第五話 限界の咆哮と、絆の聖域
街『レーネ』の北西に広がる薬草園。ここは貴重な『月光草』の産地であり、普段は風に揺れる花々と甘い香りに包まれた、穏やかな場所だった。
初心者向けの「害獣駆除」という依頼内容。フレイリアは鼻歌交じりに、ヴァナウの聖印が刻まれた杖を軽く振っている。
「ふぅ……。ここなら幽霊も出なさそうですし、お花も綺麗で素敵なところですね! ライルさん、こういう平和な依頼を待っていたんですよ」
対照的に、ライルは薬草園を囲む森の境界線から、一歩も視線を外していなかった。アムネジアの屋敷で培われた感覚が、周囲の魔力の流れが不自然に「一箇所に吸い寄せられている」ことを告げている。
「……シスター、浮かれすぎです。いつでも障壁を張れるようにしておいてください。空気が重い」
「もう、ライルさんは心配性ですねぇ。こんな平和な場所で――」
その言葉が、最後の平穏だった。
薬草園の中央、大地の底から地響きのような唸り声が響き渡った。ドォォォォォンッ! と凄まじい轟音と共に地面が大きく爆ぜ、岩石のような皮膚を持つ巨躯が姿を現した。
体長四メートルを超える変異種、『アース・ベア』。
本来ならプロフェッショナルクラス以上のパーティが複数で挑むべき強敵。それがなぜ、初心者の狩場にいるのか。理由は分からない。だが一つだけ確かなのは、今の二人に「死」が牙を剥いているということだった。
「グォォォォォォ!!」
アース・ベアの巨大な前足が、空気を切り裂いてへたり込んだフレイリアへ振り下ろされる。
「逃げろッ!!」
ライルは叫ぶと同時に、体内の魔力回路を全開にした。
アムネジアから教わった『身体強化』。普段は反動を恐れて数パーセントに抑えているが、今はそんな余裕はない。13歳の少年の細い体に、許容量限界の魔力を無理やり流し込む。
「う、うああああああ!!」
ライルは左腕の盾――剣聖フウブが遺した、先端の尖った漆黒の盾を掲げ、熊の一撃を真正面から受け止めた。
ズドンッ! と、凄まじい衝撃が全身を突き抜ける。
地面はクレーターのように陥没し、ライルの膝が嫌な音を立ててたわんだ。魔力による強化がなければ、一瞬で肉塊に変わっていただろう。盾を支える左腕の骨がきしみ、脳内には警報が鳴り響く。
(重い……ッ! なんだ、この質量は……!)
100%の出力を出してもなお、押し潰されそうな圧倒的な圧。ライルは血管が浮き出るほどに力を込め、折れそうな腕を気合だけで支え続けた。
目の前で、自分を庇うライルの背中が震えている。
いつも眠たげで、やる気がなさそうで、けれど誰よりも優しく自分の歩幅に合わせてくれた少年。その彼が、今、血を吐くような思いで自分を死の淵から食い止めている。
(……私が、私が、なんとかしなきゃ……!)
フレイリアの心の中で、恐怖を上回る焦燥が爆発した。
彼女は震える手で杖を握りしめ、自分の中に眠る膨大な、けれど制御しきれない魔力を手繰り寄せる。
放つのは、今の彼女にとっては禁忌に近い高位術。一度放てば、精神力を使い果たし、正気を失うリスクさえある。
「主よ……全知全能なるヴァナウよ! 彼の歩みを、その魂を、どうか……どうか守りたまえぇぇ!!」
フレイリアの顔から、急速に血の気が引いていく。鼻から一筋の血が流れ、視界が白く染まる。けれど彼女は、魂を削るようにして術式を編み上げた。
「――『聖域展開』!!」
カァァァッ! と、薬草園全体が白銀の光に包まれた。
創造神の加護を受けた絶対的な防衛障壁。熊の巨体が光の圧力に弾き飛ばされ、ライルを押し潰そうとしていた死の重みが消失した。
「……ッ、助かった……シスター!」
ライルが叫ぶ。だが、フレイリアからの返事はない。彼女はマインドダウンギリギリの状態。意識が遠のきながらも、ただライルの無事だけを祈って杖を支え続けていた。
(彼女が作ってくれた、一瞬……!)
ライルは残った魔力のすべてを、右手の剣と左腕の盾の「一点」に集中させた。
魔力の制御は限界を越え、視界は赤く染まっている。筋肉がブチブチと悲鳴を上げるが、ライルは構わずに地を蹴った。
「これで……決める!!」
フウブ流・奥義――『双牙連斬』。
盾の尖った先端を熊の岩肌のような胸元に突き立て、隙間をこじ開ける。そこへ、残りの全筋力と魔力を乗せた剣を突き立てる。
ガキンッ! と、剣が折れるかのような衝撃。
だが、二人が命を懸けて繋いだ一撃は、ついにアース・ベアの核を貫き、粉砕した。
「ガ……、……ッ」
熊の巨体が、ゆっくりと、砂の山のように崩れ落ちていく。
静寂が戻った薬草園。
ライルは剣を杖代わりにして、ようやくその場に立ち尽くしていた。全身の震えが止まらず、一歩でも動けば崩れ落ちてしまいそうだ。
「はぁ……はぁ……。……フレイリアさん?」
振り返ると、そこには杖を抱えたまま膝から崩れ落ちるフレイリアの姿があった。ライルは慌てて、鉛のように重い体を引きずって彼女を抱きとめる。
「おい、しっかり……!」
「……ぁ……ライル、さん……。よかっ、た……。生きて、ます……か……?」
フレイリアの声は消え入りそうで、瞳の焦点も定まっていない。だが、ライルの無事を確認すると、彼女の口元に安心したような、柔らかな笑みが浮かんだ。
それを見た瞬間、ライルの胸の奥に、かつてない感情が込み上げた。
(……かっこ悪いな。俺が守るって言ったのに、彼女に助けられちゃったじゃないか)
ライルは自分の未熟さを知り、そして、隣で眠るこの少女の計り知れない強さを知った。
命を削って自分を救ってくれた彼女の勇気、その温もり。ライルは無意識に、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
夕暮れ時の薬草園。
ボロボロになり、泥にまみれ、それでも自分たちが生きていることを噛みしめながら、二人はしばらく動けずにいた。
才能に甘えていた少年が「仲間」の尊さを知り、臆病だった聖女が「守るべき人」を見つけた瞬間。
それは、後に世界を揺るがすことになる二人の、真の意味での冒険の始まりだった。




