甘すぎるコーヒーと論理の校正
気象観測部の重厚な鉄扉を押し開けた時、私の心情は昨日とは対照的だった。
昨日は笑い声に満ちた『ユートピア』だったのに、今日、この扉の向こうにある空気は、妙に重たく感じられた。
「……お邪魔します」
私は叱られた子供のように小声で呟き、部屋に入った。
静かだ。
凜ちゃんと未央ちゃんの騒がしい声も、鬼道先輩の豪快な笑い声も、佐伯先生の気怠げな愚痴もない。
ただ、キーボードを叩く「カタカタ」という無機質な音だけが、空虚な空間に反響し、やけに冷たく聞こえる。
霜月理人は専用席に座り、私に背を向けたまま、モニターに流れる複雑なデータを凝視していた。
彼は振り返らなかった。いつものように「現在の室温は〇〇度だ」という無駄な報告さえしてこない。
その沈黙が、濡れた綿のように私の喉を塞いだ。
私は無言で長机へ歩き、椅子を引いて座った。
話したい。
彼に聞きたい。
「理人、私、間違ってた?」
「どうしてあの時、眉をひそめたの?」
でも、すべての干渉を拒絶しているような彼の背中を見ると、言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。
もしかしたら忙しいのかもしれない。
もしかしたら、あんなに『冷酷』だった今の私となんて、口もききたくないのかもしれない。
一分、一秒と時間が過ぎていく。
空気が焦げ付くように息苦しくなっていく。
私はただ座り、指先でスカートの裾をいじりながら、脳内で飛び回る無数のミツバチのような思考に苛まれていた。
私、やりすぎだったのかな?
山本君のあの傷ついた顔……。
でも、断らなかったら、また都合のいい道具に逆戻りじゃないの?
一体どこがおかしいの? 理人はどう思ってるの?
パシッ。
キーボードを叩く音が唐突に止んだ。
死のような静寂の中、長く、諦めにも似たため息が響いた。
「……はぁ」
私の体がビクリと強張る。
理人が……ため息をついた?
いつも機械のように正確で、感情の振れ幅が極端に低い理人が?
椅子のきしむ音がした。
理人が振り返る。その底知れない瞳が、薄暗い光を通して私をまっすぐに見据えた。
彼の眉間にはわずかな皺が寄っている。それはまるで、異音を発している故障した機械を見るような目つきだった。
「星野」
彼が口を開いた。その声には微かな疲労が滲んでいた。
「お前の思考ノイズがうるさすぎて、合理的な演算ができない」
「え?」
私は呆然とし、無意識に口元に手を当てた。
「わ、私……喋ってないよ?」
「声帯振動は観測されないが、お前から放射されている『混乱』『焦燥』および『自己懐疑』の波形が、この部屋の空気を著しく汚染している」
理人は自分のこめかみをトントンと指差した。
「そのような高周波の感情干渉によって、俺の作業効率は三〇%低下している」
「あ……」
私は恥ずかしさでうつむき、頬が熱くなるのを感じた。
「ご、ごめんなさい……わざとじゃなくて。ただ……」
「もういい」
理人は立ち上がった。私を責めるわけでもなく、そのままコーヒーメーカーの方へと歩いていく。
機械が唸る音と共に、濃厚な香りがすぐに部屋へ広がった。
数瞬後、マグカップがことりと私の前に置かれた。
「ほら」
顔を上げる。
理人は相変わらず無表情のままだが、すぐに席に戻ろうとはせず、机の縁に寄りかかり、腕を組んで私を見下ろしていた。
「聞きたいことがあるなら出力しろ」
彼は淡々と言った。
「……え?」
「未処理の異常データをキャッシュに堆積させておくと、お前自身のシステムがフリーズするだけでなく、発生する排熱が隣の観測者に不快感を与える」
彼は存在しない眼鏡を押し上げ、それが世界の真理であるかのように言った。
「部の正常な稼働環境を復元するために、今すぐ、その疑問をすべて吐き出せ」
なんて……ひねくれた優しさだろう。
私の悩みを聞いてあげると素直に言えばいいのに、「環境の復元」なんて言葉に変換しないと気が済まないなんて。
私は温かいカップを両手で包み、そっと口をつけた。
甘い。
舌が痺れるほど強烈な甘さが一瞬で広がり、胸の奥に溜まっていた苦味を押し流していく。
やっぱり、『霜月特製スペシャル』だ。
その糖分がくれた勇気を借りて、私は深く息を吸い、ついに午後ずっと私を苦しめていた問いを口にした。
「理人……」
私は顔を上げ、視線を泳がせながらも、最後には勇気を振り絞って彼の瞳を見た。
「今日の放課後……見てたよね?」
「私、山本君のお願いを断ったの」
「ほんの少し手を貸すだけだったのに、ただゴミ袋を支えてあげるだけでよかったのに……それでも、断った」
声が震え始めた。
「だって、あなたが言ったじゃない。『安っぽい道具になるな』って。だから私、証明したかったの。私は変わったんだって、もう断れるようになったんだって」
「でも……」
私は唇を噛みしめ、あの光景を脳裏に再生した。
「どうしてあの時……眉をひそめたの?」
私は彼を見つめ、視界が涙で滲むのを感じた。
「私、間違ってた? 私……ただ他人を傷つけるだけの、冷たい嫌なヤツになっちゃったのかな?」
「あなたも……今の私、最低だと思ったでしょう?」




