論理のメスと『謝罪』という名の勇気
気象観測部の扉を開けると、馴染み深いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
今日は凜ちゃんも未央ちゃんも、鬼道先輩も来ていないようだ。
部屋には、私と理人の二人だけ。
私は長机に座り、温かいマグカップを両手で包み込み、深く息を吸った。
そして、更衣室で起きたすべて――玲奈の挑発、胸パッドの罠、優奈のマジック、そして私の無様な敗北――を一から十まで包み隠さず話した。
話している間、私はずっとうつむいて、理人の目を見ることができなかった。
泣いてしまうかと思った。愚痴っぽくなってしまうかと思った。
けれど不思議なことに、胸の中に鬱積していた泥のような感情をすべて吐き出すと、身体の重みが驚くほど軽くなっていった。
理人は静かに聞いていた。
話を遮ることも、口を挟んで評価することもなく、時折カップを口に運ぶだけ。
私が最後の一言を話し終えると、部屋に短い沈黙が降りた。
「……というわけ」
私は苦笑いし、指先でカップの縁をなぞった。
「私、やっちゃったよ。せっかく朝に噂を消してもらったのに、午後には自分から火の中に飛び込んで、文字通り『ヒステリー女』になっちゃった」
私は顔を上げ、彼の評価を待った。
慰めだろうか? 分析だろうか? それとも失望?
しかし、理人はカップを置くと、その底知れない瞳で私を淡々と見つめただけだった。
そして、たった一言、二文字の言葉を発した。
「だから?」
「……え?」
私は呆気にとられた。
あまりに短すぎるその問い返しを、脳が一瞬処理できなかった。
「だ、だからって……?」
私はしどろもどろに繰り返した。「だ、だからつまり……嵌められたんだよ! みんな私のこと変態だと思ってるし、悪人だと思ってるし……」
「だから?」
理人は再びその言葉を繰り返した。「今日の晩飯は何だ」とでも聞くような平坦な口調で。
彼は存在しない眼鏡を押し上げ、上体をわずかに前に倒した。
「その事象は、お前にとって何か実質的な資産損失をもたらしたのか?」
「そ、損失……?」
私は質問の意味がわからず固まった。
無意識にスカートのポケットを探る。
ブレスレットはある。
財布もある。
スマホもある。
「ない……」
私は首を横に振った。
「私の一番大事なもの……ブレスレットはなくならなかった。お金も減ってない」
「では、身体機能に損害を受けたか?」
理人はさらに畳み掛ける。
「その件でお前は負傷したか? あるいは女子生徒たちに孤立させられた結果、明日学校へ通うための歩行能力を失ったか? 今夜の咀嚼と消化活動に支障が出るか?」
「そ、それは……ないけど」
私は間抜けな声で答えた。
「学校には行けるし……ご飯もたぶん食べられるし……」
「であるならば」
理人は再び椅子の背もたれに体を預け、両手を広げた。彼特有の『結論』のポーズだ。
「核心資産は無傷。身体機能は正常稼働。お前の物理的な生活には何一つ制限がかかっていない」
「なら、一体何を怖がっている?」
理人の言葉は、手術用のメスのように、絡まり合った私の不安の塊を正確かつ冷酷に切開した。
私は何を怖がっている?
私は口を開き、反論しようとした。
「でも……誤解されてるんだよ!」
私は焦って言った。
「ちゃんと説明して、イメージを回復しないと、みんな朝の噂を信じちゃう! クラス中の女子から孤立しちゃう!」
「みんなに嫌われて、後ろ指さされるなんて……それってすごい損失じゃないの?」
理人は私を見て、わずかに眉をひそめた。私のこの頑固なまでの『非論理』が理解できないというように。
「だから?」
彼がその言葉を口にするのは三度目だった。
「クラス中の女子に孤立させられたとして、それがどうした?」
彼は私を見ていた。その瞳には微塵の動揺もない。
「孤立したら、お前の世界が崩壊するのか? その辺の有象無象がお前を悪人だと思ったからといって、お前が本当に悪人に変わってしまうのか?」
「それに……」
彼の視線が私を通り過ぎ、窓の外へ向けられた。声のトーンが少しだけ下がる。
「お前には『友達がいない』わけじゃないだろう」
ドクン。
脳天をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
そうか。
それがどうしたっていうの?
私は呆然と理人を見ていた。
ずっと、私は『空気』という名の檻に閉じ込められていた。
『誤解されること』は死刑で、『孤立すること』は世界の終わりだと思い込んでいた。
その偽りの『人望』を守るために、必死で媚びて、空気を読んできた。
でも……。
理人はここにいる。
田中君だってさっき挨拶してくれた。
凜ちゃんや未央ちゃんだって、きっとまた笑ってここに来てくれる。
たとえ世界中が私を誤解しても、あの女子グループ全員が陰口を叩いたとしても……。
私は依然としてここに座り、温かいコーヒーを飲み、私を信じてくれる人の隣にいることができる。
肉体の一部を失ったわけでもない。
ブレスレットもある。
私の生活は、何も変わらず続いていく。
「……ふっ」
不意に、笑いがこみ上げてきた。
笑いながら、涙がこぼれてきた。
「そうだね……私、バカみたい」
私は目尻を拭い、自嘲気味に言った。
「ずっと狭い世界で思い詰めて、あんな実体のない『空気』なんかを、自分の命より重いものみたいに扱ってた」
私は深く息を吸い込んだ。濁っていた脳内が、ようやく完全にクリアになった気がした。
『孤立』が怖くないなら。『誤解』が怖くないなら。
残る問題は、驚くほどシンプルになる。
私は一連の出来事を振り返った。
確かに私は嵌められた。玲奈のやり方は汚い。
けれど――。
『証拠もないのに他人のロッカーを無理やり開けた』、これは事実だ。
『カッとなってクラスメイトに手を上げた』、これも事実だ。
それは私が犯した過ちだ。
私が冷静さを失い、挑発に負け、人としての最低限のラインを踏み越えてしまったのだ。
「理人」
私は顔を上げた。その目に迷いはもうない。
「わかった気がする」
「誘導されたとはいえ、他人のプライバシーを侵害するようなことをしたのは私だもん。それは私のミス」
「間違ったことをしたなら、謝らなきゃ」
「彼女たちのご機嫌取りのためでも、イメージ回復のためでもない」
「私のために。私が胸を張って、自分に恥じない人間でいるために」
私は理人を見て、憑き物が落ちたような笑顔を向けた。
「明日、ちゃんと謝りに行くよ」
「たとえ許してもらえなくても、また笑い者にされたとしても……ちゃんと言葉にしてくる」
理人は私を見ていた。
その死んだ魚のような瞳の奥で、光のようなものが一瞬瞬いた気がした。
彼は「よくやった」とも「頑張れ」とも言わなかった。
ただコーヒーポットを持ち上げ、私のカップになみなみと熱いコーヒーを注ぎ足しただけだ。
「それは論理的に妥当な意思決定だ」
彼は淡々と言った。
「明日のパフォーマンス、楽しみにしている」
私は温かいカップを強く握りしめた。
窓から差し込む夕日が部室全体を黄金色に染め上げている。
もう大丈夫。
明日の朝が来るのは怖くない。
だって、何が起きようと、私はもう自分を見失ったりしないから。
今度こそ、私は迷わない。




