第六話 沈黙の帰還、あるいは静かなる拒絶
街『レーネ』の巨大な門を、二人の影が跨いだ。
夕闇が迫る街路に、カラン、カランとライルの腰にある折れかけた剣が鞘とぶつかる乾いた音だけが響く。
その姿は、あまりにも凄惨だった。
ライルの服はアース・ベアの爪に引き裂かれ、露出した肩や脇腹からは血が滲んでいる。左腕の盾は岩肌を叩き続けたことでひび割れ、指先は魔力過負荷の余韻で今も細かく震えていた。
その隣で、フレイリアはライルの肩に力なく頭を預けていた。魔力枯渇による極度の倦怠感で足元がおぼつかず、ライルが彼女の腰を支えることで、辛うじて歩みを止めていない状態だった。
「……ライル、さん……。ごめんなさい、私……重い、ですよね……」
「……黙っててください。舌を噛みますよ」
ライルの声は低く、そして掠れていた。
いつもの眠たげな余裕はどこにもない。ただ、目の前の道を一歩ずつ踏みしめることだけに全神経を注いでいた。
冒険者ギルド『鋼鉄の槌亭』の扉を、ライルは足で蹴るようにして開けた。
朝と同じく、そこには酒を煽り、下卑た笑い声を上げる冒険者たちが溢れていた。しかし、二人が一歩足を踏み入れた瞬間、波が引くように喧騒が消え去った。
入り口に立つ二人の放つ「臭い」が、あまりにも異常だったからだ。
こびり付いた泥と、立ち上る血の匂い。そして何より、死線を潜り抜けた者だけが放つ、張り詰めた糸のような殺気。
「おい……なんだよ、あのガキ共……」
朝、ライルたちを「薪割り」「荷物持ち」と嘲笑った赤鎧の戦士が、椅子を鳴らして立ち上がった。彼は何かを言おうと口を開き――けれど、ライルの瞳と視線がぶつかった瞬間、言葉を失って立ち尽くした。
ライルの瞳は、もはや子供のそれではない。
すべてを出し切り、けれど誰にも寄り掛かることを許さない、研ぎ澄まされた刃のような眼光。赤鎧の男は、自分が知るどのベテランよりも深い「死」をその少年に見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ライルは周囲の視線など存在しないかのように、まっすぐ受付へと向かった。
カウンターに辿り着くと、支えられていたフレイリアが震える手で、懐から一つの布包みを取り出した。
ゴトッ、と重苦しい音がカウンターに響く。
布の間から転がり出たのは、鈍い土色の光を放つ大きな結晶体――アース・ベアの『核』だった。
「……っ!? これ、アース・ベアの……しかも、この輝きは変異種……!?」
受付嬢が悲鳴に近い声を上げる。
薬草園の害獣駆除という依頼で、このランクの魔物が現れるはずがない。そして、それをこの子供たちが仕留めて戻ってきたという事実に、ギルド全体が凍りついた。
「…………」
ライルは何も言わなかった。
言い訳も、自慢も、苦労話も。
ただ、早くこの場所から離れたいという意志だけを込めて、受付嬢を見据える。
震える手で事務処理を終えた彼女が、金貨の入った袋を差し出す。ライルはそれを無造作に掴むと、一度も後ろを振り返ることなく、フレイリアを抱き寄せるようにして出口へと向かった。
「ま、待てよ! お前ら、どうやってあんな化け物を――」
一人の冒険者がたまらず声をかけたが、ライルはその足を止めなかった。
ただ、その背中が「関わるな」と雄弁に語っていた。
彼らが求めていたのは名声ではなく、ただ、自分たちが生き延びたという事実と、静かな休息だけだった。
ギルドを出て、夜の帳が下りたレーネの街を二人は歩く。
街灯の柔らかな光が、二人の泥まみれの影を長く伸ばしていた。
「……ライルさん。みんな、驚いてましたね……」
「……どうでもいいですよ。今は、ふかふかのベッドのことだけ考えてください」
ライルのぶっきらぼうな返事に、フレイリアは小さく笑った。その笑い声も、今は風に消えそうなほど弱々しい。
ようやく宿屋『銀の星亭』の前に着いた。
女将が驚いて駆け寄ってくるのを制し、ライルは這うようにして階段を上がり、自分たちの部屋へと滑り込んだ。
扉を閉め、鍵をかける。
その瞬間、張り詰めていた緊張がぷつりと切れた。
「……っ……はぁ、……あ……」
ライルはその場に膝をつき、壁に背を預けて深く座り込んだ。
全身の痛みが、今更になって猛烈な波のように押し寄せてくる。隣では、フレイリアもベッドの端に腰掛け、力なく項垂れていた。
沈黙が部屋を支配する。
けれど、それは朝の気まずい沈黙とは違った。
共に死を覚悟し、共に命を預け、共に生き残った者だけが共有できる、濃密で温かい静寂だった。
「……ライルさん。ありがとう。……私を守ってくれて」
フレイリアが、消え入るような声で呟く。
ライルは目を閉じたまま、震える指先で自分の盾を撫でた。
「……お互い様です。あなたの術がなければ、俺は今頃あの熊の胃袋の中でした」
ライルは、アムネジアの屋敷にいた頃の自分を思い出す。
あの頃の自分なら、こんな無茶はしなかった。効率を考え、さっさと逃げ出していただろう。
けれど今、隣で泥にまみれている少女のために全力を出したことに、不思議なほど後悔はなかった。
「……人間を学ぶっていうのは、本当に……高くつきますね」
ライルが自嘲気味にこぼすと、フレイリアはふふ、と微笑み、そのままゆっくりと横に倒れ込んで眠りについた。
ライルもまた、着替えをする気力さえなく、意識を深い闇へと沈めていった。
窓の外では、レーネの街の祭りの喧騒が遠く聞こえていたが、今の二人には、ただ隣にいる誰かの呼吸音だけが、何よりも確かな救いだった。




