プロローグ 運命の足音
空は、あの日からずっと煤けた灰色だった。
かつて隣国との国境付近に位置した平穏な村は、一夜にして凄惨な戦場へと変わった。響き渡る怒号、血の匂い、そして自分を逃がそうと剣を振るい、多勢に無勢の波に消えた両親の背中。
少年には、それらすべてが残酷なほど鮮明に焼き付いていた。
少年は走った。何も持たず、ただ震える体を引きずって。追いかけてくる追跡兵たちの足音を振り切り、彼が逃げ込んだのは、周辺諸国の軍隊ですら侵攻を避ける「禁忌の領域」――魔法王国エルヴィンドラウの西の果て、『深き森』だった。
「そこへ行ってはならない。あそこには、人を退ける漆黒の魔女が住んでいる」
逃げ惑う難民たちの間で交わされていた不吉な警告は、今の少年には救いの言葉に聞こえた。冷酷な刃で首を撥ねられるくらいなら、魔女の呪いにでもかかった方がいくらかマシだと思った。
森の一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気が少年を襲う。
そこは、英雄王クラウスですら「近づくな」と布告を出すほど強力な、アムネジアによる「認識阻害の結界」が幾重にも重なる場所。本来なら、一歩歩くごとに方向感覚を失い、気づけば森の外へ弾き出されているはずの迷宮だ。
しかし、少年の足は止まらなかった。
意識は朦朧とし、呼吸さえも苦しい。それでも、彼が木々の間を抜けるたびに、周囲を支配するはずの複雑な魔術数式が、少年の体温に触れるだけで**「霧散」**していった。
それは魔力の力押しではない。魔法そのものが彼を同類とみなし、世界の理が彼を招き入れているかのような、あまりに底知れない――魔法の「才能」だった。
どれほど歩いたか。
霧の向こうに、蔦に覆われた古めかしくも荘厳な屋敷が見えた。
その庭園には、青白く光る見たこともない花々が咲き乱れ、世にも恐ろしい「漆黒の魔女」が住む場所とは思えないほどの静謐さに満ちていた。
「……ありえない」
屋敷の二階、窓辺からその光景を見ていたアムネジアは、手に持っていたティーカップを床に落とした。陶器の割れる高い音が、静かな部屋に響く。
彼女の張った結界は、かつて邪神の軍勢すら拒絶した最高位の魔術だ。それを、ただの、それも死にかけた子供が、呼吸をするように自然に「素通り」してくる。
「私の結界が……あの子を弾くどころか、触れることすら恐れているというの……?」
アムネジアは黒いドレスの裾を翻し、玄関へと向かった。
重厚な扉を開けた先、そこに立っていたのは、泥と血に汚れ、しかしその瞳の奥に、この世の誰よりも澄んだ「魔導の輝き」を秘めた少年だった。
少年は、目の前に現れた美しい魔女を見上げ、力尽きるように崩れ落ちた。
アムネジアが咄嗟にその細い体を抱きかかえたとき、彼女の指先に、背筋が凍るほどの「純粋な魔法の波動」が伝わってきた。
「……とんだ拾い物をしてしまったわね。」
魔女は小さく溜息をつくと、意識を失った少年を抱え、屋敷の中へと消えた。
それは、後にルクサーシアの歴史を塗り替えることになる、孤独な魔女と異端の少年の、奇妙な生活の始まりだった。




