ハリネズミと間違った『強さ』
朝の『同盟』という名の熱気は、一時間目の予鈴と共に徐々に冷めていった。
理人と田中君は自分の席に戻り、教室にはあの微妙な、けれど確固とした日常の秩序が戻ってきた。
私は席に座り、背筋をピンと伸ばして、シャープペンシルを強く握りしめていた。
さっき理人の輪にうまく入れたからといって、私が完全に安全圏にいるわけじゃない。
本当の試練はこれからだということを、私は理解していた。
常に警戒していなければならない。
もう二度と、あの都合のいい『聖女』に逆戻りしてはいけない。
私は心の中で、築き上げたばかりの心理防壁を何度も補強した。
『断る。断る。何があっても、断るんだ』
しかし、現実は往々にして予想よりも厄介な形で襲いかかってくる。
私に向けられたのは、玲奈のような悪意ある嫌がらせではなく……。
**【第一の試練:借り物】**
「ねぇ、星野さん」
一時間目の英語が終わった後、斜め前に座る加藤さんが振り返った。彼女は内気で、普段はあまり話さないタイプの大人しい子だ。
「あの……赤いペン、一本貸してくれないかな? さっきインク切れちゃって……次の授業で先生のチェックがあるの」
彼女の少し焦ったような目を見て、私の身体は条件反射で動こうとした。
筆箱の中には赤いペンが三本入っている。
以前の私なら、彼女が「貸して」と言う前に、すでにペンを差し出していただろう。
でも……。
『安っぽい道具になるな』
理人はそんなこと言っていないのに、まるで彼の声が脳内で炸裂したような気がした。
空中で手が止まる。
もし断らなかったら、それは私がまだ弱い自分のままだという証明になってしまうんじゃないか?
今回貸したら、次はノートを借りに来るかもしれない。その次は宿題をやってくれと言われるかもしれない。
恐怖。
一度でも穴を開ければ、そこから堤防が決壊してしまうような恐怖が、一瞬で私を飲み込んだ。
「……ごめん」
私はうつむき、自分でも驚くほど冷たい声を出した。
「私もこれ一本しかないから。売店で買ってきて」
「え? あ……そ、そう。ごめん」
加藤さんは呆然とした。普段なら何でも貸してくれる『ドラえもんのポケット』みたいな委員長が、こんなにきっぱりと断るとは思わなかったのだろう。
彼女は気まずそうに手を引っ込め、困惑した様子で前を向いた。
私は教科書を睨みつけたまま、心臓が激しく痛むのを感じていた。
嘘をついた。筆箱にはあるのに。
でも……これは必要なことだ。もう利用されないためには。
**【第二の試練:質問】**
昼休み。
お母さんの作ってくれたお弁当を出そうとした時、普段からよく質問に来る女子二人が近づいてきた。
「あのさ、委員長~。この数学の問題教えてくれない? さっきの授業、全然わかんなかったんだよね」
また、この手のお願いだ。
以前なら喜んで教えていた。みんなが「わかった!」という顔をするのを見るのが好きだったから。達成感があったから。
でも今、私の目には彼女たちの笑顔が歪んで見えた。
ただ頭を使いたくないだけでしょ?
私の時間を使った方が楽だと思ってるだけでしょ?
これも『負の収益』だ。
私は深く息を吸い、お弁当の蓋を閉じた。
「私もまだ復習できてないから」
私は彼女たちを見据え、視線が揺らがないように努めた。
「それに、昼休みは一人で静かにしたいの。ごめんけど、先生に聞いて」
「あ……そっか」
二人は顔を見合わせ、失望とも、あるいは少し傷ついたような表情を浮かべた。
「なんか今日の星野さん……冷たいね」
「機嫌悪いのかな?」
彼女たちはひそひそと話しながら去っていった。
罵倒されたわけじゃない。強制されたわけでもない。
けれど、あのがっかりした視線は、針のように私の背中を刺した。
大丈夫。
強くなるためには、こんなことを気にしてちゃダメだ。理人だってきっとそうしてるはずだ。
私は必死に自分を洗脳し、冷めたご飯を口に運んだ。何の味もしなかった。
**【第三の試練:些細な善意】**
放課前の掃除時間。
私は委員長として、最後のゴミ分別の点検をしていた。
「あ! やべっ!」
ゴミ捨て当番の男子――山本君が、両手に巨大なゴミ袋を持ち、困った顔で床に散らばった古雑誌の山を見ていた。
「袋破けた……それにこの雑誌、重すぎて一人じゃ運べねぇよ」
彼は周囲を見回したが、みんな帰りの支度で忙しく、誰も彼に気づいていない。
最後に、彼の視線が私に止まった。
「あの……委員長、ちょっと手伝ってくんない? 袋支えてくれるだけでいいから」
本当に、些細なことだ。
それに山本君は普段から真面目で大人しいし、この間の体育でもボールを拾ってくれたりした。
彼の汗だくの顔を見て、私の中の『慣性』がまた動き出した。
ただ袋を支えるだけ。
これは助け合いだよね? 利用されてるわけじゃないよね?
私の足は、無意識に一歩踏み出していた。
助けたい。
「いいよ」と言いたい。
しかし、その瞬間。
私は反射的に後ろを振り返り、教室の後方を見た。
霜月理人がそこに立っていた。鞄を背負い、ちょうど帰ろうとしているところだった。
彼の視線が、私とカチリと噛み合った。
『見られている』
その思考が一瞬で脳内を占拠した。
もし今、私が手伝いに行ったら、理人はどう思うだろう?
『あぁ、こいつはやっぱりただのお人好しだ』と呆れるだろうか?
昨日の決意は口先だけだったと見限られるだろうか?
私に……失望するだろうか?
ダメだ。
証明しなきゃ。
私は変わったんだ。もう『断る勇気』を持ってるんだって。
私は踏み出した足を、無理やり引き戻した。
顔を戻し、汗だくの山本君を見て、表情の上に冷たい鎧を被せる。
「……それは当番の仕事でしょ」
自分のものとは思えないほど冷淡な声が出た。
「自分の仕事は自分で何とかして。私、用事あるから先帰る」
山本君は完全に固まった。
口を半開きにして、まるで知らない人を見るような目で私を見ている。
「あ……そ、そう……ごめん、悪かった」
彼はうつむき、黙ってしゃがみ込むと、一人で散乱した本を拾い集め始めた。
私は背を向けた。心臓が裂けるほど痛い。
ごめんね、山本君。
本当にごめんなさい。
でも、振り返るわけにはいかないの。私は強くならなきゃいけない。理人みたいに、誰にも左右されない強者になるんだから。
悲壮な決意を胸に、私は再び理人の方を見た。
彼から、ほんの少しでもいい、肯定が欲しかった。
頷いてくれるとか、あるいは昨日のように称賛の眼差しを向けてくれるとか。
「よくやった、星野。それこそが高効率な意思決定だ」と言ってくれるのを期待して。
しかし。
私が縋るような視線を向けた時。
そこで待っていたのは、肯定ではなかった。
理人は夕暮れの陰に立っていた。
その底知れない瞳が私をじっと見つめている。
けれど、彼は頷かなかった。
それどころか、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
それは困惑。
理解不能。
そして……わずかな失望の色さえ帯びていた。
まるで、突然エラーを起こした計算機を見るような、あるいは傘を持っているのにわざわざ雨に濡れに行く愚か者を見るような目。
え?
なんで?
私、ちゃんと断ったよ?
あなたみたいに、空気を読まずに、『安っぽい道具』になるのを拒否したんだよ?
なんでそんな顔するの?
なんで……そんな目で私を見るの?
頭が真っ白になった。
今日一日、私を支えていた『正しさ』という柱に、理人のあの表情を見た瞬間、巨大な亀裂が走った。
私が状況を飲み込むより早く、理人は視線を外した。
彼は鞄のベルトを引き直し、一人で背を向けて教室を出て行ってしまった。
「……理人?」
無意識に名前を呼んだけれど、彼は振り返らなかった。
私はがらんとした教室の中央に立ち尽くす。
背後からは山本君がゴミを片付ける音が、窓際からは玲奈たちの冷笑が聞こえる。
けれど私は、迷宮に置き去りにされた子供みたいに、完全に方向感覚を失っていた。
私……間違ってたの?




