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「試着室で若い女性が掻き消えるという話は聞いたことがあるけれども。」


「それはただの都市伝説でしょう。」

 焦るな、と呪文のように心の中で唱えながら、金花は首から提げた翡翠を片手で、試着室に残されていた店の制服の上衣をもう片手で力一杯握り締めた。

 銀花が、自分の服を残して突如失踪するなぞ有り得ない。

 ただしそれは、自分の意思で、だったらの話だ。


「……私たちは黄家の娘。此処で無事に暮らしたいなら、手を出す者はいません。」

 自分に言い聞かせるように口にすると、とりあえずは人の少ないところへ、と大通りに繋がる路地に金花を連れて来たエンは、彼女の顔を覗きこんだ。

「それは、龍の守護があるから?」

「そうです。」

 金花は目を閉じて答えた。どうしてこんな時に、まだ会ったばかりの異邦人と話し合っているのだろうと考えると、少しだけ気が紛れるような気がした。

「でも、今は華節。観光客に交じって、不埒な者がここを訪れるには最適な時分だ。」

 エンは冷静に指摘すると、声を落として付け加えた。


「おまけに、龍は不在。」


 近くの寂れた商店の軒先に吊るされた虫籠の中から、巨大な蟋蟀が嘲うように鳴いた。

 金花は目を見開く。

「どうして、」

「解ったのか? ……見れば解るんだ、俺には。」

 君のお祖父さんにはそれが解ったみたいだけど、とエンは言葉遊びのような台詞を吐いた。

「本当は、君には解るはずだ。」

「……何のことです!?」

 謎掛けのような彼の言葉に、苛立ちを隠せずに金花は叫んだ。

(相手のことが離れていても解るという、双子の能力が本当だったら良かったのに、銀花の無事が解ればいいのに!)

 落ち着いていられるわけなどなかった。呼吸をするたびに、不安で動悸が駆り立てられていくのを抑える術などない。

「本当に知りたい?」

「何を今更!」

 ついに金花は声を荒立てた。エンは驚いた様子もなく、ごめんね、と謝ってから言葉を続けた。

「それが望まれていないことだとしても? もう、今の状態には戻れなくなったとしても?」

 雲が陽を遮り、路地は一瞬にして影に包まれた。


 声音に潜んだ何かに、ぞわりと鳥肌が立った。覆布の一端に、闇雲に探る指が掛かった、と感じた。その下に隠され続けてきた、何か。今ならまだ目を逸らし、無かったことにしてしまえるその存在。――銀花の秘密。


 銀花が何かを隠していることを金花は気付いていて、金花が気付いているということを銀花は知らない。


「銀花を助けられるなら、何を犠牲にしても惜しくないわ。」

 顔を上げて、金花は告げた。それしか術がないならば、たとえ銀花が望まなくても、自分はそれを知らなければならない。

 覆布を取り去るのは、自分の意思だ。

「やっぱり、仕方ない、か。」

 エンは自分を納得させるようにひとりごちると、腰を曲げて、金花と目線を同じ位置に合わせた。

「集中して。俺の眼を見て。」

 言葉と同時に両肩を掴まれ、金花は呆気にとられて彼の瞳を真正面から見返した。すでに傾き始めた午後の太陽の光に透けて、先ほどまで焦茶だったエンの虹彩はとろりと淡い琥珀色をしている。その中で放射線状に広がる筋が収束する中心には、闇の色をした瞳孔。

 その向こうに、

(何か、が)

 金花は無意識のうちに眼を凝らした。虫の羽音のような耳鳴りが襲ってくる。乾いた眼球が痛むのに、瞼を下ろすことさえできない。警告、そして、それを上回る誘引力。まるで深淵を覗き込むがごとくに息を詰めた。


 意識が吸い込まれた先、瞳孔の奥で、もう一つの瞳が緩慢に開いた。

(え?)

 金花が息を飲んだ途端、表面の瞳孔が針の先ほどに収斂し、瞬時に拡散した。開いたばかりの二つめの瞳が見えなくなり、ふたたび現れたときには、一つめの瞳と同じ大きさに広がっていた。虹彩と瞳孔が揺らめきながら重なる。

 二重の瞳の中に、驚いた表情の、自分と同じ顔をした少女が映ると同時に、金花は水の中に叩き込まれた。



* * * * * * * * * * * *



 刺す光に疼く眼、赤子の泣き声。「名前は?」傍らのぬくもり、身体を揺らす温かな波。涙?(違う、此処は)一転する視界、滄海に浮かぶ美しい島。港を見下ろす酒楼、入り組んだ路地。「私たちは黄家の娘。」往き交う人々、変貌する街。別れは哀しくとも、それは再びあいまみえるための。「男であれば鱗、女であれば花。」いたるところに施された鮮やかな祝祭の装飾。数え切れぬほど過ぎる華節、等しく夜空に咲き誇る花火。降り注ぐ煌めき、火花が身体に触れるたびに聞こえる軽やかな音。遠く響く歓声、昂り魘されるような熱。放たれた矢のように、一心に真下を目指す。やわらかな水面、揚がる飛沫。


 身体を擽る気泡のように、次々と現れる記憶と感情。


 思い出しうる限りの、この眼に映った表象を潜るように遡る。

 凡てを呑みこんでなお余りある蒼穹、中心に浮かぶ輝く真円。臆することなく見上げ、こちらを振り返る人影。「あれは、太陽だ。」人の言葉は物の象形。それ自体が定義であり、またそれを使ってしか定義できない。「お前の目に映る世界は、一体どんなものなのだろう。」形容できない、なぜなら私は言葉をもたないのだから。命名と分類。定義によってなされる存在の認知。(ならば私は?)知りたい、知ってほしい。欲望と落胆、希望と実現。磨られる墨の香、筆先に染む黒。広げられた巻紙、綴られる文字。歴史、私の記憶、記録、私の感情。私の、あなたのための。「契約と枷。」流れるように、満ちるように、崩れるように。失われていくものたち。生まれてくるものたち。記される万象、受け継がれる血脈。「裏切られてもしらないよ。」それでもいい、私は裏切らない。祝福と誓約、束縛と守護。恐れはしない、ありあまるほどの自由を引換えにしても惜しくはない。繰り返される別離、そして再会。(人にとっては永い時でも、私にとっては瞬きの間に。)ただ夢が見たいだけ見ていて欲しいだけ、私は現の世で生きてゆく。


 無音に包まれてたゆたい沈みゆく流線形の身体。暖かさも明るさも、もはや遠い。(ああ、此処は、)


 海の底だ。


 嘗て私が生まれたところ。潮流さえも届かない、どこよりも静かで、冷たい場所。私は、ひとりで、自由に、束縛することもされることもなく。異形の珊瑚、砂上の紋様、すべてが静止した中で、ただ一つ動くものといえば、遥かな頭上で通り過ぎて行く円い光。


 私は、あの眩しい黄色の珠を追って。


(あれは何?)

 上昇、近づく水面、抵抗を突き抜けて飛び出した先の光の疼き。

(まるで、もう一度生まれたようだと)


「鱗花。」


 名前を呼ぶ声が聞こえる。

 私が初めて逢った、私を定義した、人間の。


『お前は、龍だ。』


 ……人の夢より出でて、其処に還るもの。


 金花は、口を開くと、心の赴くままに、半身の名前を呼んだ。



「――銀花!」



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