに申し訳なさそうで、その表情が意味することなど一つしか想像がつかなくて。

「あ、フラれたんだ」ときちんと認識できたのは、ショックによる長時間の硬直が解けたあとだった。


『……あ、はは……あーいや、いいんだ。無理に付き合ってくれなんて言えないし』


『……すみません……』


『謝らなくていいよ。ただその……やっぱりちょっと、キツイかな。……よければ、理由を聞かせてもらえる?』


 結構、勇気出して訊いてみた。すると倉葉さんは少しだけ俯いて、やがて顔を上げるとこう答えた。


「忘れられない人が、いるんです」


「……忘れられない人? 遠距離ってこと? その人に君がいま片想いをしてるとか?」


「どうなんでしょう、自分でもよくわかりません。……ただ、どうしてもその人のことが忘れられないんです。……だから……」


 ごめんなさい。そういうと彼女は、逃げ出すように走り去っていった。

 とても、悲しそうな顔をして。


「――意味わかんねぇよ、ほんと……」


 川に写る夕日をどこか遠く見つめながら吐き捨てる。実際、僕の頭では彼女の言動は理解不能だった。あんなに楽しそうに僕との時間を過ごしていたのに。二人きりで出かけたことだってあるんだぞ。それも、彼女から誘ってくれたんだ。僕のなかでは完全に両想いでいると思っていた。……そう、信じて疑わなかったのに。

 結果は玉砕。それも、「好きかわからないけど忘れられない男がいる」という曖昧な理由で。


「これが女心がわかってないってやつなのか。……わかるかよ。僕とは根本の感覚が違いすぎてる」


 彼女が最後にした、悲しげな表情が思い出される。この際、彼女が天然小悪魔体質な少女だったということでもいい。でも、あの表情はなんだ。

 どうしてあそこで、あんなに悲しそうな顔をしたんだ。


「……もうどうでもいいや……帰ろ」


 重い腰を浮かせて立ち上がり、その場を去ろうとしたそのときだった。後ろから、よく知る声に名前を呼び止められた。


「おーいっ!! つかるーーーっ!!」


 振り返ってみれば、そこには駆け足でこちらに向かってくる友人の姿が。そいつは僕のすぐ目の前で立ち止まると、膝に手を突くこともなくスムーズに息を整えて顔を上げた。運動部だとこうも復活が速いのか。僕だったら間違いなくゼハゼハと荒い息をしている。


「お前、待っててくれっつっといて先に帰るなよ。完全に待ちぼうけしてたぞこっちは」


「……ごめん。なんか、わざわざ教室に戻る気になれなかった」


「まぁいいや。過ぎたことだし、いまはそんなことどうでもいい。結果だけ先に教えてくれ」


 ――そう。絶対に成功すると信じて止まなかった僕は、友人である樋口修也ひぐちしゅうやを教室に待たせて、告白の結果をあとで自慢してやろうとか考えていたのだ。まったく、我ながらどうしようもない思考回路に呆れしか抱けない。

 僕はどう言おうか迷った挙句、素直に白状することにした。


「……まぁ、もう薄々気づいてるだろうと思うけど、振られたよ」


 言うと、修也は「そうか」と呟いて何かを考えるように視線を横へ向けた。それは僕への慰め言を選んでいる様子ではなくて、なんとなく僕を差し置いて何か知っているように見えてしまった僕は、不満を含んだ声で彼に尋ねた。


「……なんだよ」


「いやな、最初俺は、お前たちが晴れて付き合えて二人で帰ったんだと思ったんだ。そりゃあ俺なんかより倉葉さんのほうが優先順位が上だろうし、俺をほったらかすのも無理はないと思った。……けど、ついさっき見かけたんだよ、帰り道の途中で」


「見かけたって、誰を」


「今にも泣きそうな倉葉さん」


 一瞬、耳を疑った。倉葉さんがまだ家に帰っていなかったことよりも、彼女が泣きそうだったということに驚いた。なんで? 僕を振ったことへの罪悪感からか? 思わせぶりにデートに誘ったりしたくせにわけのわからない理由で振って、そこでついに罪悪感が沸いてきたとでもいうのだろうか。

 僕には彼女が、自分の都合で生きているとしか思えなかった。彼女に直接玉砕されているから当てつけてしまっているのかもしれない。でも、どうにも腹立たしさを抑えきれなかった僕は、思わずこんなことを口にしていた。


「倉葉さんの話はもうやめてくれ」


「へ、なんで?」


「あの子は僕のことなんか意識してないってことが今日わかった。あんなに楽しそうだったのは僕への好意からじゃない。自分に開いた穴を埋められて満足してたんだろうさ。……僕なんて、傷心を癒すためのオモチャでしかなかったわけだ」


 言いながら、自分でも悲しくなってきた。涙が出そうになるのを必死に堪える。

 修也の顔をまともに見てられなくなって、僕が顔を背けたときだった。彼は「あっそ」と一言僕に言うと、僕を置いてさっさと歩いていこうとした。


「いいんじゃない? いかにも嫌味っぽくて。雰囲気出てるよ」


「……どういう意味だよ」


「すっげーかっこわるい」


 まるで日常的な挨拶を交わすかのようにさらっと言われたその言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。

 まったくもって、彼の言う通りだったからだ。


「好きな子が泣きそうなんだ。『何があったんだろう』とか、『助けてあげたい』とか思わないの? 振られたらもう関係ねーって? 違うんじゃないかなぁ、それは」


「……………………」


「なんつって振られたんだよ。そこにヒントがあるかもしれないだろ。彼女の問題をお前が一生懸命解決したら、もしかしたら今度こそ付き合ってくれるかもしんないよ?」


「……そんな簡単にいくかな」


「簡単ではないだろうねぇ。けど、何もしないよりは遥かにましだ。違う?」


 僕にはそんな行動力はない。好きな子に振られたら思いっきり距離を取って、今後の学生生活のあいだずっとその子と気まずいまま終わってしまうのが僕だ。万が一にも、僕がここで倉葉さんを気にかけることなんて絶対にない。それは自分がよくわかっている。

 でもきっと、修也の言うことは違わないのだ。ここで行動したほうが遥かにまし。彼女にとっても。そして、僕自身にとっても。

 僕は重い口を開いて、ほんの数時間まえに彼女に言われたことを修也に晒した。


「……忘れられない人がいる、って言ってた。そいつを好きだったのかは自分でもよくわからないらしいけど。だからごめんなさい、って」


 修也は僕の言葉を聞くと、「……なるほどね。やっぱり、そういうことだったのか……」などと小さく呟いた。僕は思わず尋ねる。


「どういうこと? 何か知ってるの?」


 修也は僕と目を合わせ、真剣な様子で言った。


つかる。俺の帰り道、わかるよな」


「わかるけど……校門を出て坂を上がったところでしょ?」


「そう。……実は、倉葉さんを見たのはその坂の途中なんだ。そこには何がある?」


「何って、あの坂には花屋が一つと、あとは大きい霊園くらいしか……」


 声が尻すぼみして消える。言いながら、気づいた。気づいてしまった。

 忘れられない人間、悲しそうな顔、霊園……不思議なくらいはっきりとした、明確な推測が僕の頭を支配する。もう他には考えられない。


「彼女は霊園に入っていった。それも泣きそうな顔で、だ。……もしかして彼女……」


 修也はそこまで言って言葉を止めた。言わなくともわかる。彼が言おうとしたのはこうだ。



 もしかして彼女、大切な人を失っているんじゃないか?



 途端に僕の意思がぶれ始める。だって、もう僕が安易に首を突っ込んでいいような話ではない。彼女のあの表情からして、いまだに傷が癒えていないのは明白だ。僕がしゃしゃり出ることでもし彼女の傷口を広げることにでもなったら、僕はきっと自責にまみれて、彼女と顔を合わせることができなくなるだろう。


「……帰るよ。僕がするべきことなんてない」


「えっ、なんでだよ。どうするべきかなんてもうわかりきってんじゃん。早く追いかけよう」


「逆になんでそういう考えになるのか教えてほしいよこっちは。人が死んでるかもしれないんだよ? どうしてそんななかに突っ込んでいけるんだよ。完全に僕は外野だ」


「……そうかなぁ。俺はむしろ主役なんじゃないかと思うけどね」


 修也の頭のなかにあるビジョンを本気で疑う。こいつ、まさかRPGか何かと同じ目線で物事を見てるんじゃないだろうな。

 僕が付き合ってられないとばかりに帰ろうとすると、修也は僕の腕を掴んでそれを止めた。それどころか、霊園のほうへと向かって思いっきり引っ張っていく。僕は必至に抵抗するのだけど、悲しきかな、帰宅部は運動部には勝てないらしい。みるみるうちに僕は修也に引き戻されていった。

 修也はずるずると僕を引きずりながら言う。


「人が死んだから忘れられません。忘れられないから私は誰ともお付き合いしません。……馬鹿馬鹿しくね? そういうの」


 何を言い出すんだ、と思った。僕は修也に辟易しかける。けれど、こいつの言葉はそこで終わりではなかった。


「身近にいた人を忘れられないのなんて当たり前だと思うんだよね。そんな当然のことを理由にして告白を断ったって聞いていまイライラしてんの、俺」


「なんでお前がイライラすんだよっ」


「まぁ聞けよ。俺さ、お前が倉葉さんに告白するって聞いたとき『やっとか』って思った。だって見るからに両想いだもんお前ら。お前自身自分でそう思ってたくらいだろ。周りから見てもそうだったんだよ。……けど、蓋を開けてみりゃお前は振られてた。まぁ話聞いてりゃだいたい読めたよ。たぶん忘れられない人ってのは倉葉さんにラヴ意識を抱いてたやつだったんだろうさ。告白だってしてたんじゃない? だからそいつに申し訳なくてお前と付き合えねーって言ってんだろ。ふざけてると思わね? いまあんたが恋してんのは誰だよって言ってやりたいね。つーか言う。いまから言いに行く。罪悪感にまみれて告白断るくらいなら、最初から恋なんてすんなってな」


「お前、何言って……」


「人間なんていつも自分が可愛いの。自分中心に過ごしたい生き物なの。寂しけりゃ誰かに会いたいし、悩んだら誰かに話を聞いてもらいたい。誰かを好きになったらそいつともっと仲良くなりたい、付き合いたい……。自分の欲求とか望みを叶えるには必ず誰かを巻き込まなきゃ成り立たないんだよ。『両想いだ』、ってその気にさせられちゃってるお前は、もうとっくに彼女に巻き込まれてるんだ。いまさら降板だって言われたって引き下がるなよ。胸張れよ。きっといま、彼女はお前にこそ助けてほしいはずだ」


 そうは思わない? そう言ってこちらを振り向いた修也の笑顔は、夕日に照らされているからか輝いて見えて。なんというか、どうやらこいつにはヒーローの素質が溢れているらしい。そのうち世界でも救い始めるんじゃないだろうかと思ったほどだ。

 変な自信に背中を押されて、僕は気づけば修也の手を振りほどいていた。いつの間にか修也を追い越し、先陣切って彼女のもとへと駆け出している。

 後ろから修也の声が聞こえてきた。


「ほら、さっさと行ってさっさと付き合っちゃおうぜ! 最後までやって駄目だったらそんとき泣けばいい!」


「いや、もはや駄目ってパターンは存在しないから!」


「いいねいいね! 調子出てきた!」


 夕空の下、僕らは疾走する。

 彼女を救うために。

 そして、僕が救われるために。





   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 私のなかで、彼は日に日に大きな存在になっていった。いつだって明るくて優しいし、一緒にいてすごく元気をもらえるから。あまり周りの人と馴染むことが得意ではなかった私だけれど、彼とはすぐに打ち解けた。二人きりで過ごすことも多くて、彼と一緒にいる時間は本当に楽しくて好きだった。

 彼との出会いは、まるで少女マンガのワンシーンのようなものだった。教室のドア付近で絵に描いたような正面衝突。それが私たちの出会いだった。私はそのとき急いでいたのか、無意識のうちに走り込んでいたらしい。教室から出ようとしたときに、まさにそのとき入ってこようとしていた彼に突進してしまった。私は額にちょっとした痛みを覚えながらもなんとか踏みとどまることができたのだけど、彼は思いっきり吹っ飛ばされて後ろ倒しになっていた。私は慌てて彼に駆け寄って、謝りながら手を差し出した。そうして彼を助け起こそうとしたとき、ふと彼と目が合った。

 不思議な顔立ちをしていた。かっこいいとか、かわいいとかいうのとは違う。ただ、誰がどう見たって彼を悪い人間だとは思わないだろう。それくらい、優しくて穏やかな顔立ちをしていた。

 私が手を差し出したあとも、彼は私の顔をじっと見ていた。呆然としていたようにも思う。私は最初、彼が頭を打って意識が混濁しているんじゃないかと思ったのだけど、彼ははっと気づくとすぐに立ち上がり、自分が平気であることを私に伝えてくれた。

 なんとなく流れで自己紹介して、あ、クラス一緒なんだねって話をして、そのときは別れた。私は彼が少し気になってはいたけど、自分から話しかけることなんてできないし、きっと今日限りで話すこともなくなるんだろうなと思っていた。

 でも、そんなことはなかった。彼はその後も頻繁に私に話しかけに来てくれた。引っ込み思案で友達も少なかった私なのに、彼とはすぐに友達になれた。彼は気さくで明るいからかいつでもクラスの人気者で、友達も多く、それに伴って私の友達もどんどん増えていった。いつしか私はクラスでも性格の明るい部類に含まれ、毎日が楽しくて、飽きることはなかった。

 ……しかし、ある日、私の世界が揺らぐような出来事が起こった。


『好きだ』


『え……?』


『君のことが好きだ。だから、付き合ってほしい』


 私はひどく困った。なぜなら、私は彼をそういう目で見ていたわけではなかったからだ。彼の真剣な眼差しがこのときばかりは少し怖くて、勢いで断って私は逃げ出した。一人帰り道を突っ走って自宅に駆け込み、自室まで辿り着いてようやく冷静に物事を考えられるようになると、今度は明日からの生活が怖くなった。彼と気まずくなるのではないか。そのせいで友達たちと一緒に居られなくなるのではないか。また、引っ込み思案な自分に戻ってしまうのではないか。

 ただただ、怖かったのだ。

 ――霊園のなか、数多く並ぶ墓碑のうちの一つの前にいま、私はいる。過去の出来事を思い浮かべながら、そこに刻まれた名前をずーっと見つめていた。

 夕焼け空の下、|彼の名前が刻まれた墓碑《、、、、、、、、、、、》は、夕日の光を受けて眩しく見えた。私は今は亡き彼に手を合わせることもなく、呆然と墓碑を眺めながらその場に佇んでいる。

 彼は、私に告白したその日に亡くなった。交通事故で、即死だったそうだ。その知らせを聞いて、当時どんなことを思ったのかはあまり覚えていない。ただその日から、私のなかで彼の姿が枷となっている。


「……ねぇ、どうしよう……」


 なんとなく墓碑に話しかけてみる。当然、返事は返ってこなかった。

 今日のことを思い返すと、明日が怖くてしょうがなかった。今回は保身とは違う。もし明日、浸さんが事故で亡くなってるなんて知らせを聞いたらどうしよう。私の恐怖の対象は、ただそれだけだった。

 ――高校2年に進学した初日、私は自宅に当日提出の課題を置いてきたことに気づいて、携帯電話で家に連絡して母親に課題を持ってきてもらおうと思った。私の高校は携帯電話の持ち込みが禁止されているので(といいつつ生徒の誰もこの校則を守っていない)、電話はトイレなどの教師の目につかないところでする必要がある。時間も押していたし、私は走って教室から出ようとした。するとそのとき、教室のドア付近で誰かに正面からぶつかってしまった。

 過去のあの日と、まったく同じだった。

 ここでも何とか私は踏みとどまることができて、でも、相手は盛大に転倒してしまっていて。そして私が慌てて相手に駆け寄って手を差し出したとき、その人と目が合った。状況が似すぎていて、まるであの日をそのまま自分が演じているみたいだった。

 その人は、割と整った顔立ちをしていた。亡くなった彼とは顔つきがまったく違っていたので、私は内心で安堵していた。もしここで顔が彼と一緒だったら、私は正気を保てていなかっただろう。

 ここでも流れで自己紹介して、あ、クラス一緒なんですねって話をして別れた。そのとき私は家に忘れた課題のことで頭がいっぱいだったし、その出来事をそこまで深く考えることもなかった。しかし、その翌日から、嫌でも過去を振り返らなければならなくなってしまう。

 そう、前日に正面衝突をしてしまった相手、浸さんが、私によく話しかけてくるようになったのだ。

 最初は新しい友人ができた程度にしか考えていなかった。けれど、浸さんの私に話しかけてくる回数はとても多く、それは私に亡くなった彼を連想させた。私は時折複雑な気持ちになりながらも、浸さんとの時間を自分なりに見つめてみた。すると、浸さんの人物像が徐々に透けて見えてきた。彼の優しさや明るさは、亡くなった彼のそれとは明らかに違う。浸さんは人と話すとき、その話す相手のことだけを考えて話してくれるのだ。私と話すときは私のことだけを考え、別の友人と話すときにはその人のことだけを考えて話してくれる。それは、亡くなった彼にはない要素だった。亡くなった彼は人気者だったし、それに当時は子供だったから、誰かと会話をするのにそこまで深い意識はできなかっただろうとは思う。けれど、私ももう大人になった。私には私の他人の評価基準というものがあって、浸さんのその姿勢は私の心をどこかくすぐるものがあった。だから私も進んで彼と過ごすようになり、彼のことを意識するようになっていった。

 浸さんは次第に、私にだけ見せてくれる表情をするようになった。いつだって私のことをしっかり見てくれて、いつだって私のことをちゃんと考えてくれるようになった。そんな彼との時間はいつだって楽しかったし、どこか心が癒されるように思えた。いつしか私のほうからも彼をデートにお誘いするようになり、私も彼のことをちゃんと考えるようになった。自分でもわかる。私は、浸さんに恋をしたのだ。あの日彼が亡くなってから、一度もしたことがなかった恋を。

 でも、恋を自覚してから私は、自分のなかにある枷に一層悩まされることになった。亡くなった彼の輪郭が、私の気持ちが浸さんへと向かうことを阻止しようとするのだ。私には、亡くなった彼を幸せにすることができたはずだった。でもそれを自分勝手に切り捨ててしまい、そうして彼は、そのまま――


「――あなたと知り合うことがなければ……きっと、こんなに悩む必要はなかったんだろうね」


 墓碑にそう語りかける。言いながら、自分はいま酷いことを口にしているんだろうな、と漠然と理解した。でも、言わずにはいられなかった。だって、私がいま好きなのは浸さんだ。なのに、どうしてこんなにもあなたを考えずにはいられないのだろう。

 ほんの数時間前に、浸さんに告白されたときの場面を思い浮かべる。浸さんは真っ直ぐ私の目を見ながら、少し緊張した様子で気持ちを言ってくれた。すごく、嬉しかった。涙が出そうだった。私のほうもだんだんと緊張が込み上げてきて、私は思い切って、自分の気持ちをそのまま彼に伝えようとした。

 ……言えなかった。

 枷に想いを絡め取られて、気づけば、断りの言葉を口にしていた。

 浸さんは最初、固まっていた。それはそうだと思う。だって、私は浸さんに好意を何度も示しているのだ。きっと、了承の言葉を得られると自分でも感じていたんだろう。むしろ、断る私のほうがイレギュラーだ。きっと、次には怒られるんじゃないかと思った。それくらい、私が浸さんにしたことは常識の範囲外のことだ。

 けれど……



『……あ、はは……あーいや、いいんだ。無理に付き合ってくれなんて言えないし』



 どこか陰った、小さな微笑み。彼は、笑ったのだ。少し乾いてはいたけれど、怒鳴るでも、ふて腐れるでもなく。

 私の前では、笑ってくれたのだ。

 あまりにも優しい彼をいま傷つけているのが私だと思うと、胸が締め付けられそうだった。そして結局、私は逃げ出した。

 浸さんの気持ちからも、私自身からも。


「――っ」


 涙が頬を伝う。止めどなく流れてくる雫は止まりそうもなくて、私は漏れ出そうな嗚咽を必死にこらえながら、思い通りにいかない自分をひたすら呪った。

 どうして、こんなにも上手くいかないんだろう。誰かを好きになっただけで、どうしてこんなにも苦しいんだろう。過去に衝撃的な出来事を経験しているから? その罪悪感が私を支配して止まないから? ふざけないでよ。私がいま好きなのは浸さんなのに。ただ、彼を大切にしたいだけなのに……。

 いまこの瞬間でさえ、彼が事故に遭ってたりしないかと考えると頭がおかしくなりそうだった。もし本当に彼が亡くなってしまったら、私は、きっと……



「――倉葉さんっ!」



 一瞬、世界がすべての動きを停止させたんじゃないかと思った。だって、耳に入った声は私が普段よく聞く声で、その人はほんの数時間前、私が傷つけてしまったはずで。

 すぐにでも彼の姿を見たかった。でも、怒ってたらどうしようと不安な気持ちもどこかにあって、私は恐る恐る、声のしたほうを振り返った。

 そこでは、浸さんと、友人の修也さんが肩で息をしながら、膝に手を突いて立っていた。


「ふぅぅぅぅぅ……ふうっ。ほら浸、行ってこいよ」


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、あーくそ、はぁっ、息整わない……っ」


「なんで決め寸前でかっこわりーんだよ。しっかり勝ち取ってこい」


 どんっと修也さんに背中を押された浸さんは、千鳥足で前へ出ながらバランスを崩し、私の目の前でべちゃっと崩れ落ちた。彼は息苦しそうに反転して仰向けになると、これでもかってくらいに息を吸い込んでは吐いていく。大丈夫なのかな、と私は不安になって、彼を助け起こそうとした。そのとき、彼がちらっと私を見た。

 彼は私の顔を見た途端、辛そうな表情から一転、驚いたような表情へと変わった。理由はすぐにわかった。だって、いま私、涙を抑えきれていない。

 彼は立ち上がろうとして体を起こし、途中でよろけてまた尻餅をついた。それでも目だけはちゃんと私を見てくれている。私が好きな、彼の優しい目だ。


「……えーっとっ、涙を流してる女の子を前にした経験が極端に少ないから、あんまり気の利いたことは言えないけど! なんか辛いことがあるなら、話してくれれば一緒に考えるから!」


 叫ぶように彼が言った。まだ息が上がっているからか所々で声が掠れていたけれど、でも、私にはちゃんと伝わってくる。


「その、忘れられない人ってのがどんな人だったかはわかんないけど! 罪悪感を感じてるんなら、僕も一緒にそれに付き合うから! もし僕とそいつを重ねてるんならそれでもいい! 全部、僕が一緒に付き合うから! だから……っ」


 私はもう、水っぽく歪んだ視界を晴らすことも忘れていた。嗚咽はすでに止めることができなくなっていて、思わず口元を手で覆ってしまう。頬を濡らす雫は何筋もできあがり、それらは私の手を、顎を濡らして落ちていく。


「……だからっ! 君は、僕と付き合ってください! 絶対幸せにする! 確証があるわけじゃないけど! でも、楽しい時間を君と作っていけるように頑張るから! いつか、君が僕の知らない誰かのことを考えないようにしてみせるから!」


 ――だからっ、付き合ってくださいっ!


 大空に向かって言い放った彼の言葉が、私のなかに浸透して、響いた。信じられない気持ちと嬉しい気持ちがない交ぜになって、どうしたらいいかわからなくなる。

 向こうでは修也さんが、浸さんを見て、「ははっ、かっけーじゃん!」と満足そうに笑っていた。そう、かっこいいのだ、彼は。一途に、真っ直ぐに誰かと向き合える人だから。私は、そんな彼に惹かれたのだから。

 やっとのことで立ち上がった浸さんは、一歩一歩、少しずつだけど私に近寄ってくれた。私の頬を伝う涙の量が彼の想像を超えていたのか、彼は困ったように私に笑いかける。あぁ、また私は彼を困らせている。けど、今回はそんなに悪い気はしない。

 一度は彼を切り捨ててしまった私だけど、彼はそんな私を追いかけてくれた。ちゃんと自分の気持ちを、私に伝えに来てくれた。

 だから私も、伝えようと思う。どこまでも優しくて、誠実な彼に。

 自分の本当の気持ちを、今度こそ、間違えないように。







                                     了





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