増田リキ
朝の匂いは、少しだけ焦げたトーストの匂いがする。
それを嗅いだ瞬間、リキは「やばい」と思って布団から跳ね起きた。
「リキ! もう七時半よ!」
「起きてるって!」
そう返しながら、実際には今起きたばかりだ。
慌てて顔を洗い、制服を引っ張り出して居間に行くと、佳奈と佳奈のお母さんがもう朝食を済ませていた。
「絶対遅刻でしょ、それ」
「走れば間に合う」
「その理論、何回目?」
佳奈に突っ込まれながら、リキはパンを口に押し込む。
この家での生活は、騒がしくて、でも居心地がいい。自分の家じゃないのに、帰る場所だと思えていた。
学校では、特別なことは何も起きない。
授業を受けて、ノートを取り、休み時間には友達とどうでもいい話をする。テストの愚痴とか、昨日見た動画の話とか、そんなものばかりだ。
リキはクラスの中心人物ではないが、誰とも壁を作らない。
声をかけられれば返すし、困っている人がいれば放っておけない。
それが長所なのか短所なのか、自分ではよく分からなかった。
昼休み、購買で買ったパンをかじっていると、廊下の方から少し大きな声が聞こえてきた。
笑い声混じりの、あまりいい感じじゃない声。
「またか……」
そう呟いて、リキは立ち上がる。
行かなくてもいい。関係ないふりもできる。でも、足が勝手に向いてしまう。
上級生が三人、下級生の男子を囲んでいた。
肩を小突き、逃げ場を塞ぐように立っている。
「暗いんだよ、お前」
「何考えてるかわかんねーし」
下級生は何も言わず、俯いている。
「なあ、五年子みたいだよな」
その言葉を聞いた瞬間、リキの中で何かが引っかかった。
「……何してるんですか」
声をかけると、上級生の一人が面倒そうに振り向いた。
「あ? 誰だよ」
「関係ないだろ」
リキは一歩前に出る。
「関係あります」
「その言葉、冗談で使うもんじゃない」
上級生たちは一瞬黙り、それから鼻で笑った。
「真面目かよ」
「ただの噂だろ、五年子なんて」
「噂でもだ」
リキは、はっきりと言った。
「誰かを貶すために使う言葉じゃないだろ」
空気が一瞬、張りつめる。
けれど結局、上級生たちは舌打ちして離れていった。
「……チッ、白ける」
「行こうぜ」
残された下級生は、しばらく動かなかったが、ぽつりと小さく言った。
「ありがとう……」
「気にすんな」
そう返しながら、リキは少しだけ胸の奥が重くなるのを感じていた。
正しいことをしたはずなのに、世界は何も変わらない。
放課後、家に帰ると、テレビではまた五年子の話題が流れていた。
危険だ、不吉だ、管理すべきだ。
よく分からない言葉ばかりが並んでいる。
「嫌な世の中ね」
佳奈のお母さんがそう言って、チャンネルを変えた。
リキは何も言わなかった。
昼に聞いた言葉が、頭の奥に残っていた。
五年子。
正体も分からない存在。
それでも、人を傷つけるには十分な言葉。
(簡単に使うなよ)
そう思いながら、リキはいつも通りの夜を過ごした。
笑って、話して、明日のことを考える。
この時の彼は、ただの心優しい少年だった。
正義感が強くて、少し不器用で、どこにでもいる普通の一人。
――のちに、自分自身が「五年子」と呼ばれる存在になるとは、
この穏やかな日常の中で、誰一人として知らなかった。




