逃亡者の凱旋
私は振り返らなかった。
背後から玲奈の信じられないという息を呑む音が聞こえても、ミキと優奈がひそひそと囁き始めても、一度だって振り返らなかった。
私は霜月君の手首を掴み、大股で歩き出した。まるで逃げるように、あのカビ臭い下駄箱エリアを後にして、特別教室棟の方へと一直線に進んでいく。
靴底が廊下の床を叩く音が、いつになく高く、澄んで聞こえる。
廊下の窓から吹き込んでくる風は、もう息が詰まるような圧迫感を含んでいない。代わりに、土と青草の混じった新鮮な匂いがした。
これが……『拒絶』の後の世界?
現実には何も変わっていないはずだ。
明日の私は、高確率で今までよりもひどい孤立に遭うだろう。机に落書きをされるかもしれないし、靴がなくなるかもしれない。どこへ行っても悪意ある視線につきまとわれるだろう。
でも――。
それは明日の『星野千夏』が悩めばいいことだ。
今の私は、目が痛くなるほど新鮮なこの世界で、一秒でも長く自由な空気を吸っていたい。
今の私は、心臓が早鐘を打った後に訪れる、この痛快さを味わっていたいだけなのだ。
「……星野」
私に引っ張られるまま歩いていた霜月君が、唐突に口を開いた。
彼は足を止め、自分の左腕を見下ろしている。
私はそこでようやく気づいた。
さっきの緊張のあまり、私はずっと彼の腕を死ぬほど強く抱きしめていたのだ。私の指が彼の制服の袖口に食い込むほどで、二人の距離は、彼から漂う古本のような淡い香りがわかるほど近かった。
「身体接触を拒絶するつもりはないが」
霜月君はわずかに眉を顰め、まるで故障した機械を分析するような口調で言った。
「流体力学と人体工学の観点から言えば、このような『結合双生児』式の歩行形態は、前進への抵抗を大幅に増加させる。俺たちの移動効率は約一五%低下しているぞ」
「このまま手を離さなければ、気象観測部への到着時間は四五秒遅れることになる」
「ぷっ」
あまりに色気のない発言を聞いて、私は堪えきれずに吹き出してしまった。
もし他の男子なら、こういう時は照れたり、あるいは調子に乗って言い寄ってきたりするだろう。
でも、これこそが霜月理人だ。
このロマンチックな逃亡の瞬間においてさえ、彼の脳内を占めているのは効率とデータだけ。
けれど、彼がそんな人だからこそ……私は無性に安心できる。
「いいじゃない」
私は手を離さなかった。
それどころか、悪戯心でわざと腕に力を込め、彼の腕をさらに強く抱きしめ、自分の体重を少し預けてみせた。
「効率が落ちたなら、その分私たちが速く歩けばいいだけでしょ?」
私は顔を上げ、彼に向けて、ここ数年で一番本物だと思える笑顔を見せた。
霜月君が虚を突かれたように固まる。
その底知れない瞳の奥に、『理解不能』という困惑の色が一瞬だけ走った。
彼は〇・五秒ほど私を凝視し、最後は何ごとかを諦めたように、やれやれとため息をついた。
「……好きにしろ」
口では効率云々と文句を言いながら、彼は私を振り払わなかった。
それどころか、彼は私の歩幅に合わせるために、元々早かった歩調をわずかに緩めてくれたのだ。
その不器用な優しさが、私の胸の奥をじんわりと温める。
私は横を向き、夕日に赤く染まった廊下を眺めながら、隣を歩く無表情な横顔を盗み見た。
私がさっきの一歩を踏み出せたのは。
顔にへばりついた接着剤のような仮面を、無理やり引き剥がすことができたのは。
全部、彼のおかげだ。
もし彼があそこにいなかったら。彼があの『マイナスリターン』なんて言葉をくれなかったら。私はきっとまだうつむいて、「いいよ」と言いながら、あの泥沼の中で腐り続けていただろう。
彼が鍵を渡してくれたのだ。
彼がそこに立っていてくれただけで、私は一人じゃないと思えたのだ。
「ねぇ、霜月君」
「なんだ? さっきのカラオケボックスに関する音響モデルの件なら、さらに詳細なデータを提示できるが――」
「ありがとう」
霜月君の言葉が途切れた。
彼の足が止まる。
いつも機械のように冷徹なその瞳に、珍しく一瞬の空白が浮かんだ。
おそらく、たっぷり一秒間。
彼はふいっと顔を背け、鞄のベルトを引き直すと、さっきよりも少し硬い声で言った。
「……お前の感謝のロジックが理解できない」
「俺はただ客観的事実を述べ、部の利益のために合理的な干渉を行っただけだ。礼を言われるような高尚な行為など、何もしていない」
「違うよ」
私は首を振り、彼の腕を離して二歩ほど前へ進んだ。
そしてくるりと振り返り、背中で手を組みながら、夕日の差し込む廊下で彼を見つめた。
「ロジックとか、利益とか、そんなのどうでもいいの」
「私にとっては……」
光と影の境界線に立つその変人に向かって、私は小さく言った。
「あなたがそこに立っていてくれること、それ自体が私にとって一番の励ましなんだよ」
言い終えると、彼が反応するのを待たずに、私は再び背を向け、廊下の突き当たりにある特別教室棟へ向かって軽快に走り出した。
背後から足音は聞こえてこない。
霜月君はまだその場に立ち尽くしているようだ。
すべてをデータとして処理する彼のことだ。今頃、この数式では解けない『感謝』というバグに直面し、フリーズしたみたいに思考の迷宮に入り込んでいるに違いない。
彼のそんな顔を想像するだけで、笑いがこみ上げてくる。
自分のやりたいことをやり、言いたいことを言う……これって、こんなに楽しいことだったんだ。
けれど。
私が慣れ親しんだ気象観測部の鉄の扉を開けた時。
私は予想もしていなかった。私たち二人だけの静かな避難所が、今日に限って……とんでもない『修羅場』と化しているなんて。
「ヤッホー! お兄ちゃん! 遅いよ!」
元気いっぱいの歓声と、ある種の不吉な予感が、同時に私の耳元で炸裂した。




