偽造された『裏垢』と論理の防波堤
一晩考え抜き、固く結ばれたロープのようだった思考の結び目は、ようやく少しだけ緩んでいた。
すべてを拒絶するのは間違いだ。
それは傷つくことから逃げるために、また別の鎧を着込んだに過ぎない。
本当の自立とは、『選択権を持つ』ということだ。助けたい時は助け、気が進まない時は断る。
まだその境界線をうまく引く自信はないけれど、やってみようと思った。
「ふぅ……」
教室のドアの前で、私は大きく深呼吸をした。
ようやく辿り着いたその結論を胸に、見慣れた教室のドアを開ける。
「おはよう」
私はできるだけ自然な声を意識して、教室に向かって挨拶をした。
しかし。
返事はなかった。
それどころか、そこそこ賑やかだったはずの教室は、私がドアを開けた瞬間にミュートボタンを押されたかのように静まり返り、一瞬の不気味な空白が生まれた。
直後に、蚊の羽音のような、声を潜めた囁きが始まった。
「……来たよ」
「意外だよねぇ」
「普段あんなに良い子ぶってて……マジで怖い」
「やっぱり人は見かけによらないっていうか」
粘着質な視線が、まるで無数の湿った蛇のように私の足首を這い上がってくる。
昨日のような単純な『無視』じゃない。
『軽蔑』、『嫌悪』、そして『見世物を見る好奇心』が混ざり合った、純粋な悪意。
私は反射的に窓際を見た。
玲奈、真由、優奈。
彼女たちは相変わらずそこにいた。だが今回、玲奈は私を無視しなかった。
彼女は顔を上げ、教室の半分を隔てた向こう側から、意味深で、嘲笑に満ちた冷笑を私に向けた。
その目はこう語っているようだった。『まだ状況がわかってないみたいね、千夏』と。
胃の中で何かが逆流しそうになる。
でも私は不快感を強引に飲み込み、教室の後ろ側へ向かった。あそこが私の『安全地帯』だ。
「おはよう、理人。おはよう、田中君」
私は笑顔を絞り出し、その一角へと歩いた。
理人は相変わらずそこに座って本を読んでいた。私の声を聞くと、淡々と瞼を持ち上げただけで、周囲の異様な空気など彼には存在しないかのようだ。
けれど、田中君の反応はおかしかった。
いつもなら「おう! 委員長!」と快活に手を振る彼が、今日は複雑そうな顔で私を見ている。
その目には、困惑、疑念、そしてわずかな気まずさがあった。
「……あぁ、おはよ、星野」
田中君は頬をかき、視線を泳がせ、最後に何かを決心したように立ち上がると、声を潜めて言った。
「あのさ……委員長。俺は、お前がそんなヤツじゃないってわかってるけどさ……」
彼はひそひそ話をしている周囲を見回し、真剣な顔で言った。
「一応、否定しといた方がいいぜ。じゃないと、みんなマジで信じちまう」
「否定?」
私は何のことかわからず、手のひらに嫌な汗が滲むのを感じた。「否定って何? 何があったの?」
田中君はため息をつき、スマホを取り出すと、ある画面を表示して私の目の前に突きつけた。
「これ見ろよ。昨日の夜、学校の裏掲示板に立ったスレ。今、炎上してる」
私は震える手でスマホを受け取った。
画面には、【2年B組の某『聖女』委員長の正体を晒す:吐き気がする裏垢】というタイトルの人気スレッドが表示されていた。
閲覧数はすでに千を超えている。
指先が冷たくなる。
私は画面をスクロールした。
内容は単純だった。投稿者は「普段お人好しぶっている委員長」のXの裏アカウントを特定したと主張している。
信憑性を持たせるために、数枚のスクリーンショットが貼られていた。
画像1:
投稿時間:昨日の放課後
内容:『笑える。あの山本って奴、私にゴミ袋持たせようとしてきたんだけど? あんな汚れ仕事、底辺のバカがやればいいじゃん。一人で地べたに這いつくばってる姿、マジで猿みたいだったwww断ってやって超スッキリ』
画像2:
投稿時間:昨日の昼休み
内容:『あのバカ二人、あんな問題も解けないで聞きに来るとかマジ? そんな時間あるなら単語の一つでも覚えろよ。困った顔して断る演技するのも疲れるわー。寄生虫どもめ』
画像3:
投稿時間:一昨日の夜
内容:『玲奈たちもマジでうざい。四六時中つるんでないと死ぬの? いつか全員踏み台にしてやる。表面上は友達やってるけど、内心吐き気がすんだよ。特にあの真由、アイライン濃すぎてお化けみたい』
「これ……」
頭が真っ白になった。
血液が一気に頭に上り、次の瞬間にはサーッと引いていき、手足の感覚がなくなる。
何これ?
誰が書いたの?
私、こんなこと一度も言ったことない!
確かに昨日は山本君を断ったけど、あの時の私は罪悪感でいっぱいで、こんな悪毒な嘲笑なんて抱いてない!
それに……真由のことまで……。
このアカウントのID、アイコンの雰囲気、話し方の癖まで、すべてが私を模倣するように精巧に作られている。
これは、計画的な『殺人』だ。
私が昨日見せた『拒絶』という事実を土台にして、私の心にあった『善意の迷い』を『悪意ある傲慢』へと歪曲して捏造したのだ。
「私じゃない……」
私は顔を上げ、恐怖で声が裏返った。
「これ、私が書いたんじゃない! こんな裏垢、持ってない!」
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
その目は、針のように私の皮膚を刺した。
「本当かよ?」
「でも、タイミングとか完全に一致してるじゃん」
「昨日もすげー冷たかったしな。山本君泣きそうだったのに、無視して帰ったし」
「普段のあの優しさ、全部演技だったんだ……キモっ」
「聖女っていうか、ただの魔女じゃん」
囁き声が波のように押し寄せる。
恐怖。
巨大な、世界中から排斥される恐怖が私を飲み込んだ。
説明しなきゃ……今すぐ否定しなきゃ……本当に全校生徒の敵になっちゃう!
私の思考回路は焼き切れ、ただ一つの防衛本能だけが残った。潔白を証明しなければ。
私は振り返り、クラス全員に向き直った。
体は震え、涙が溢れそうになっていたが、口を開いた。
「みんな聞いて! あのスレは嘘なの!」
私は叫んだ。泣き声混じりで、両手を空中で無様に振り回しながら。
「私、本当にやってない! 濡れ衣なの! それは誰かが――」
ガシッ。
一つの手が、重く、私の肩に乗せられた。
その手は決して強く掴んではいなかったが、まるで山のように揺るぎなく、崩壊しかけていた私の感情を物理的に押さえつけた。
「止まれ」
抑揚のない、氷のように冷たく理性的な声だった。
私のすぐ耳元で響いた。
私は振り返る。
理人がいつの間にか立ち上がっていた。
彼は片手に本を持ち、もう片方の手で私の肩を押さえ、その底知れない瞳で淡々と私を見下ろしていた。
「喋るな」
彼は私を見て、まるで数学の解法を議論するかのような落ち着き払った口調で、けれど絶対的な強制力を持って命じた。
「……理人?」
彼は私の呼びかけには応えず、顔だけを動かした。
その死んだ魚のような目が、スマホを掲げて動画を撮ろうとしている周囲の野次馬たちを冷徹に一瞥し、最後に窓際で得意げに笑っている玲奈のところで止まった。
「現在の状況下において、お前の発言はすべて無効化される」
「黙って、座ってろ。そして――」
「見ていればいい」




