Ⅲ
「こちらが銀花、こちらが金花です。」
紹介された少女達は、老翁を挟むようにして立ち、名前を呼ばれる度に会釈した。エンも立ち上がって、軽く頭を下げる。
容貌だけでなく背格好も同じ二人は、酒楼の制服に身を包んでいた。薄黄の上衣の首をなかばまで覆う詰まった襟に、それを留める釦代わりの組み紐、そして両側の裾に入った浅いスリットは、蜃邑の伝統衣装の特徴だ。その下には動きやすそうなくるぶしまでの長さの黒のズボンを穿いていた。首から赤い細紐で下げている翡翠の璧の大きさまで揃っている。
こちらは『白の塔』からいらっしゃったエン・アキツさん、と少女達に説明してから、瑛鱗は若い学者に向き直った。
「この二人は私の孫、そしてもうお分かりでしょうが、次代の当主候補でもあります。」
私はこれから華節の準備のために席を外さなくてはならないのですが、と瑛鱗は卓の上で両手を組んだ。
「この二人に街をご案内させましょう、というのは、」
老翁は一端言葉を切り、自分の発言を吟味したようだった。
「龍が当主を選ぶ時期は、多分もうそろそろでしょう。……もしかしたら、貴方は本当の百科事典を見ることが出来るかもしれません。」
「……。」
エンは思わず、同じ顔をした二人の少女を見比べた。
「それに、貴方は蜃邑にいらしてからというもの、ずっと調査に掛かりっきり。この調子だと、まったく観光をせずに帰ってしまわれそうだ。本来の目的とは違うことは重々承知しておりますが、少しでもこの街を見て頂かないことには、蜃邑の二つ名が泣きます。」
温厚な口調に篭められた、妙な気迫にエンはただ礼を述べるしかできなかった。
夜には帰ってきてください。華節前夜の花火が此処からだと綺麗に見えますし、私が腕をふるって――黄家直伝の料理で、おもてなしいたします。
そう言い置いて瑛鱗は矍鑠たる様子で席を外し、後には少女達とエンが取り残された。
最初に茶壺の片付けをした少女が銀花、後で蝶に伴われて来たのが金花だ。紹介ともいえないような簡潔な説明、の割にさらりと重要な発言を混ぜられ、三者とも戸惑いを隠せない。
たとえ原本が見られるとしても、龍による当主の選択というものに学者としての好奇心が疼くとしても、転ずればそれはこの少女達のうち一人が選ばれない場に外部者のエンが居合わせてしまうということである。それが解ってしまっただけに、お互いに居心地が悪い。
(……写しの百科事典を読んでる方が、まだましだったか?)
少女達が自分にちらちらと視線を送るのを見て、エンは空を仰ぎたいような気分で思った。
* * * * * * * * * * * *
行きたいところ、と訊かれても、調査のためだけに街を訪れたエンは蜃邑の名所も何も知らない。何せ『白の塔』所在地との時差が何時間かも調べずにやって来たくらいである。
とりあえず、ということで三人は繁華街に向かった。
「蜃邑で有名なものといえば、ショッピングと食べ物です。」
この街の通りは、大抵が細く入り組んでいる。
それは島の面積が小さいからというのもあるだろうが、古来からの、人が歩いて固めた道をそのまま使ううちに街が発展したのが理由の大半を占めるだろう。
坂を下りながら先を歩く少女が周囲の様子を説明する。もっぱら話すのは彼女で、そこに時折エンが質問を差し挟み、もう一人の少女は黙って二人の後を着いてくる。同じ姿をしていても、性格まで同じわけではやはりないようだった。
「この時期になると、いたるところにあらゆるものの露店が出るんですよ。」
「ええと……君は金花さん、だよね?」
繁華街の後は港へ、それから新市街を経由して酒楼に戻りましょう、と計画を立てている少女に話しかけると、彼女は驚いたように振り返った。
「あら、呼び捨てで構いませんわ。……私たちの見分けがつくんですか?」
凄いわ、と金花は素直に感心したように言う。
「両親でも見分けがつかないこともあるのに。特にこんな同じ服を着ていたら……もちろん私が喋りはじめたらすぐに区別はつくけれど。ねえ、銀花。」
俯いて歩いていた銀花は、そうね、と短く相槌を打った。
「あ、えーと、勘だ、勘。」
エンは慌てて手を振った。
「純粋に好奇心に駈られて訊くんだが、答えたくなかったら答えなくてもいい。その、君達二人の内から次期当主が選ばれるんだよな?」
一人ははっきりと、もう一人は落ち着いて、そうです、と少女達は同じ声で返事をした。
「選ばれなかった方はどうなるんだ?」
意地悪な質問かもしれないと思ったが、金花は気分を害した様子もなく答えた。
「選ばれなかった子供は、島から離れなければなりません。」
「血族同士の権力争いの名残りでしょうか、当主以外の一人が蜃邑に留まることは許されないのです。時代錯誤のようにも思えますが。というわけで、私は、母、つまり当代当主の双子にも、祖父、こちらは先代当主ですね、の双子にも会ったことがありません。」
無造作に明かされた慣習に、エンは一瞬足を止めた。
これは、エンの知る理で動いている世界ではないのだという事実を、目の前に突き出されたような感覚があった。
「……龍というのは、どうやって当主を選ぶんだ?」
「さあ。」
やや躊躇ってから言うと、金花は首を傾げる。はぐらかしている様子はなく、本当に知らないようだった。
「確かに私達は黄家の双子ですが、実のところ、龍とは一体何なのか、私たちにも解らないのです。母も祖父もそのことについては、詳しくは教えてくれなくて。」
「時が満ちればおのずと解るものだから、と。」
金花の返答に銀花が付け加える。
「いくらなんでも、絵に描かれているような、角と手足が生えた蛇みたいな形をした龍がやって来るというわけではないと思うのですが、」
たとえばあのような、と笑みを含んだ目で金花が差した街灯には、黄色い紙で作られた龍が絡みつき、ゆらゆらと揺れる度に金の眼と鱗を上から光らせていた。
「……そういえば、さっきから黄色の龍ばかり見るけど。」
「それは祝融と契約した龍が、もっとも高位の龍だったと云われているからです。」
金花はそう云って、宙に五つの頂点を持つ星を描くようにした。
「ごくごく簡潔に言ってしまうと、ですね……まず万物が流転するのはこの世の定め、そしてその流れは滞ることなく互いに相生、相克する五つの要素の中を循環します。この五要素を顕す色が定められ、またそれぞれの色を持つ龍がいるとされています。」
「そうか、こっちは四大要素じゃないんだったな。五大要素というのは、俺には馴染みがない観念だけど……その龍の中で、一番が黄色?」
「そうです、黄龍。凌では皇帝の御印とされていますね。」
そんな龍を蛇みたいと言ってしまったことや、こんな説明をしたなんて祖父には仰らないでくださいね、と金花は悪戯っぽく言った。エンは相槌を打ってから、金花が視線を転じた際に僅かに眉根を寄せた。
祝融が出会い契約した龍は黄色、そして一匹だったというのが蜃邑の伝説らしい。しかし金花の話によれば、その龍は最高位でこそあるものの、その他に最低でも四匹、それも様々な色の龍が居ることになる。
(龍の数が増えたのは……凌の影響か? それとも、凌の皇帝のシンボルと蜃邑の開祖が契約を交わしたというのは、何かを具体的に暗示しているのか?)
例えば、童話に寓意が常に潜んでいるように。
――どのような綺麗事の裏にも。
エンの思考は、少女の明るい声に唐突に遮られた。
「あっ、蛋撻!」
通り過ぎたばかりの屋台の上には、小型のパイのようなものが山と積まれている。
「ここのは美味しくて評判なんですよ。ちょっと買ってきますね!」
返事を待たずに走り出した金花を引きとめようとしたエンを押し留めたのは、隣から聞こえてきた言葉だった。
「何かは解りませんが……それでも、大切なものだということは、解ります。」
何が、という目的語は、先程の金花の言葉にかかるのだろう。
あらゆることを深読みし、裏の意味を汲み取ろうとするエンを窘めるような口調だった。声量は注意しなければ聞こえないほど小さく絞られていたが、それははっきりとエンの耳に届いた。
金花が動だとすれば、銀花は静だった。金花を形容するのが無邪気という言葉ならば、銀花には沈着という言葉が相応しかった。同じ顔でも正反対の印象を与える表情で、銀花は続けた。
「祝融曰く……龍とは、人の夢から出でて、其処に還るものだ、と。」
静かな声だった。抑えきれない愛おしさを封じ込めたような。
思わず気圧されて、エンは銀花を見下ろす。
少女は真直ぐにこちらを見ていた。暫く見詰め合って、先に目を逸らしたのは、エンだった。
「ただの好奇心で、色々と悪いことを訊いた。すまない。」
謝罪して金花の後を追うエンの後姿を銀花はじっと見つめた。
「それだけだったら、いいのですけれど。」
今度の言葉は誰にも届かずに、太陽に灼かれた石畳の上に落ちた。