Ⅰ
『(一)皇帝に帰属するもの
(二)芳香を発するもの
(三)調教されたもの
(四)幼豚
(五)人魚
(六)架空のもの
(七)野良犬
(八)この分類に含まれるもの
(九)狂ったように震えているもの
(十)無数のもの
(十一)立派な駱駝の刷毛をひきずっているもの
(十二)その他のもの
(十三)花瓶を割ったばかりのもの
(十四)遠くで見る蠅に似ているもの』*
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(これはなんだ。)
書物から顔を上げて、エンはひとまず言葉を探すことにした。これがいみじくも動物分類に関する記述だとは、いかにこれが古い百科事典だとしても信じたくないというのが正直なところである。悪い冗談だとしても、まったくもって笑えない。
一番目はこれが作成された時代背景の問題かもしれないが、二番目の項目を作る意味が分からない。それに続く三番目は家畜の意味だと曲解するとしても、育ちきった豚は四番に該当しないのかとか、躾のなっていない飼い犬は七番にも三番にも当てはまらないのかとか、とにかくにも謎が残る。謎といえば、五番目は動物か否かを問う前にそもそも存在しているのだろうか。どちらかといえばその次の項目に含まれる気がするが、この六番目も動物分類の範疇とは思えない。八番と十二番となっては、分類を旨とする百科事典においては許され難いほどに茫漠としている。
……九番、十一番、十三番、十四番にいたっては意味不明である。
傍から見れば無表情でも、内心では頭を抱えきっている若い学者の前に、馨しい匂いを漂わせる白磁の小さな茶杯が置かれた。
「一息入れられたらいかがですか。茉莉花茶です。」
「多謝。」
茶道具一式を盆に載せて運んできた老翁は、それを卓の上に下ろすと、エンの正面に腰掛けた。彼が自分にも茶を注ぐ間に、エンは読んでいた巻物、つまり奇妙奇天烈な百科事典をくるくると巻いて元の状態に戻すと、隣の卓に慎重に置いた。
「どうです、それは。」
「……とても興味深いです、黄大人。」
あまたの疑問を押し込めて、エンはとりあえずあたりさわりのない答えを返した。好意によって閲覧を許された以上、稀書の持ち主の機嫌を損ねるわけにはいかない。
返事に、街の有力者であり、この書物の所有者でもある黄瑛鱗は整えられた長い白髯の向こうで含み笑いを洩らした。
好々爺然とした表情ながらも、その様子は妙に一筋縄でいかないものを感じさせる。言ってしまえば、こちらの困惑を楽しんでいるように見えるな、とエンは花の香りのする熱い液体を啜りながら思った。
確かにこの書物の人を食ったような内容といい、妙な制約がつけらている今回の閲覧といい、そう考える方が自然な気がした。
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世界的な学術機関の最高峰である『白の塔』に所属し、これまであらゆる場所に赴いては、古い百科事典を調べてきたエンにとっても、今回は型破りなケースだった。
まず一つめに、この蜃邑という土地の特異性がある。
赤道の近くに位置する島全体が一つの街となっているこの場所は、街と島が同じ名前を冠し、その面積の小ささにもかかわらず貿易の中継地として繁栄と発展を続けてきた。古来から、絶南の宝珠、滄海の楽園、と詩文に謳われた風光明媚な土地であるが、現在では当地を訪れる観光客の主目的は、住民がかたくなに守り続けた独特の建造物や慣習と転じている。
しかし蜃邑が特殊なのは、その文化だけをもってしてのことではない。
蜃邑は、どの国にも属していないのだ。
かといって、この島自体が一つの国かというとそうでもない。形式としては、隣の大国である凌から離れ、島民が自治を行う経済特区、と称されてはいる。
称されてはいる、と表現する時点で曖昧さが残るのは、蜃邑の自治権というのがどのような由来を持つものなのか明確にされていないことに加え、経済的に重要な拠点であるこの地を自国の領地に加えたい凌から恒常的に干渉を受けているためである。
つまりは、自治権を有する一つの豊かな都市と呼ぶのが一番真相に近いように思える、国ではなく植民地でもない、それらの狭間に位置するような土地である。
二つめに、この百科事典を読む際に指定された場所だ。
盗難を怖れるゆえに、もしくは汚損、劣化を防ぐために、特定の場所でしか希書の閲覧を許されないということはよくあることだ。しかし、目の前の老翁が指定したのは、それらの理由を鑑みてのことだとは思えない場所だった。
港を見下ろす岬の突端、彼が経営する酒楼の最上階である。
蜃邑の中でも旧市街と呼ばれ、古くからの木造建築が残るこの地域には珍しい多層建ての瀟洒な楼の窓辺からは、街の様子を一望に収めることができた。
ふと、吹き込んできたゆるやかな風に誘われて、エンは視線を外に向けた。
最初に目に飛び込んでくるのは、楼の赤く塗られた欄干に枝先を差し伸べる木々の葉の眩しさだ。常夏の地でしか見ることのできない、猛々しく、生命力にあふれた緑だった。
熱帯の強烈な陽射しを和らげるために両脇に街路樹が植えられた道は曲がりくねりながら、伝統的な反り屋根や丸い門口を持つ家が並ぶ旧市街を抜け、幾つもの高層ビルが聳え立つ新市街に向かう。暖かな風が吹いてきた方角を辿れば、その先には青碧の海が広がっていた。
今の時期、街のいたるところに、建物の新旧、道幅の広狭を問わず、黄色と赤を基調とした装飾が踊っているのは、明日に迫った華節と呼ばれる祭日のためだ。一年で最も大きな祝祭を控え、人々は通りを慌しく行き交っている。繁華街から少し離れた此処にも、その喧騒が微かに響いてきていた。
華節直前の蜃邑は、まさにその二つ名に恥じぬほどに、溢れんばかりの色彩でその身を飾っているのだった。
……それにしても、いくら希書の所有者自身が経営するといっても、此処は飲食店である。
眺望の素晴らしい一等地であることはこの際関係がない。開店前ということで、店の従業員しかいないといっても、古く、傷み易い巻物を広げるのに相応しい場所ではない。
にもかかわらず、敢えてこの場所を指定した黄大人の意図がエンにはさっぱり読めなかった。
そして、最後に、これが極め付きとなる三つめは、この百科事典の奇妙さにあった。
古の時代、百科事典というのは国家によって編纂されたものであった。それは学問による知識というものが特権階級にだけ与えられていたこともさりながら、物事を分類し、定義づけるということ、それそのものが、国家権力にしか許されていなかったということに由来する。
また、当時の百科事典は、現在のもののように凡ての事柄を語順に並べるわけではなく、まず万象を分類し、その後それぞれの分類に属する物事を並べ記す、という様式を採っている。
黄大人の所有している百科事典が例外的なのは、まずこれが蜃邑の成立後に作られたという黄家の言い伝えを信用するならば、国家の編纂によるものではないという点にある。だとすれば、その時代に作られたものとしては、世にも珍しい、言ってしまえば国家への反逆の一形態とも解することができるような、私家版の百科事典をエンは現在目にしていることになる。
しかし、その稀少さやこれまでに述べてきた二点を超えてなお余りあるほど特異なのは、その百科事典の中身、要は内容だった。
最初に物事を大別し、それぞれの項の下に、更に細分化された項が続くのは、当時の様式に従ったものといえる。しかし、その分類が、とにかく、想像を絶するとしか言いようがなかった。
エンの思考は先ほど読んだ、動物の分類に戻る。
『遠くで見る蠅に似ているもの。』
(……一体どんな動物だ?)
万象の分類が今よりずっと大まかで簡素だった過去のものだから可能なことだが、エンの調査では、百科事典の現存する部分すべてに目を通すことが必要となる。他の部分もあの調子で書かれているならば、理解するのを諦めて、ただ読むことにしたとしても、そのこと自体に慣れるまで時間がかかるのは疑うべくもなかった。
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先の長さを思って出た溜息を、エンは茉莉花茶に吹きかけるふりをして誤魔化した。実際はもう充分に温かった茶を飲み干すと、すぐに二煎目が注がれる。
自身の茶杯にも注いでから、瑛鱗はゆったりと座りなおすと、先ほどのエンの考えを裏付けるような発言をした。
「奇妙な内容でしょう。それは、龍が書いたと云われているのですよ。」
「龍、ですか?」
逡巡してから、エンが聞き返すと、老翁は頷いた。
「ええ、龍といっても、あの火を吹く大蜥蜴のような怪物、西洋に謂われるドラゴンではありませんよ。東洋の聖獣であり、人知を超えた力を持つもの、そしてこの蜃邑を守護する存在でもあります。」
「しかし、龍とは、伝説上の存在ではないのですか?」
百科事典が龍の手によるものだということの真偽より、その幻獣の実在をまず疑ったエンの質問に、希書の所有者は髯をしごいてから、お時間はありますか、と逆に聞き返した。
「これは私たち、黄家に伝わる、古い古い話です。」
そう前置きして、瑛鱗は語り始めた。
――黄家が現在でも街の有力者であり、一時は王侯のような権勢を誇ったのは、黄家の祖先がこの蜃邑の開祖であったためである。
彼の名は黄祝融といい、優れた方士であったという。
彼は仕えていた凌の皇帝の命を受け、不老不死の薬を探索する旅に出るが、その途中で乗った船が難破し、一人でこの島に辿り着いた。
「その当時、此処は無人の島でした。」
瑛鱗は、先刻エンの目を奪った景色を掌で撫ぜるようにして示した。
「豊かな自然にもかかわらず、島に住もうとする人間がなかったのは、この海に怪物が住むと言われていたからです」
言葉と共に、老翁は滄海を示す。節くれだった指の先、青碧の水面はどこまでも穏やかにたゆたっていた。
「その怪物が、龍、です」
ちかり、と陽光に波間が煌いた。
冒頭の『』内の記載は、ホルへ・ルイス・ボルヘスの『砂の本』文庫版の解説中に孫引きされているボルヘスの他の作品(『異端審問』中の「ジョン・ヴィルキンズの分析言語」)に登場する『善知の天楼』という中国の百科事典の記述を使わせて頂いています。