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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第2話「山の朝」

第2話「山の朝」


一:約束


夜が明ける前に、椿は目を覚ました。


囲炉裏の火はとうに消え、家の中は冷え切っていた。吐く息が白い。藁の寝床から這い出した素足に、土間の冷たさが沁みる。壁の隙間から差し込む月明かりだけが、かろうじて部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。


静かだった。


現代では決して味わえない種類の静けさ。冷蔵庫のモーター音も、車の走行音もない。ただ、遠くの山で鹿が鳴く声が、かすかに聞こえるだけだ。凍てついた土が、夜の寒さに耐えかねて、微かにきしむ音。囲炉裏の灰が、最後の熱を失いながら、パチリと一度だけ鳴いた。


(この静けさは、生きている音なんだ)


冷たさも、闇も、すべてが「死」ではなく「生」の一部として存在している。現代ではエアコンと防音壁に遮られていた世界の息遣いが、ここでは剥き出しのまま彼女の肌に触れてくる。


隣では、宗助が静かな寝息を立てている。薄い夜具の下で、彼の胸がゆっくりと上下していた。


(生きてる……)


椿は、宗助の寝顔をじっと見つめた。痩せた頬。ひび割れた唇。十歳とは思えない、苦労に満ちた顔。でも、確かに命が動いている。この時代では、それが当たり前ではない。明日には失われているかもしれない、儚い灯火のようなものだ。


【『今日は、こんなものしか採れなかった』

『いいんだ、父ちゃん。明日は俺も山に行くから。一緒に頑張ろう!』】

(第2話:血と泥の子守唄)


(兄ちゃんは、今日、山で命を落とす)


本編の記憶が、椿の頭の中で何度も繰り返される。まるで呪いのように。


ページをめくる手が震えた、あの夜のことを思い出す。『時雨の焼印』で宗助の死の場面を初めて読んだ時、彼女は文字を追う自分の指が小刻みに震えているのに気づいた。「雪の積もった崖」「足を滑らせる宗助」「十兵衛の叫び声」——スマホ小説で読んだそれらの言葉が、今、現実の風景と重なっていく。


(あの時の震えが、今、全身を支配している)


吐き気にも似た切迫感。文字だった「死」が、現実のものとして目前に迫っている。スライドさせたら物語は進んだ。でも、ここには「次のページ」がない。あるのは、一度きりの「今」だけだ。


彼女は、宗助の肩をそっと揺すった。指先が、彼の骨ばった肩に触れる。


「兄ちゃん、起きて」


「……ん? 春? どうした、こんな時間に」


宗助が眠そうな目をこすりながら起き上がる。瞼が重そうに、何度も瞬きを繰り返している。


椿は、彼の目をまっすぐ見つめた。心臓が早鐘を打つ。でも、ここで引くわけにはいかない。


「兄ちゃん、今日は山に行かないで」


宗助は、きょとんとした顔で椿を見つめ返した。しばらく言葉の意味を理解できず、それから小さく笑った。


「何言ってるんだよ。父ちゃんと一緒に山に行く約束だろ。この前の雪で、まだ食料が足りてないんだ。母ちゃんにも、しっかり食べさせないと」


「雪で崖が脆くなってる。危ないよ」


「大丈夫だって。俺、山には慣れてるし。今までもずっと行ってきただろ」


宗助は笑って立ち上がろうとした。椿は、彼の袖を強く握った。擦り切れた木綿の感触が、指に絡みつく。


「お願い…今日だけは行かないで」


春の声は、震えていた。自分でも驚くほど必死だった。目の奥が熱い。涙が、今にも溢れそうだった。


(私は、兄ちゃんが死ぬところを何度も何度も読んだ。頭の中で何度も映像として浮かべて来た。安堵の中の最初の犠牲者…でも、今は違う。手を伸ばせる。声をかけられる。止められる——)


宗助は、椿の手を見つめ、それから彼女の顔を見た。その目が、少しだけ真剣なものに変わる。


「……春、お前、昨日から変だぞ。なんていうか……急に大人びたっていうか」


椿は、何も言えなかった。言えるはずがなかった。


(私は、春であって、春じゃない。でも、兄ちゃんを失いたくない)


「……わかったよ」


宗助は、ため息をついて、再び藁の上に座り込んだ。膝の上で、拳をぎゅっと握っている。


「今日は、やめとく。春がそこまで言うなら」


「……本当?」


「ああ。でも、代わりに明日は絶対に行くからな。父ちゃん一人に任せられない」


宗助の声は、どこか悔しさを滲ませていた。十歳の少年が、家族のためにできること。それが山に入ることだった。それを「休む」という選択は、彼にとっては自分の無力さを受け入れることでもあった。


(春のあの眼は、なんだか変だ……それに何だろう……幼子のように甘えてるけど、年上の人と話をしてる感覚だ……)


宗助は、複雑な表情で椿を見つめた。


ふと、彼の胸に、遠い記憶が蘇る。母・幸がまだ元気だった頃、夜伽話をしてくれた時のことだ。囲炉裏の火を眺めながら、母は昔話を語った。その時の母の目が、今の春の目にそっくりだった。


(まるで母ちゃんみたいな目だ……)


「……兄ちゃん? どうしたの?」


椿が首をかしげる。宗助は慌てて視線をそらした。


「なんでもない。ちょっと寝ぼけてただけだ」


そう言って、彼は再び藁の上に横になった。でも、目は閉じなかった。天井の木目をぼんやりと見つめながら、彼は自分の胸の中にある、言葉にできない違和感を、そっとしまい込んだ。


椿は、小さく頷いた。


(明日は、大丈夫。宗助が死ぬのは、今日だけだから)


彼女は、本編の記憶を必死にたどりながら、心の中でそう繰り返した。まるで自分自身に言い聞かせるように。


---


二:十兵衛の疑念


朝になり、十兵衛が宗助を呼びに来た。障子を開ける音が、静かな家に響く。


「宗助、準備はできたか。今日は奥の崖まで行くぞ。あそこならまだ何かあるかもしれん」


「父ちゃん……今日は、やめとくよ」


宗助が申し訳なさそうに言った。俯き加減で、十兵衛の顔をまっすぐ見られない。


「なに? どうした、急に」


「春が、危ないから行くなって」


十兵衛の視線が、椿に向けられた。その目は、父親のものというより、何かを探るような鋭さを帯びていた。


「春、どういうことだ?」


椿は、ごくりと唾を飲み込んだ。喉がからからに乾いている。


「雪で崖が脆くなってるから、危ないと思って。兄ちゃん、前にそこで足を滑らせかけたことがあるって言ってたし…父ちゃんも、もう少しいけると判断したらそこで止まって!危ないから!」


これは、春の記憶にあった事実だった。宗助は以前、同じ崖で足を滑らせかけ、間一髪で木の根に掴まって助かったことがある。その時の恐怖が、春の記憶の中に生々しく残っていた。


十兵衛は、しばらく考え込んでいた。腕を組み、天井を見上げ、何かを吟味するように。


やがて、静かに頷いた。


「……そうか。宗助、今日は俺一人で行く。お前は家で母ちゃんの看病をしてやれ」


「わかった」


宗助が素直に頷くのを見て、椿は胸をなでおろした。心臓が、ようやく正常な鼓動を取り戻していく。


(これで、宗助は死なない)


この山の山頂付近には、十兵衛一家しか住んでいない。他の犠牲者は出ない。ここは歴史を変えられると判断した。歴史の大きな流れに影響しない、家族だけの選択。


でも——十兵衛の目が、じっと椿を見つめていた。


「春…お前は、何かを知っているような口ぶりだな」


椿の心臓が、また跳ねた。今度は別の意味で。


「そ、そんなことないよ」


声が裏返りそうになるのを、必死で堪える。


(気づいている。父ちゃんは、気づいている。私が「春」じゃないことに。でも——)


十兵衛は、それ以上何も言わなかった。


(問い詰めない。それが、この時代の父親なんだ)


彼は、娘の変化に気づかないふりをすることで、家族の平穏を守ろうとしている。たとえ娘の中に別の誰かがいたとしても、それでも「春」としてここにいてくれるなら——それでいい。そういう不器用な愛情が、彼の沈黙の奥に滲んでいた。


「……まあいい。宗助、春を頼むぞ」


十兵衛はそう言い残し、一人で山へと向かっていった。その背中が、朝靄の中に消えていくのを、椿は複雑な想いで見送った。


---


三:兄妹の時間


十兵衛が出かけた後、椿と宗助は二人で囲炉裏の火を囲んでいた。


椿が起こした火が、冷え切った部屋を少しずつ温めていく。パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな家に心地よく響いた。


「なあ、春」


宗助が、ぽつりと言った。火を見つめたまま、手をかざしている。


「ん?」


「お前、どうして俺が山に行くのを止めたんだ? 何か別に理由があるんじゃないか? ただの勘って感じじゃなかった」


椿は、しばらく考え込んだ。囲炉裏の火が、彼女の横顔を揺らめかせている。


(本当のことは言えない。でも、嘘もつきたくない)


「……兄ちゃんが、死ぬ夢を見たの」


宗助は、驚いた顔で椿を見つめた。手を火から下ろし、体ごとこちらに向ける。


「死ぬ? 何言ってるんだよ」


「もし、今日山に行ってたら、兄ちゃんは崖から落ちて死んでた。そんな夢を見た。兄ちゃんが手を伸ばして、父ちゃんが叫んで……それで、目が覚めた」


宗助の顔から、笑みが消えた。口元が引き締まり、目が真剣な光を帯びる。


「……そうか、そんな夢をみたら不安だよな。俺ならもう少し奥まで、とか言いかねない。今日の天気なら確かに危なかったかも」


椿は、唇を噛んだ。心の中で、宗助に謝っていた。嘘をついてごめん、と。


「今日、仮にそんな事があったら…返って家族が立ち直れなくなる。母ちゃんだって、もっと弱ってしまう。今日は休んで、明日頑張ろ!私もできる事手伝うから!」


宗助は、しばらく黙っていた。囲炉裏の火が、パチパチと音を立てる。火の粉がひとつ、舞い上がって消えた。


「……わかった」


彼は、静かに言った。その声には、先ほどまでの悔しさはもうなかった。


「でも、母ちゃんもしっかり食べさせないといけない。このままなら本当に危ないんだ。腹の子も、母ちゃんも」


椿の目から、涙が溢れた。本編の春は、この言葉を聞けなかった。兄の、家族を想う覚悟を。


「……料理なら私が作る!食料お願いね!」


宗助は『お前が料理?』と、露骨に疑わしげな顔をして春を見た。眉をひそめ、口元がへの字に曲がっている。


「な…何よその顔!ここにある材料でも工夫したら今までよりマシなもの作れるよ!この時代の調理法は知らないけど、現代の知識があれば——って、現代って何だっけ。まあいいや、とにかく任せて!」


「まさかお前がそんな口調で喋るとはねぇ……なんか昔話に出てくる、別の世界の人のように感じるよ」


(ぎくっ)


椿の肩が、わずかに跳ねた。宗助は、そんな妹の様子を不思議そうに見つめながらも、小さく笑った。


「まあいいか。春が元気になったなら」


久々に賑やかな笑い声が、家全体に響き渡る。


奥の部屋で、幸はふたりの会話を聞いて、嬉しそうに涙を流していた。障子の向こうから聞こえる、子どもたちの笑い声。それが、彼女にとって何よりの薬だった。薄い夜具の中で、彼女は静かに微笑み、自分の腹を優しく撫でていた。


「あ!そうだ!母ちゃんに良さそうな薬草が家の裏にあったんだよ!薬作ってくる!」


椿は立ち上がり、家の裏手へと駆け出した。宗助も、何かを感じ取ったのか、黙って彼女の後を追う。


(春…お前、いつ勉強したんだよ。)


家の裏手は、朝露に濡れた草が一面に広がっていた。土の匂い、草の青い香り、そしてかすかに漂う薬草の苦み。椿はしゃがみ込み、葉の形を一つ一つ確かめながら、指先でそっと草を摘んでいく。


彼女の手つきは、九歳の少女のものとは思えないほど確かだった。葉を傷つけずに根元から摘み取り、土を払い、匂いを嗅ぐ。その一連の動作には、無駄がなかった。


宗助は椿が薬草を摘む後ろ姿を見ていた。


「…母ちゃんも…こんな風にしゃがんで草を摘んでたな」



「これは……オオバコ。咳に効く。これはセリ。体力回復にいいはず。これは……ヨモギ。血の巡りを良くする」


(くーっ! あの時、太幽の粗探しついでにこの時代の薬草調べておいて良かったぁ! 安土桃山じゃ発見されてないやつもあるけど、これはセリ! これはヨモギ! スポーツ医学でも使う生薬の知識が、まさか戦国で役立つとは!)


「なんて鮮やかな手つき…春……お前、本当に変わったな」


宗助が、背後でぽつりと言った。その声には、疑いではなく、純粋な感嘆が込められていた。


「そんなことないよ」


椿は振り返らずに答えた。でも、その声は少しだけ弾んでいた。


台所に戻った椿は、摘んできた薬草を水で洗い、土を丁寧に落とした。鍋に水を張り、刻んだ薬草を入れ、火にかける。囲炉裏の火加減を調整しながら、彼女は灰の中に埋めておいた小石を箸で取り出し、鍋の底に当てた。じんわりと熱が伝わり、鍋の中からほのかに薬草の香りが立ち上ぼる。


彼女の手は、現代で新体操のリボンを操っていた手だ。今はその手で、薬草を刻み、粥をかき混ぜ、母のための滋養を作っている。不思議な感覚だった。でも、悪くなかった。


「お前、そんなことまでできるのか……」


宗助は半ば呆れたように椿を見送った。妹が、まるで別人になってしまったようで——でも、その変化を、どこか嬉しくも感じていた。


本編では、この兄は今日、死ぬはずだった。でも、今はここにいる。自分を見て、笑っている。


(……私は、変えたよ。あなたの書いた物語を)


椿は心の中で、遠くの誰かに向けて呟いた。それが誰なのか、自分でもよくわからないまま。


「大人びた雰囲気を出すと思えば…憎たらしいほどの笑顔も見せやがる」


宗助は今まで見たこともない、妹の活きた瞳と笑顔に、戸惑いよりも希望を感じていた。

---


四:十兵衛の帰還


夕方、十兵衛が山から戻ってきた。


彼の手には、わずかな木の実と、小さな山菜が握られていた。


椿は、その手を見つめた。


凍えた指先は真っ赤に腫れ、爪の間には土と雪がこびりついている。

岩を掴んで傷ついたのか、親指の付け根にはかさぶたができていた。それでも彼は、その手で家族のために何かを掴もうと、必死だったのだ。


(この手が、本編では光を川に流したんだ)


椿の胸が、ぎゅっと締め付けられた。この手は、決して残酷な手じゃない。愛する者を守るために、必死で戦い、それでも守れず、最後の希望を川に託した——そんな手だ。


「ただいま」


「おかえり、父ちゃん」


「すまんな…」


「父ちゃん、そればっかり!元気出していこう!辛い時こそ笑わなきゃ!」


十兵衛が様変わりした春に驚き目を見開いた。


そして宗助も慌てて出迎える。


「「春?」」


ふたりは春を見つめ、頭の中が真っ白になった。


その様子を奥で見ていた幸は口を押さえて声を出して笑っていた。


幸の笑い声を聞いて我に返った十兵衛は、戸惑いながらも話を続ける。


「えっと…宗助、お前が山に行かなくて正解だったかもしれん。あの崖、かなり脆くなってた。俺も足を取られかけた。お前の体重なら、確かに危なかった」


椿の心臓が、ドクンと跳ねた。


(やっぱり……今日だったんだ)


「そうか……春のおかげだな」


宗助が、椿の肩をポンと叩いた。その手は、十歳の少年とは思えないほど、力強かった。


十兵衛も、椿を見つめて、静かに頷いた。その目には、感謝と——ほんの少しの、計り知れない何かが宿っていた。


「春、ありがとう。……ところで、今日はいつもと違う、いい香りがするな」


宗助が目を輝かせながら春の事を話し出した。まるで自分のことのように、誇らしげに。


「春が全部作ったんだぜ!俺に必要な材料集めて欲しいと頼んで!見てよこれ!いつもと変わらない材料でこんなにたくさん作ったんだぜ!」


その量は、普段より二口ほど多いほどの量だった。たった二口。だがこの時代、その二口の価値は、現代の満漢全席よりも重い。一口が、明日を生きる力になる。


十兵衛は、器の中をじっと見つめた。山菜と雑穀を混ぜただけの、質素な粥。でも、その香りは確かに、いつもと違った。生姜に似た野草の香りが、食欲をそそる。


「これは美味そうだ!宗助、お前も手伝ったのか」


「ああ。山に行けなかった分、家でできることをやっただけだ」


宗助は、少し照れくさそうに笑った。十兵衛は、そんな息子の頭を、無言でポンと叩いた。大きく、節くれだった手が、宗助の髪をわしゃわしゃと撫でる。


「今日は母ちゃんの所に持って行ってみんなで食べよう!春は母ちゃんの所へ、宗助!準備してくれ!」


「わぁ!父ちゃん!みんなで食べるの久々だね!」


春は嬉しそうに母の元へ足音を立てて駆け寄っていった。



「…宗助」


急に名前を呼ばれ、宗助は少しだけ背筋を伸ばした。


「春のことだが」


宗助はごくりと唾を飲み込んだ。


「春…俺も感じてたよ…あいつ、まるで俺が死ぬと確信してるみたいな言い方だった」


宗助は、自分の手のひらを見つめた。


「今日、父ちゃんでも足を取られかけたんだろ」


「ああ」


「もし俺が行ってたら、本当に死んでたかもしれない…でもあいつ、それを知ってたみたいに——」


そこまで言って、宗助は唇を噛んだ。頭の中で、昼間の妹の姿がよぎる。

薬草を摘む手つき。

粥をかき混ぜる仕草。

大人びた口調。

どれもこれも、昨日までの春とは違う。


「父ちゃん、俺、変なこと言うかもしれないけど」


「言ってみろ、多分俺も同じ意見になる」


「春の中に、誰か別の人がいるみたいなんだ」


ふたりは、ただ炎を見つめた。

薪がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。


十兵衛はしばらく黙っていた。腕を組み、目を閉じ、何かを考えるように。


「……昔、俺の婆様が言ってた」


「婆様?」


「ああ。『山には時々、人に乗り移るモンがいる』ってな。悪さをするモンもいるが、中には人を助けようとするモンもいるらしい。それを人は『神様』と呼んだりするんだと」


「……春の中にいるのは、狐じゃなくて、神様かもしれないってことか」


「わからん」


十兵衛はきっぱりと言った。その声には迷いがなかった。


「わからんが——俺たちの知らねえことがあるってことだけは確かだ。今日、あいつが宗助を助けたのも、薬を作れたのも、全部、何かが乗り移ったとしか…」


宗助は楽しそうに話をしている母と春を見つめた。


「……それでも、春は春なんだろうな、母ちゃんに駆け寄ったあの足音は春の音だった。」


宗助の声は、少しだけ震えていた。


——もし、誰かがこれを聞いたら。


去年、隣の集落で、突然様子のおかしくなった女が「狐が憑いた」と追い出された。家族の誰も止められなかった。女は戻らず、家は離散した。ただの噂話で終わるには、近すぎる話だ。今は山頂に誰も住んでいない。でも、もし誰かが春の様子を知ったら——。


十兵衛はゆっくりと立ち上がり、宗助の頭にポンと手を置いた。


「お前は、どう思う」


「俺は——」


宗助は、目を閉じた。昼間の妹の笑顔を思い出す。あの憎たらしいほどの笑顔。でも、その奥で、何かを必死に守ろうとしている目。


「俺は、あいつが春でも春じゃなくても、どっちでもいい。でも——俺の妹で、家族だ。今は周りに悟られるわけにいかない。だから、俺が守る」



十兵衛は、何も言わなかった。

ただ、宗助の頭を軽く小突き、囲炉裏の火に新しい薪をくべた。


「……明日、もう一度山に行くぞ。春の分まで食料を集めるんだ」


「ああ。母ちゃんにも、ちゃんと食わせないと」


親子は、それ以上何も言わなかった。


ただ、囲炉裏の火が静かに燃えていて、それが言葉の代わりに、すべてを温めていた。


「父ちゃん!母ちゃんの身体拭いたからご飯食べれるよ!早く早く!」


春の明るい声が家全体を包み込んだ。


この日、数ヶ月ぶりだろうか

家族みんなで一緒に食事をした。


母ちゃんは、味付けや工夫ひとつでここまで変わるものかと驚き、涙を流しながら噛み締めるように味わっていた。


(私は、未来を知っていただけ。それだけなのに)


椿は、その光景を、胸が熱くなるのを感じながら見つめていた。


でも——救えた。宗助を、救えた。


それが、今はただ、嬉しかった。


---


五:夜の誓い


その夜、椿は一人、井戸のそばに立っていた。


空には、満天の星が広がっている。現代では決して見ることのできない、圧倒的な数の光。天の川が、くっきりと夜空を横切っていた。


水面に映る月が、揺れている。冷たい風が吹き抜け、椿の髪を乱した。


(宗助は救えた。でも、次は母ちゃんだ)


幸は、もうすぐ光を産む。そして、産んだ後に命を落とす。それは、本編で確定した「変えられない事実」だ。


(母ちゃんの死は、変えられない。現代医学でも、助けられない。産後の出血と、長年の栄養失調による体力の限界。どんなに知識があっても、設備も薬もないここでは)


でも——苦しみは和らげられる。産むまでの体力を回復させ、最期は穏やかに逝かせることができる。


(そして、光を守る。川に流す代わりに、老夫婦に直接託す。それができれば、光はもっと早く、もっと確実に救われる)


椿は、水面に映る自分の顔——春の顔を見つめた。


「私が、春として生きる意味。それは、この家族を守ることだ」


彼女は、拳を握りしめた。冷たい風の中でも、その手だけは熱を帯びていた。


「絶対に、守り抜く」

【『……守る……こ…んど…そ』】

(第3話:希望の誕生と残酷な出会い)



月明かりが、彼女の決意を静かに照らしていた。星々が、その誓いの証人のように、またたいている。


そして、彼女の脳裏には、もう一つの顔が浮かんでいた。


(それに……川下に行けば、いるんだよな。弥助が)


小さく笑みがこぼれた。


(待ってろよ、推し。今、会いに行くからな)


——でも。


ふと、椿は空を見上げた。天の川の向こう側。はるか五百年先の、現代という世界。


父がいた。病室で、ビデオ通話越しに「お前は俺の誇りだ」と言ってくれた父が。あの時、彼女は声を殺して泣くことしかできなかった。でも今は違う。声を上げて泣ける。誰かのために、自分の手で何かを変えられる。


(父さん、私、こっちで生きていくよ)


心の中で、そう呟いた。


(父さんが最後にくれた言葉、「これからどう生きるかが重要だ」——その通りにする。この時代で、この体で、私にできることを見つけて、生き抜いてみせる)


彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。それは悲しみの涙ではなかった。現代への決別と、未来への誓いが混ざった、静かな涙だった。


風が吹き、彼女の頬を冷やしていく。椿は涙を拭い、もう一度、星空を見上げた。


「見ててよ、父さん。私、この世界で、ちゃんと幸せになるから」


星々は、ただ静かに、その誓いを見守っていた。



【次回予告】


(頭の中の声が、少しだけ近づいた気がする。でも、まだ別々。真面目な春と、オタクの椿。変な感じだけど、悪くない)


春(九歳・真面目):「兄ちゃんを……止められた。山に行かないでって言ったら、聞いてくれた。でも……これで本当に良かったのかな。兄ちゃんは、家族のために山に行きたかったのに……」


椿オタク:「良かったんだよ春! 宗助は生きてる! それだけで百点満点! 本編ではここで死んでたんだから! あの雪の崖、想像以上に脆くてマジでゾッとしたわ……太幽の描写力、怖いくらい正確だった……!」


春:「でも……私、兄ちゃんに嘘をついた。『死ぬ夢を見た』って。本当は、もっと別の理由で……」


椿:「……春、それはね」


(二人の声が、少しだけ重なる)


春/椿:「……仕方なかったんだよ。本当のことを言ったら、信じてもらえない。でも、嘘もつきたくなかった。だから、せめて——」


春:「……私にできる、精一杯のことをした」


椿:「そうだよ。私たちは、やれることをやった。宗助は生きてる。それでいいんだ」


春:「……うん」


椿:「……って、しんみりしてる場合じゃない! 次は母ちゃんだ! 幸さんの出産! 本編ではここで命を落とす……! くっ……太幽、お前は本当に容赦ないな……!」


春:「母ちゃん……私、母ちゃんを助けたい。でも、産後の出血は、この時代の医学じゃ……」


椿:「……そうだね。母ちゃんの命は、たぶん救えない。現代医学でも難しいことを、この時代でどうにかできるはずがない」


春:「……でも」


椿:「でも、苦しみは和らげられる。産むまでの体力をつけさせて、最期は穏やかに、ちゃんと光を抱かせてあげる。それだけは、私たちにできる」


春:「……うん。私、母ちゃんの手を握る。ずっと、離さない」


椿:「そうだ、その意気だ! そして産まれてくる光——桃太郎を、今度こそ守り抜く! 川に流す代わりに、老夫婦に直接託す! 歴史を変えるんだ!」


春:「桃太郎……光の、あだ名だっけ」


椿:「そう! 母ちゃんが最期に贈ってくれた名前! あのシーン、書いてるだけで泣ける……! 太幽、お前は鬼か! いや神か! どっちだ!」


春:「……椿、あなたは本当に、この物語が好きなんだね」


椿:「好きとか嫌いとか、そんな単純なもんじゃない! これはもう、私の人生そのものだ! 弥助に会うまでは絶対に死ねない!」


春:「……弥助って、誰?」


椿:「あっ、ごめん! 今のはこっちの話! とにかく次回、私たちは母ちゃんを看取る! そして新しい家族と出会う! 泣くな私、絶対泣くけど、でも泣きながらでも戦う!」


(よし、書けた。春と私、ちょっとだけ近づいた気がする。まだ完全には混ざらないけど、それでもいい。だって私たちは、同じ人を守りたいと思ってるんだから)


「次回、第3話『継承と約束』。母ちゃん、待ってて。私が絶対に、あなたの想いを未来に繋いでみせるから」



【第2話・完】

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