優しい嘘と深夜の迷い
理人と別れ、私は一人で家路についた。
家に近づくにつれて、さっきまでの酔っ払ったような高揚感は、少しずつ波が引くように消えていく。夜風が火照った頬を冷やし、代わりに現実という重りを肩に乗せていくようだった。
私の家は、駅から徒歩十五分の古い住宅街にある。
築年数の経った二階建てのアパートで、外壁のタイルは所々剥がれ落ち、共用廊下のセンサーライトも点いたり点かなかったりと気まぐれだ。
決して裕福ではない。むしろ、少し切り詰めて生活している方だと思う。
けれど、私はここが好きだ。
「ただいま」
少し錆びついたドアノブを回して扉を開けると、味噌汁と焼き魚の香ばしい匂いが混ざった、懐かしい熱気がふわりと漂ってきた。
「おねえちゃん!!」
私が靴を脱ぐよりも早く、小さな砲弾のような影が飛び出してきて、私の太ももに抱きついた。
弟の康太だ。今年で幼稚園の年長さんになる。
「おかえり! お姉ちゃん遅いよ! 僕、もうお腹ペコペコだよ!」
康太が見上げてくる。そのまん丸な瞳には、私への無条件の好意がキラキラと輝いている。
「ごめんごめん、お姉ちゃん、今日はちょっと用事があって」
私は彼の柔らかい髪を撫でながら、心の強張りが解けていくのを感じた。
「あら、千夏、お帰り?」
狭いキッチンから、エプロン姿のお母さんが顔を出した。いつも通りの、少し大雑把だけど元気な笑顔だ。
「手洗ってらっしゃい。今日はスーパーでサンマの特売があったのよ。大きいのが三匹も買えちゃった!」
「ん、いい匂いだね」
私は笑顔で応え、室内履きに履き替えて、物で溢れた狭いリビングに入った。暖色系の明かりが、部屋いっぱいに満ちている。
……
夕食の時間はいつも賑やかだ。
お父さんは残業でまだ帰っていないけれど、康太というお喋りスピーカーがいるおかげで、家の中は少しも静かじゃない。
テレビではお笑い番組が流れていて、食卓にはシンプルな焼き魚とお浸しが並んでいる。
「ねぇ、千夏」
康太の魚の骨を取りながら、お母さんが何気なく聞いてきた。
「最近、学校はどう? 変わりない?」
「こないだ話してた玲奈ちゃんって子、まだよく遊んでるの? 仲良さそうだったから、大事にしなさいよ」
箸を持っていない方の手が、テーブルの下でスカートの裾をぎゅっと握った。
お母さんは、学校での私の本当の立場を知らない。
私がパシリ扱いされていることも、嘲笑されていることも、そして……今日、その『友達』たちと決別したことも。
うちは裕福じゃないけれど、両親はいつも私にできる限りのことをしてくれた。
彼らは『聞き分けが良くて、友達が多い』私のことを誇りに思っている。
心配なんてかけたくない。
このささやかで安穏とした生活を、壊したくない。
だから私は、顔の筋肉を慣れた動きで調整し、鏡の前で何千回と練習したあの笑顔を貼り付けた。
「うん、いい感じだよ」
私は魚の身を口に運びながら、何でもないことのように言った。
「友達も多いし、みんな私を頼ってくれるから。今日も放課後、みんなとちょっとお喋りしてたんだ」
「玲奈ちゃんたちも……私のこと、気にかけてくれてるし」
私は嘘をついている。
徹頭徹尾、まごうことなき嘘。
でも、これは必要なことだ。
「そう? ならよかった」
お母さんは安心したように、さらに笑顔を深めた。
「千夏は小さい頃からしっかり者だし、性格もいいからね。みんなに好かれて当然よ」
「そうだ!」
お母さんは何かを思い出したようにポンと手を打ち、箸を落としそうになった。
「予定表に書いてあったけど、来週から行くんでしょ? 『林間学校』」
心臓が、トクンと跳ねた。
「……うん。来週から、二泊三日で」
「やだ、それなら張り切って準備しなきゃ!」
お母さんの目が輝いた。それは専業主婦特有の、『腕を振るうチャンス』を見つけた時の情熱だ。
「三日しかないけど、バスの中のお昼ご飯とか、着いてからの最初のご飯とか、美味しいもの食べたいじゃない?」
「お母さん、特大の豪華なお弁当作ってあげるわ! 千夏の大好きな唐揚げと、甘い卵焼きをいっぱい詰めて、可愛いうさぎさんの形に切ってあげるから」
彼女は楽しそうにお弁当箱のサイズを手で示し、期待に満ちた目を私に向けた。
「それを持って行って、玲奈ちゃんとか他のお友達と一緒に分けて食べなさい。美味しいものをみんなで食べれば、もっと話も弾むし、仲良くなれるわよ!」
喉の奥が、何か熱い塊で詰まったようになった。
友達と……分ける?
誰と?
今日、絶縁状を叩きつけてきた、私を憎んでいるはずの玲奈と?
それとも、バスの中で私を避けて、視線さえ合わせようとしないクラスメイトたちと?
もし私が、そんな『お母さんの愛情たっぷり』の特大弁当を持っていったら……。
結末は見えている。私はきっと、トイレの個室か、誰もいない森の陰で一人、涙と一緒にお弁当を胃袋に詰め込むことになるだろう。
その光景を想像するだけで、惨めさで胸が潰れそうだった。
「……ううん、いいよ、お母さん」
私は鼻の奥のツンとする感覚を無理やり抑え込み、できるだけ自然な声を絞り出した。
「今回の合宿、ちょっと特別でさ。お昼も夜も、全部『野外炊事』なんだ」
「キャンプ場に着いたら、班ごとに自分たちで火をおこしてご飯作るの。だからお弁当の持ち込みは禁止なんだって。生きる力を鍛えるためとかで」
「えぇー? そうなの?」
お母さんは目に見えてがっかりし、肩を落とした。持っていた箸も力なく下がる。
「残念……せっかく腕を振るって、千夏のお友達付き合いの点数稼ぎをしてあげようと思ったのに。最近の学校って融通が利かないわねぇ」
「大丈夫だよ」
私は引きつりそうな笑顔でなだめたが、心の中では血が流れているような気分だった。
「次の遠足の時、またお願いするね」
「しょうがないわねぇ……じゃあ、包丁使う時は気をつけるのよ。指切らないようにね」
「わかってるってば」
「ぼくもいく! ぼくもがっしゅくいく!」
隣の康太は会話の意味もわからず、ただ『ご飯を作る』という単語に反応してスプーンを振り回している。
「おねえちゃん! がっこうでも『スーパーアイドル』なんでしょ? 困ってる人がいたら助けるヒーローなんでしょ!」
「ぼくも大きくなったらおねえちゃんみたいに、みんなに好かれる人になるんだ!」
「康太……」
弟の純粋無垢な瞳を見ていると、心臓を針で刺されたように痛む。
ヒーロー。
みんなの人気者。
弟の目には、学校で都合よく使われているだけの『便利屋』が、そんな輝かしい姿に映っているのか。
もし彼が知ったらどう思うだろう。
一番憧れているお姉ちゃんが、本当は誰かに顎で使われ、断ることもできないただの臆病者だと知ったら……どんな顔をするだろう。
「……うん」
私はうつむいて、茶碗の白米を大口でかき込んだ。
今日の魚は新鮮なはずなのに、何の味もしなかった。
この温かい家の中で、私は依然として『完璧な姉』であり『自慢の娘』だ。
けれど私だけが知っている。この『完璧』という皮の下に、どれほど脆くて惨めな現実が隠されているかを。
……
夕食を終え、お母さんの皿洗いを手伝い、康太に絵本を読んで寝かしつけた。
ようやく自分の六畳の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間。
ふぅーっ。
私はドアに背中を預け、糸の切れた人形のようにずるずると座り込んだ。
部屋は静かだ。
勉強机の上には、林間学校のために用意したしおりが置かれている。そこには、玲奈たちと一緒に行動するための攻略法や、持って行くべきお菓子リストがびっしりと書き込まれていた。
今となっては、これらすべてが紙屑だ。
私はベッドまで這っていき、重たい体を布団に投げ出した。
腕を上げ、窓から差し込む月明かりに、あの赤と緑のプラスチックブレスレットを透かしてみる。
今日、放課後に感じていたあの高揚感は、もう跡形もなく消え去っていた。
代わりに、潮が満ちるように這い上がってくるのは、冷たくて重い不安だ。
「明日……」
独り言が漏れる。
理人の前ではあんなにカッコつけて、「行かない」とか「友達じゃない」なんて啖呵を切ったけれど。
あれは、彼が支えてくれていたから言えたことだ。
明日学校へ行けば、理人が四六時中私のそばにいてくれるわけじゃない。
私は一人で、玲奈たちの怒りと向き合わなきゃいけない。
クラス中の異様な視線に耐えなきゃいけない。
教室に入った瞬間、喉を締め上げるあの『孤立の空気』に立ち向かわなきゃいけない。
本当に、できるのかな?
誰かの機嫌を取ることに慣れきってしまった私が、『必要とされる』ことでしか価値を感じられなかった私が……世界中から無視されるような孤独に、本当に耐えられるのかな?
私は寝返りを打ち、顔を枕に埋めた。
脳裏に、理人のあの底知れない瞳と、『俺に友達は不要だ』という言葉が浮かぶ。
「理人……」
私は小さくその名前を呼んだ。まるで、暗闇の中で一本の救命ロープを掴むように。
彼もこの街のどこかで、あの奇妙な論理を貫いて生きている。そう思うだけで、もう少しだけ踏ん張れるような気がした。
少なくとも、私は一人じゃない。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる声は、暗闇の中でひどく頼りなかった。
「また孤立したって……あなたの支えがあれば、大丈夫だから」
その、脆くも頑固な覚悟を胸に抱いて、私は目を閉じた。
明日は、きっと長い一日になる。




