世界は私なしでも回る
朝。
目覚ましのアラームが鳴った時、私の体は泥沼に一晩中浸かっていたかのように重かった。
「……行きたくない」
私は枕に顔を埋め、情けない呻き声を上げた。
昨晩の「正しければそれでいい」なんていう威勢のいい言葉も、早朝の低気圧の前ではあまりに無力だ。
学校へ行くことを想像するだけで、玲奈たちのナイフのような視線に晒されることを考えるだけで、胃がキリキリと痛む。
これが、いわゆる『迷い』ってやつだろうか。
頭では自分が正しいとわかっていても、防衛本能が敵意に満ちた戦場への出撃を拒絶している。
「おねえちゃーん! 起きてー!!」
ドアが勢いよく開かれ、康太の元気いっぱいの声が照明弾のように部屋の陰鬱さを吹き飛ばした。
「お母さんが朝ごはんに卵焼き作ったって! 遅れると僕が全部食べちゃうよ!」
「は、はい……今起きる」
弟の曇りのない笑顔を見て、私は深く息を吸い込み、強引に両頬を叩いた。
弟の前で弱音は吐けない。
私は『お姉ちゃん』で、『ヒーロー』なのだ。学校に行くのが怖いなんて、言えるわけがない。
……
食卓にて。
「千夏、これ今日のお弁当ね」
お母さんが可愛いピンクのハンカチで包んだお弁当箱を渡してくれた。その顔には優しい笑顔がある。
「唐揚げ、多めに作っておいたから。お腹空いたら休み時間にでも食べなさい」
「ありがとう、お母さん」
受け取ったお弁当のずっしりとした重みが、胸を温め、同時に少しだけ酸っぱくさせた。
以前なら、これは私が玲奈たちの機嫌を取るための『供物』だったかもしれない。でも今日は、私一人のためだけの昼食だ。
少し寂しいけれど……たぶん、これがお弁当のあるべき味なのだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
私は家のドアを開け、朝の光の中へと足を踏み出した。
……
学校へと続く坂道を、生徒たちが三々五々歩いている。
私は鞄のベルトを強く握りしめ、一歩一歩を少し硬く踏み出していた。周囲からの奇異の視線や、私に関する酷い噂話が聞こえてくるのを覚悟して。
けれど……。
何も起きなかった。
私が昨日、玲奈を拒絶したからといって、世界は崩壊したりしなかった。
空は青いままだったし、みんな昨夜のバラエティ番組や来たるテストの話に花を咲かせている。私が昨日下した『天地を揺るがすような』決断なんて、この巨大な学校にとっては取るに足らない小事だったようだ。
「へぇ、聞いたか? あの霜月理人のこと……」
不意に、前を歩く男子たちの会話が耳に飛び込んできた。
私の耳がアンテナのように反応する。
「あぁ、あのB組の変人? サッカー部の件だろ?」
「そうそう! なんか物理法則を証明するために、石で自分の頭カチ割ったらしいぜ! 顔中血だらけになっても眉一つ動かさなかったって」
「マジかよ? イカれてんなぁ」
「でも……ちょっとカッケーよな。あの状況で、血みどろの佐藤相手に一歩も引かねぇとか。あいつ根暗だけど、意外と肝が据わってるっていうか」
「確かにな。陰でコソコソやってた佐藤よりはマシだわ」
その会話を聞いて、私は思わず歩調を緩めた。口元が緩むのを抑えられない。
窃笑。
言葉にできない誇らしさが胸いっぱいに広がる。
ほら。
みんながみんな、節穴じゃないんだ。
理人のあのリアルさ、狂気的だけど純粋なロジックが、ついにみんなに『直視』され始めている。
評価は相変わらず「変人」「イカれてる」だけど、その口調には嘲笑だけじゃなく、『畏怖』や『感心』といった色が混じり始めている。
「ふふん、当然でしょ。彼は理人なんだから」
私は心の中で小さく自慢した。まるで自分が褒められたみたいに。
理人から借りたこの勇気が、私の足取りを少しだけ軽くしてくれた。
……
ついに、見慣れた教室のドアが目の前に現れた。
二年B組。
かつて私が必死に馴染もうとして、今は限りなく他人の場所に感じる箱庭。
私はドアの前に立ち、深く息を吸って呼吸を整え、そして――。
ガララ。
ドアを開けた。
「おはよう」
私はいつも通り、あるいはいつもより少しだけ大きな声で、教室に向かって挨拶をした。
無視される、あるいは嘲笑される覚悟を決めて。
しかし。
「あ、星野さん、おはよ」
「おはよう、委員長」
談笑していた数人のクラスメイトが振り返り、ごく自然に挨拶を返してくれた。
少し噂好きな女子たちでさえ、私を一瞥しただけで、またすぐ自分たちの話題に戻っていった。
想像していたような『クラス全員からの孤立』は起きていなかった。
そうか、玲奈たちは確かにクラスの中心だけど、全員の意志をコントロールできるわけじゃない。彼女たちが公然と私を攻撃しない限り、他の子たちは私という委員長を無視してまで彼女たちに迎合する必要はないのだ。
ただ一箇所を除いては。
窓際の、あの特等席。
玲奈、真由、優奈。
三人は一つのスマホを囲んで大笑いしている。私の声が響いた時、彼女たちの笑い声は一ミリ秒たりとも止まらなかった。
その『徹底的な無視』は、目に見えない壁となって、私を彼女たちの世界から隔絶していた。
胸の奥がチクリと痛む。
けれど、すぐに安堵感が広がった。
いいや。
もう、ご機嫌取りに行く必要なんてないんだ。
私は彼女たちの横を通り過ぎ、自分の席には向かわず、教室の後ろ側を見た。
霜月理人がそこに座り、分厚い文庫本を読んでいる。
そしてその隣で、前の席の椅子に逆向きに座って彼に話しかけているのは、クラスのサッカー部のエース――田中陽介だ。
彼はさっぱりとした短髪に、健康的に日焼けした肌、明るくて少しガサツな性格で、女子からの人気も高い。
この二人が一緒にいる絵面は、一見するとミスマッチだが、よく考えれば不思議ではない。
田中のような少し大雑把だが直感の鋭い『野生系』男子は、意外と理人のような『論理の怪物』と相性がいいのだ。
私はスカートの裾を整え、そちらへ歩いた。
「おはよう、田中君」
私は微笑んで田中に挨拶した。
「おう! 星野か! おはよう!」
田中が爽やかに手を振り返す。
そして、私はうつむいて本を読んでいる男子の方を向いた。
心拍数が少し上がる。
昨日の夕暮れ時の約束、あの『勝手に決めた友情』を思い出す。
私は深く息を吸い、できるだけ自然に、けれど私たち二人にしかわからない親愛を込めて言った。
「おはよう……理人」
ピタリ。
理人がページをめくる指が空中で止まった。
その瞬間、時間そのものがバグを起こしたみたいだ。
彼はゆっくりと顔を上げ、その底知れない瞳で私を見て、眉を極限までわずかにひそめた。その『呼称』がもたらす論理的エラーを処理しているようだ。
けれど彼は反論せず、ただ淡々と返した。
「……おはよう。星野」
「ハァ?!」
隣の田中がとんでもないスクープを聞いたかのように、椅子から転げ落ちそうになった。
目を丸くし、私と彼の間を何度も往復して見て、ニヤニヤとし始める。
「おいおいおい! マジかよ?」
田中が肘で理人の腕をつつく。
「霜月、お前隅に置けねぇな! いつの間に委員長とそんな仲になったんだよ? いきなり名前呼びだぁ?!」
「『理人』? マジで『理人』って呼んだよな!」
「田中、お前の声量はデシベル値が高すぎる」
理人は無表情のまま田中の手を払い除け、視線を本に戻したが、その目はいつもより少し焦点が合っていない気がした。
「これは単なる効率化原則に基づいた呼称の簡略化だ。それに、星野という個体が一方的に決定したことだ」
「えへへ、いいじゃない」
私は空いている隣の机に鞄を置き、笑顔で会話に加わった。
「で? さっき何話してたの? 随分盛り上がってるみたいだったけど」
「おお! 来週の林間学校の話だよ!」
田中は一瞬で興味を移し、救世主を見つけたように理人を指差した。
「星野からも言ってやってくれよ! 俺、こいつをウチの班に誘ってるんだ!」
「理人を?」
私は少し意外に思った。
「そうだよ! こいつ『火起こしのスペシャリスト』なんだぜ!」
田中は尊敬の眼差しで力説し始めた。
「こないだ旧校舎でバーベキューやった時に見たんだけど、こいつが炭を適当にいじっただけで、火がガンガン燃えるんだよ! なんか風向きとか、燃焼効率とか詳しいらしくてさ」
「こいつを班に入れれば、ウチの『野外炊事』は絶対一位取れるって! 生煮えのご飯食わずに済むんだよ!」
なるほど。
これが男子の論理か。
『好きか嫌いか』じゃなくて、『役に立つかどうか』。
野外生存が必要な合宿において、理人のようなガチガチの知識と実行力を持つ変人は、むしろ『希少資源』になるのだ。
「田中」
理人はため息をつき、本を閉じた。
「さっき断ったはずだ。俺の目標は最小のエネルギー消費で合宿をやり過ごすことだ。お前らのような『高強度のじゃれ合い』を主目的とするグループへの加入は、俺の省エネ美学に反する」
「それに、一位など取るつもりもない」
「そんなこと言うなよ! 皿洗いと野菜切るのは俺らが全部やるから! お前は火起こしの指揮だけしてくれればいいって!」
田中は両手を合わせ、拝むポーズを取った。
「頼むよマスター! サッカーしかできない生活能力皆無の俺たちを救ってくれ!」
その必死な様子に、私は思わず吹き出した。
「ふふっ……マスター?」
「星野からも説得してくれよぉ!」田中が私に泣きつく。
私は心底面倒くさそうにしているが本気で怒ってはいない理人と、少し打算的だけど悪意のない田中を見た。
腹の探り合いなんてない。
ネチネチした駆け引きもない。
ここにあるのは、ただ単純に「美味い飯が食いたい」という理由で行われる攻防戦だけ。
「いいと思うよ、理人」
私は笑って言った。再び自然にその名前を呼ぶ。
「せっかくの才能なんだから、みんなを助けてあげてもいいじゃない。それに……」
私は声を潜め、理人にウインクし、あえて彼の大好物であるロジックを持ち出した。
「田中君たちが肉体労働を担当して、あなたが技術指導に徹する。この明確な『分業体制』の方が、一人で全部やるより効率はずっと高いんじゃない?」
理人は私を見た。私がそんな言葉を使ったことが意外だったようだ。
彼は再び期待に満ちた田中を見て、脳内の計算機を再起動させたらしい。
最後は、抵抗を諦めたように肩をすくめた。
「……反論不能だ。野外生存において、従順な労働力を確保することは生存率向上の鍵だからな」
「検討しよう。ただし、こいつが生肉を俺の皿に入れないと保証できるならだが」
「やったぁ!! サンキュー、マスター! サンキュー、星野!」
田中は飛び上がらんばかりに喜び、遠くから玲奈が向けてくる冷たい視線になんて気づきもしない。
私は彼らの間に立ち、田中の興奮した計画を聞き流しながら、理人の冷静なツッコミを眺めていた。
向こう側の玲奈たちの冷淡さが、そんなに気にならなくなっていた。
世界は意外にも、私のようなちっぽけな人間が勇気を振り絞って出した答えなんかじゃ、何も変わらなかった。
でも、それでいい。
だって――私の世界は、もう完全に変わってしまったのだから。




