消えた「英雄」
一時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室に張り詰めていた緊張した空気は完全に霧散した。
理人の『行政介入』の効果は抜群で、あの悪意あるスレッドは跡形もなく消え去り、みんなが私に向ける視線も、疑いから純粋な好奇心、あるいは少しの罪悪感へと変わっていた。
私は振り返り、教科書を片付けている理人を見た。
「理人、ありがとう」
私は小声で言った。
「礼には及ばない」
理人は顔も上げず、相変わらず事務的な口調で返した。
「部員の精神衛生を阻害する外部干渉を排除するのは、部長の職責の範疇だ。それに、あの論理的整合性の欠片もない流言データが粉砕されるのを見るのは、俺にとってもある種のエントロピー減少に伴う快感だ」
ぷっ。
こんな時でさえ、彼は相変わらず捻くれている。
でも私にはわかる。それが彼なりの優しさだということが。
軽くなった心を連れて、私は席を立ち、斜め前に座る加藤さんの元へ向かった。
昨日、赤いペンを貸してほしいと言ってきたのに、私が冷たく突き放してしまった子だ。
「あの、加藤さん」
私は彼女を呼び止めた。
加藤さんはビクリと肩を震わせ、少し怯えたように私を見た。「あ……星野さん? 何かな?」
私は微笑んで、筆箱からおろしたばかりの赤いペンを取り出した。
「ごめんね。昨日は本当に予備が見当たらなかったんだけど、今日は一本多めに持ってきたの」
私はペンを差し出した。
「この時間の英語、ノート取るよね? もしよかったら、これ使って」
「え?」
加藤さんは呆気に取られていた。私の真剣な笑顔を見て、彼女の顔から緊張が解けていく。
「い、いいの? だって昨日は私……それにあのスレにも……」
「昨日は私がちょっとイライラしてて、態度が悪かったの。ごめんなさい」
私は首を振り、柔らかく、けれどはっきりと伝えた。
「貸したいの。それは私が委員長だからでも、嫌われたくないからでもない。ただ――あなたが英語のノートを取るのを手伝いたいって、私が思ったから」
加藤さんの目が輝いた。
「ありがとう! ありがとう、星野さん! 私、昨日なにか気に障ることしちゃったのかなって、ずっと心配してて……」
彼女の嬉しそうな顔を見て、胸の奥に温かいものが込み上げてきた。
違う。
全然違う。
これは『強制された媚び』じゃない。『能動的な善意』だ。
私たちが選択権を握っている時、「いいよ」と言うのがこんなに楽しいことだったなんて。
……
それからの時間、私は自分のリズムで、昨日つけてしまった亀裂を一つずつ修復していった。
昼休みには、昨日数学を聞きに来た女子二人組に自分から声をかけた。
「ごめんね、昨日の昼は本当に疲れてて、一人になりたかったの。もし今でもわからないところがあるなら、昼休みが終わる前の十分間だけ空いてるから、教えるよ」
二人は驚き、首がもげるほど頷いた。「本当に? やった! 実はさっきも聞きに行くの躊躇ってて……やっぱり星野さんっていい人だね!」
そして放課前の掃除時間。
私はゴミ捨て場に向かっている山本君を見つけた。
私が近づくと、彼は少し気まずそうに視線を逸らした。
「山本君」
私は彼の目をまっすぐに見た。
「昨日のこと、謝りたくて」
「あ? い、いや、いいよ別に……」山本君は慌てて手を振った。
「昨日、ゴミ袋を支えるのを断ったのは、その作業が汚いと思ったからじゃないし、スレに書いてあったみたいに君を見下してるわけでもないの」
私は誠意を込めて言った。
「あの時、別のことで悩んでて、感情のコントロールができなくて……キツい言い方になっちゃった。ごめんね、嫌な思いさせて」
「当番の仕事とはいえ、私の断り方は間違ってたから」
山本君はしばらく呆然としていた。
私を見つめる彼の顔から気まずさが消え、代わりに恥ずかしさが浮かんでくる。
「……いや、俺の方こそ」
彼は頭をかき、バツが悪そうに言った。
「俺もあのスレ見てさ……正直、最初は本当だと思って、心の中で星野さんのこと悪く言っちゃったんだ。ごめん」
「それに、本来俺の仕事だしな。委員長なら手伝ってくれて当然とか思ってた俺が甘かったよ」
「じゃあ……仲直り?」私は笑って手を差し出した。
「おう! 仲直り!」山本君も笑い、肩の荷が下りたような顔をした。
……
その瞬間。
ずっと胸に痞えていた大きな石が、粉々に砕け散った気がした。
教室の空気が、驚くほど澄んで感じる。
偽りの仮面もない、棘だらけの鎧もない。
私はビクビク顔色を窺う『聖女』でも、冷酷非道な『ハリネズミ』でもない。
断ることもできるし、受け入れることもできる。
謝ることもできるし、許されることもできる。
これが……本当の星野千夏。
窓際で玲奈が相変わらず陰湿な視線を送ってきていても、もう全く気にならなかった。
だって私はもう、私だけの足場を見つけたのだから。
……
午後の最後の授業は体育だった。
校庭で八〇〇メートル走をした。体はクタクタだけれど、流れる汗が格別に気持ちいい。
荒い呼吸とともに排出される熱気が、体の中に残っていた最後の一片の陰りまで持ち去ってくれたようだ。
「ふぅーっ、スッキリした!」
解散後、額の汗を拭いながら、私は軽い足取りで女子更衣室に入った。
更衣室は女子たちの談笑と制汗スプレーの匂いで満ちている。
みんな来週の林間学校の話で盛り上がっていたり、さっきの走りがキツかったと愚痴り合ったりしている。
私は鼻歌混じりで、自分の鉄製ロッカーの前まで歩いた。
(今日は帰りにアイスでも買って、自分へのご褒美にしちゃおうかな)
そんなことを考えながら、慣れた手つきでダイヤル錠を回し、ロッカーの扉を開ける。
中には脱いだ制服と、貴重品を入れるための小さな化粧ポーチが置いてある。
体育の授業中はアクセサリー禁止という校則があるため、私は毎回あの大切なブレスレットを外し、そのポーチの内ポケットに大切にしまっているのだ。
あれは私の『酸素』。
過去との約束。
そして今日、私が勇気を持ってすべてに向き合えた自信の源。
「よし、着替えよっと……」
私はポーチを手に取り、ファスナーを開けた。
指を、いつもの内ポケットへ滑り込ませる。
あの馴染み深い、凸凹したプラスチックの感触が、ない。
「……え?」
動きが止まった。
奥に入れすぎちゃったのかな?
私はポーチを目の前に持ち上げ、内ポケットを広げて覗き込んだ。
空だった。
赤と緑のブレスレットが眠っているはずの場所は、空っぽだった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「嘘……ちゃんと入れたはずなのに……」
私は慌てて中身を探り始めた。
ポケットティッシュ、リップクリーム、予備のヘアゴム……全部ベンチの上にぶちまける。
ない。
ない。
どこにもない。
「嘘……嘘でしょ……」
冷や汗が一気に噴き出した。さっきかいた運動の汗よりもずっと冷たくて、刺すような汗だ。
私は制服のポケットを全部裏返した。
床に這いつくばって、ロッカーの隙間という隙間を覗いた。
靴まで逆さにして振ってみた。
ない。
私の『英雄』が、消えている。
周囲の談笑が、一瞬で遠ざかり、歪んだノイズに変わっていく。
世界が回転し始めた。
さっき積み上げたばかりの自信も、『本当の私になれた』という余裕も、この瞬間、砂の城みたいに音を立てて崩れ去った。
「……なんで?」
私は冷たい床に膝をつき、空っぽのポーチを震える手で握りしめた。
喉から、首を絞められたような掠れた音が漏れる。
あれは、私が今まで生きてこられた支えなのに。
あれは、あの女の子が私にくれた賞状なのに。
誰?
一体誰が?
私は弾かれたように顔を上げ、更衣室の中を視線で狂ったように捜索した。
揺れる人影の向こう。
見えた。
更衣室の鏡越しに。
私に背を向けて着替えている玲奈の姿を。
彼女は私の視線に気づいていたのだろう。ゆっくりと、首だけを回して振り返った。
鏡の中の彼女は、顔面蒼白で床に這いつくばっている私を見て。
口元をゆっくりと、ゆっくりと歪め――。
この上なく残忍な笑みを浮かべた。
それは無言の宣戦布告。
――これで終わったと思った?
――いいえ。ショーは、これからが本番よ。




