喧騒のユートピア
「ヤッホー! お兄ちゃん! 遅いよ!」
その底抜けに明るい歓声とともに、特別教室棟の分厚い鉄扉が無遠慮に開け放たれた。
本来、私と霜月君だけの静寂な空間だった場所が、今まさに『青春』という名の暴風雨によって侵略されようとしている。
私は入り口で立ち尽くし、目の前の光景に唖然としていた。
長机の横、いつもなら霜月君が座っている観測席が、今は占領されている。
真ん中に陣取っているのは、手入れの行き届いたポニーテールを揺らし、真夏の太陽みたいに笑う霜月凜ちゃん――霜月君の妹だ。
その左隣には、凜ちゃんの腕にコアラのようにしがみつき、小動物のような警戒心と接着剤のような粘着質さを併せ持った視線を向けてくるショートカットの女子生徒。見たことのない顔だ。
そして何より驚いたのは、右側だ。
椅子の横棒に足を乗せ、「不機嫌」という文字を顔に貼り付けながらも、手元では大人しくミカンを剥いている不良少年……鬼道蓮先輩?
この画風の全く違う三人が集まっている光景は、まるで油絵と水墨画と落書きを強引にコラージュした抽象画のようだった。
「凜ちゃん? それに……鬼道先輩?」
思わず声が出た。
「あ! 千夏先輩だ!」
私を見つけた凜ちゃんがバネ仕掛けのように椅子から飛び上がり、嬉しそうに駆け寄ってきて私の手を握る。
「お久しぶりです! 今お兄ちゃんと話してたんですよ。遅いなぁ、もしかして駆け落ちでもしてるんじゃないの、なんて」
「か、駆け落ちぃ?!」
顔から火が出るかと思った。
「そ、そんなんじゃないよ! ちょっと……その……」
「無駄な社交活動を回避するために、戦術的撤退を行ってきただけだ」
私の後ろから入ってきた霜月君が、無表情のまま鞄を机に置くと、慣れた手つきで凜の頭に手刀を落とした。
「それと、誤解を招くような単語を選択するな。重大な論理的飛躍だ」
「痛っ! もう、お兄ちゃんはユーモアがないんだから!」
凜ちゃんは舌を出して悪戯っぽく笑うと、背後に隠れていたショートカットの子を私の前に引っ張り出した。
「そうだそうだ、先輩はまだ会ってなかったですよね? 私の親友、木島未央です」
凜ちゃんは自慢のコレクションを紹介するように、未央ちゃんの肩をポンと叩いた。
「未央、この人が話してた千夏先輩。すっごく優しい人だよ!」
木島未央と呼ばれたその子は、ゆっくりと顔を上げた。
肌は白く、少し病的なほどだ。大きな瞳が、スキャナーのように私を上から下まで警戒たっぷりに観察する。そして私から凜への「脅威」がないと判断したのか、微かに息を吐いた。
彼女は一歩近づき、両手を前で組むと、非常に重々しく――まるで何かの誓いを立てるかのような荘厳さで口を開いた。
「……はじめまして。木島未央です」
彼女は私の目を直視し、無表情のまま、けれど一言一言に重りをつけたように言った。
「私が、この世界で一番、凜のことが好きな人間です」
「え? せ、世界で一番……?」
私は固まり、反射的に隣の凜ちゃんを見た。
えっと、それは……重くない? これって新型の自己紹介?
けれど当事者である凜ちゃんは、嫌がる様子を見せなかった。
ただ少し困ったような、呆れたような、でも「いつものことだし」という諦めを含んだ微妙な苦笑いを浮かべて頬をかいただけで、未央ちゃんの言葉を否定しなかった。
隣の鬼道先輩に至っては、「ケッ」と鼻で笑い、ミカンの皮を剥く作業に戻っている。
なるほど……これが彼女たちの距離感なんだ。
ちょっと変わってるけど、凜ちゃんが受け入れているなら、部外者の私が口を出すことじゃない。
本当に……個性的な子だなぁ。
「おい、そこの」
ドスの効いた声が私の思考を中断させた。
鬼道先輩は剥き終わったミカンを放り投げて凜ちゃんに与え(凜ちゃんはそれを自然に口でキャッチした)、凶悪な三白眼を私に向けた。
「そこで何突っ立ってんだよ。邪魔だ」
以前の私なら、この口調を聞いただけで震え上がり、必死に謝っていただろう。
でも、今は……。
鬼道先輩の不機嫌オーラ全開の顔を見て、なぜか奇妙な親近感が湧いてくるのを感じていた。
彼が以前、私に言った言葉を思い出す。『「死ね」くらい言えれば、まだ人間らしく見えるのにな』と言った彼。
あの時は野蛮な人だと思った。
けれど今、玲奈たちの「笑顔で刺してくる」ような陰湿な偽善を経験した後だと、鬼道先輩の尊さがよくわかる。
彼は嘘をつくのを嫌う。
彼は裏でコソコソ動くのを嫌う。
彼の悪意はあからさまで、彼の善意もまた、不器用でストレートだ。
あの息の詰まるような『空気』に比べれば、この直情的な乱暴さは、まるで清々しい突風のようだ。
私は深く息を吸った。
視線を逸らさず、媚びるような愛想笑いも浮かべず。
私は鬼道先輩を見て、背筋を伸ばし、心の底からの微笑みを向けた。
「こんにちは、鬼道先輩」
私ははっきりとした声で言った。
「ここでお会いできて、嬉しいです」
空気が一秒、凍りついた。
水を飲んでいた霜月君の手が止まる。
凜ちゃんと未央ちゃんも動きを止め、驚いた顔で私を見ている。
鬼道先輩に至っては、まるで未知の宇宙生物に遭遇したかのように目を限界まで見開き、手からミカンの皮を取り落としていた。
彼は私の顔をたっぷり三秒間凝視した。まるで幽霊でも見るような顔だ。
「ハァ?!」
彼は勢いよく振り返り、信じられないものを見る目でコーヒーを淹れている霜月君を睨んだ。
「おい! 霜月!」
「テメェ、こいつに何の魔法かけやがった? それとも変な薬でも飲ませたのか?」
「前まで俺を見るだけでネズミみたいにビビってた女が、なんで急にこんな……気色の悪いこと言ってやがるんだ?!」
霜月君が口を開くより先に、
「何でもないですよ」
私が一歩前に出て、言葉を挟んだ。
鬼道先輩の唖然とした顔を見ながら、私は胸に手を当て、そこにある穏やかで力強い鼓動を感じる。
「何も起きてません。私はただ……私自身を見つけただけですから」
部屋に一瞬の静寂が落ちる。
鬼道先輩は呆然と私を見ていた。
そして――。
「ハァーーーーーッ?!!」
突然、窓ガラスがビリビリと震えるような爆笑が炸裂した。
彼は太ももをバンバンと叩き、私を指差し、涙が出るほど笑い転げた。
「ギャハハハ! おいおい! なんだそのセリフ!」
「『自分を見つけた』ぁ? ギャハハ! そんな中二病みたいなセリフ、真顔で言えるやつがあるかよ!」
狂ったように笑っているけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。その笑い声には嘲りがない。
むしろ、同類を見つけた時のような、あるいは最高に面白い見世物に出会った時のような痛快さが満ちている。
「いいじゃねぇか! 傑作だ!」
鬼道先輩は笑いながら、あの野性的で、けれど悪意のない瞳で私を見据えた。
彼はニヤリと口角を上げ、トレードマークの八重歯を覗かせると、彼なりの最高の賛辞をくれた。
「相変わらずモヤシみてぇに弱そうだが、今のテメェは、やっと少しは『人間』に見えるぜ!」
「うるさいっ! 不良!」
凜ちゃんが鬼道先輩の背中をバシッと叩く。
「そんな大声で笑わないでよ! ゴリラじゃないんだから!」
「……ゴリラみたい」
未央ちゃんもボソッと追撃し、自分の湯呑みを凜ちゃんの方へ避難させながら、冷ややかな目で鬼道を一瞥する。
「あぁ? なんだとテメェら……」
その光景を見て。
漫才みたいに言い合っている凜ちゃんと鬼道先輩を見て。
人見知り全開ながらも、必死にその輪にいようとする未央ちゃんを見て。
そして、コーヒーメーカーの横で「騒音レベルが規定値を超過している」とため息をつきながら、黙って五人分のコーヒーを淹れている霜月君を見て。
ここには、偽りの社交辞令はない。
慎重に読み合わなきゃいけない『空気』もない。
いるのは、不完全で、性格がねじ曲がっていて、でも誰よりもリアルな変人たちだけ。
だけど私は、ここが世界のどこよりも温かいと感じていた。
ここが……私の居場所なんだ。
「ほら」
湯気の立つマグカップが目の前に差し出された。
いつの間にか、霜月君が私のそばに来ていた。
「角砂糖三個、ミルクはダブルだ」
彼は淡々と言い、視線を窓の外の紫に染まった空に向けた。
「高糖分の摂取は健康基準に反するが、お前が先ほど経験した高強度の精神的消耗を考慮すれば……必要なエネルギー補給だ」
私はカップを受け取る。
手のひらから伝わる温もりが、血液に乗って全身を巡っていく。
「ありがとう」
私は小さく呟いた。
そして、この騒がしくて、コーヒーの香りと笑い声に満ちた部屋で、うつむいて一口すする。
甘い。
本当に、甘かった。




