冷たい方程式と沈黙の反撃
理人の手は、私の肩に置かれたままだった。
掌から伝わる温度は決して高くはない。けれどそれは重たい錨のように、今にも崩れ落ちそうな私を崖の縁から強引に引き戻していた。
「でも……!」
私は振り返った。涙が眼窩で揺れ、焦りで声が震える。
「言わなきゃ、みんな誤解しちゃうよ! 私、本当にやってないのに! 今すぐ説明しないと……」
「星野」
理人の声のボリュームが少し上がった。相変わらず感情の起伏はないけれど、私の言い訳を塗り潰すような絶対的な圧力がそこにはあった。
彼は私を見ている。その深い瞳には、狼狽する私の無様な顔が映っていた。
「集団心理学において、全貌を知らない傍観者というものは、真実など求めていない。奴らが好むのは『より劇的』なストーリーだけだ」
彼は顎で、スマホを構え、覗き見趣味的な光を目に宿したクラスメイトたちを指した。
「見ろ」
「今のお前のような、狼狽し、泣きつき、必死に潔白を証明しようとする姿。奴らの目には、それが『無実の訴え』には映らない」
「むしろ、『痛いところを突かれた後の逆上』、あるいは『情緒不安定者の病的な興奮』として誤読される」
理人の言葉は、頭から氷水を浴びせられたように冷たかった。
私は口を開けたまま、周囲を見た。
案の定だった。
理人に抑え込まれて私が黙り込むと、動画を撮ろうと構えていた数人がつまらなそうな顔をした。
そして玲奈の口元の冷笑も固まっていた。彼女は、私が泣き叫んで崩壊するシーンを期待していたのだ。
「お前の『態度』こそが、現在における最大の反撃資源だ」
理人は淡々と、一定の速度で言葉を紡ぐ。
「『ストライサンド効果』を警戒しろ」
「過剰な否定は、かえって噂の熱量を上げ、本来それを知らなかった人間まで引き寄せることになる。お前が足掻けば足掻くほど、この泥沼は濁っていくんだ」
私は呆然と彼を見た。
沸騰していた血液が、少しずつ冷えていく。
そうか。
もし私が今、泣きながら「私じゃない」と叫べば、それはまさに犯人役のシナリオ通り。『本性を暴かれて発狂したピエロ』の完成だ。
玲奈の思う壺になってしまう。
「じゃ、じゃあどうすればいいの?」
私は縋るように彼の袖口を掴んだ。崖から落ちる寸前に掴んだ、最後の一本のロープのように。
「このまま汚名を着せられたままでいろって言うの? あのスレを放置するの?」
「当然、違う」
理人は私の肩から手を離し、存在しない眼鏡を押し上げると、悪意に満ちたクラス全員の視線に向き直った。
「流言に対する最適解は、公開された、簡潔かつ事実に基づいた訂正だ」
「潔白を証明しようとするな。『私はやっていない』と叫ぶな。論理学において、『存在しない事実』を証明すること――悪魔の証明は極めて非効率であり、困難だからだ」
「やるべきは事実の提示だ――例えばアカウントの登録日時、IPアドレスの割り当て地域、そして投稿者の言語パターンの差異」
そこで彼は一呼吸置き、ポケットからスマホを取り出し、画面の時間を確認した。
そして、誰も予想していなかった台詞を口にした。
「だが、それらの証拠収集作業は面倒だ。俺はもっと効率的な手段を採用した」
彼は視線を落とし、その底知れない瞳で私を見た。その声に、微かに、本当に微かにだが、過去を懐かしむような温度が宿った気がした。
「以前、お前が俺にしてくれたようにな」
彼は淡々と言った。
「あの時、お前が提示した不在証明は、俺と鬼道の共謀の可能性を根本から粉砕した」
私は息を呑んだ。
それは佐藤君の事件の時……私が彼を助けたくて行ったことだ。
そっか……覚えててくれたんだ。
理人は顔を上げ、群衆越しに、窓際で勝ち誇った顔をしている玲奈を冷徹に見据えた。
「だから今回、俺も同じロジックを使用した」
「三分前――つまり、星野が教室に入ってきた時点で、俺はすでに該当スレッドのURL、魚拓、およびデータ分析レポートを佐伯先生に送信済みだ」
教室中がざわめいた。
「え? 直接先生に?」
「何言ってんのこいつ?」
理人は周囲の反応を無視し、機械音声のように報告を続けた。
「『当該スレッドにおけるネットいじめ及び誹謗中傷の疑義』に関する正式な通報を行った。同時に、昨日の放課後における星野の行動記録の完全な証明も提出した」
「スレ内で『嘲笑ツイート』が投稿されたとされる時刻は、昨日の昼休み一二時四五分、および放課後の一六時三〇分だ」
「しかし、佐伯先生の手元にある部活動記録により、昨日のその時間帯、星野が気象観測部にてデータ記録を行っていたことが証明される。当時、佐伯先生本人も同席していた」
理人は私を見下ろし、その瞳に僅かな安撫の色を浮かべた。
「教師という公的な第三者を不在証明の証人とする。これが最強の論理の防波堤だ」
「このような根拠薄弱、かつ実質的証拠のない一方的な中傷スレッドは、学校側が介入した場合、その生存時間は三〇分を超えない」
ブブッ――。
その時、田中君のスマホが震えた。
彼は無意識に画面を見て、目を剥き、声を張り上げた。
「うわッ! マジだ!」
「あのスレ! 『規約違反により管理者が削除しました』ってなってる! マジで消えてる!」
教室は一瞬にして死のような静寂に包まれた。
さっきまでひそひそと私を嘲笑っていた人たちが、気まずそうに口を噤み、そっとスマホを隠す。
窓際の玲奈の顔色は、一瞬で土気色に変わっていた。
彼女は完全に予想外だったのだろう。理人が『反論』も『口喧嘩』も選ばず、面白みはないが絶対的な効力を持つ『行政的介入による強制排除』というカードをいきなり切ってきたことが。
理人は本を閉じ、何事もなかったかのように椅子に座り直した。
「というわけだ」
彼は淡々と言った。
「お前がすべきことは、冷静さを保ち、席に戻り、教科書を出すことだ」
「あの嘘が、燃料切れで勝手に鎮火するのを待っていればいい」
私は呆然と彼を見ていた。
相変わらず涼しい顔でページをめくっている男子生徒を。
無機質。
冷淡。
無粋。
そしてちょっと『チクリ魔』っぽいやり方。
でも……すごい。
さっきまで私の首を締め上げ、空が落ちてくるかのような絶望感をもたらしていたあの恐慌が、彼の数行の論理分析によって、奇跡のように霧散してしまった。
彼は一言も「信じてる」とは言わなかった。
でも彼の行動のすべてが、全校生徒に向けてこう告げていた。『こいつは潔白だ。俺が証拠を持っている』と。
「……すげぇ」
隣で田中君がようやく我に返った。彼は何食わぬ顔の理人を見て、それから完全に安全圏に逃げ延びた私を見て、心底驚いたように呟いた。
「霜月……お前、マジすげぇな」
「こんな状況でよくそこまで冷静でいられんね……お前ロボットか? それともAI?」
理人は顔も上げずにページをめくった。
「称賛に感謝する。だが生物学的に言えば、俺は純粋な炭素生命体だ。それと田中、次の授業は数学だ。ここで俺の種の分類を研究するより、三角関数の復習を推奨する」
「ぷっ……」
田中君が苦虫を噛み潰したような顔をするのを見て、私は涙声のまま吹き出してしまった。
目尻にはまだ涙が残っているし、心臓はさっきの恐怖でまだ微かに震えている。
でも、わかった。
もう大丈夫だ。
私の胸を押し潰していた巨大な岩は、この変人によって、最も暴力的で、最も優しい方法で粉砕されたのだ。
私は手を伸ばし、目尻の涙をこっそり拭うと、大きく深呼吸をして自分の席に着いた。
背中への視線はまだある。けれど、もう刺さるような痛みはない。
ありがとう、理人。
やっぱり……あなたがいてくれれば、私は『正しく』いられる。




