Ⅱ
蜃邑に流れ着いた祝融は、龍に出会ったのだという。
そして、いかなる経緯を辿ってか、彼と龍は共に蜃邑を拓いた。
「祝融が龍を使役した、ということですか?」
エンの質問に、瑛鱗は首を振った。
「いいえ、そうではなく、両者は対等に……契約を交わしたのだと云われています。」
詳細は伝えられてはいませんが、と言って、老翁は微笑した。
「それは今でも黄家の中に脈々と生き続けているのですよ。たとえば、」
言って、老翁は首を傾げると指を折った。
「黄家の跡取りはいつも双子として生まれます。」
「いつも?」
「必ず。」
訝しげな顔をしたエンに、瑛鱗は断言した。
「龍の名に因んで、男子であれば鱗、女子であれば花の字を双方の名に用いるのが決まりです。そして、時が満ちると、龍が、その内の一人を黄家の当主に選びます。」
エンは茶杯を持ち上げかけていた手を止めた。それでは、と確認するように聞いてみれば、私は先代の当主でした、と鱗の字を名に持つ男はあっさりと認めた。
「そして、貴方にお見せしたのは、その龍が書き、祝融に与えたとされている百科事典、の、写しです」
聞き捨てならない一言に、つまりは龍からの贈物ということになるのでしょうか、と続けた老翁をエンは遮った。
「それは是非、原本を拝見したい、いえ、原本と写本を照らし合わせてみたいのですが、」
「残念ながら、原本は黄家の当主にしか開くことを許されていません。」
エンの不躾な振舞いを気にした様子もなく、瑛鱗は落ち着き払って答えた。
「私は当主を退いた身ですから、原本に触れることはもはや出来ません。それが可能なのは、現当主の暁花……これは私の娘ですが、彼女は今、凌との折衝のために蜃邑を離れております。」
最後の言葉を口にした時だけ、老翁の目に押し殺しきれなかった光が過ぎった。
隣の大国が、蜃邑に対して干渉するのは現在に始まったことではないが、最近その度合いが過多であることは、少しでも国際情勢に興味がある者にとっては明白な事実だ。
酷なようだが、これまでが幸運に過ぎたのだ、とエンは思う。
たとえ蜃邑が豊かな都市だといっても、軍事力、そして資源において、この小島は大陸の凌に遥かに及ばない。ましてや後ろ盾となってくれる他国もないとあっては、蜃邑が凌に取り込まれるのも時間の問題かと思われた。
そこまで考えて、ああそうか、とエンは表情を動かさないまま心中で納得した。『白の塔』に所属しているといっても、若手であり、言い換えればまったく知名度のないエンのような史学者が、かようにも丁重にもてなされる理由に思い当たったのだ。
『白の塔』は世界最高の国際的な学術機関であり、そこに集積された知識と人材の有用性のために、この組織が諸国に与える影響は決して少なくない。街の助けとなるならば、と僅かな可能性に賭けて細いコネを作るためにも、希書の閲覧を希望した学者を厚遇しているのだろう。それは溺れる者が藁を摑むにも似た、手当たり次第の自救行為の一環だ。
俺は藁っていうより糸屑だけどな、といささか自虐的に考えて、エンは何杯目かの茶を啜った。
* * * * * * * * * * * *
「というわけで、暁花が帰るまで、原本をお見せするわけにはいかないのですが、」
言い差して、瑛鱗は指先で軽く卓の表面を叩いた。空になった茶壷を取換えにきた女性に対する叱責かと、ひそかに身構えたエンの視線の先で、まだ少女と呼んだ方が相応しい年齢の店員は微笑んで老翁とエンに会釈した。
「ああ、これは蜃邑に伝わる風習の一つなのです。――銀花、お前は此処に居なさい。」
瑛鱗が親しげに声を掛けた少女は、無言のまま軽く頷くと、老翁が座る後ろに控えた。黒い艶やかな髪を編み上げ、伝統服を纏って、滑らかな仕草で音を立てずに動く様子は、まるで作り物のような印象を与える。
それというのも、少女の顔立ちが非常に整っていたせいもある。まだ十代の後半には達していないだろう。黒目がちの瞳は大きく、そのまわりを扇状に生え揃った長い睫毛が囲んでいる。なめらかな桃色の頬はあどけなかったが、すっと通った鼻すじやその下の紅い唇は、はやくも数年後の艶美さを垣間見せていた。
「さきほどの話に戻りますと、祝融の本職は料理人だったという説もあるのです。此処には、不老不死の薬ではなく、未知の食材を求めてやってきたとか。つまりは、龍を食べるつもりで。」
エンの疑惑を見てとって、老翁は楽しげに目を細めた。
「偉大なる阿衡もはじめは料理人であったのです。そんなに奇妙なことでもないでしょう。」
隣の大国の建国史上の英雄の名を挙げると、瑛鱗は酒楼を見渡した。
「そして結局、龍を食することを諦めた祝融は、龍と親交を結んだ後にこの酒楼を開き、徐々に蜃邑に集ってきた人々をもてなしました。その当時は、龍も人に交じって、此処で食事を楽しむことがあったと言います。」
竜も祝融も、偉大な存在として人々からは崇敬に似た感情を寄せられていたが、両者とも大袈裟な挨拶や堅苦しい礼儀作法で迎えられることを好まなかった。ゆえに、来店者は、両者の存在に気がついたときは、右手の中指と人差し指で軽く卓の表面を二度叩くことによって、礼に代えたと謂う。
「それが、今では、酒楼で店員に接客されたときの作法となっているのですよ。」
そして、黄家も今に至るまでこの酒楼を経営しているのです。
そう言って、瑛鱗は話を締めくくった。
「やはり、学者の方には、このような話は信じがたいものですか?」
「いえ、どのようななことも、それが不可思議だからといって、真っ向から否定することが許されるわけではありません。」
問われて、エンは慎重に答えた。
「確かに、伝説や口碑には、実際に存在してはおかしいだろう、理に反するだろう、としか思えないようなことが数多く含まれます。しかし、反面、それらが記録された、ということは真実なのです。そして、それらの由来、つまり一体どうしてそのような存在を当時の人々が信じていたのか、またどうして同じような架空の存在が地理的な繋がりのないところで語り継がれてきたのか、ということを探ることも史学者の仕事の一つであり、また、それらは、遺跡から発掘される出土品から学び取れるものと等しなみに歴史の道筋を指し示すことができるのではないか……と、俺は、思っています。」
お世辞にも流暢と言えない口調でエンが持論を語ると、老翁はなぜか満足げな顔で聞き入ってから、一つ頷いた。
「良いご意見を聞かせて頂いたのと、年寄りの長話にお付き合い頂いたお礼に、ささやかな芸をお見せしましょう。」
「お祖父さま。」
それまで黙っていた少女が制止の声を上げるのを、瑛鱗は鷹揚な視線を向けるだけで抑える。懐を探り、小さな鋏を取り出すと、ランチョンマット代わりに敷いてあった菜譜を切り始めた。
瞬く間に剪紙で蝶が形作られる。老翁はそれを掌に載せると、ふっと息を吹きかけた。
すると、紙の蝶はひらひらと舞い上がった。
薄い翅が不規則で頼りない軌跡を描く有様は、まったく本物の動きと違わない。そのままそれは命を得たごとく天井近くを一周し、店の奥へと羽ばたいて消えた。
後には、蝶の形が切り抜かれた菜譜だけが、老翁の手の中に残る。
「種も仕掛けもない、とは言えませんね。龍との契約の片鱗が、未だ黄家の血に残る証です。」
「……有難うございます。しかし、俺なんかに見せてしまって、いいんですか。」
エンは戸惑いを隠さずに訊いた。大掛かりではないものの、人知を超えた能力である。初対面の人間に見せるようなものではない。
「貴方になら、構わないでしょう。」
あっさりとした返事に、エンは微かに眉を顰める。言葉の裏に秘められた意図を探ろうとした試みは、もう一人の店員が近づいてきたことによって破られた。
「お呼びですか、お祖父さま。」
先導するように飛んでいた蝶が、ぱたりと卓に落ちて只の紙片に戻る。
現れた店員は、老翁の後ろに控える少女と同じ顔をしていた。