『聖女』の反逆
「千夏、今度こそカラオケ付き合ってくれるわよね?」
「最近ずっと『用事がある』って逃げてたけど、誤魔化しても無駄だから。さっき職員室見てきたけど、今日は委員会の定例会なんてないじゃない」
鋭い声が放課後の下駄箱前の喧騒を切り裂き、まるで命令コードのように私の思考を強制的に現実へと引き戻した。
私は瞬きをして、手首の冷たいプラスチックビーズから指を離す。
視線を薄暗い下駄箱の奥から引き剥がし、眼前に立ちはだかる三人の『友達』という名の壁に向けた。
先頭に立って威圧してくるのは、吉田真由。
腕を組み、小首をかしげ、丁寧にアイラインを引いた目で私を睨みつけている。さっき職員室まで私のスケジュールを確認しに行ったのは、間違いなく彼女だ。彼女は私たちのグループの『切り込み隊長』であり、常に一番大きな声で『集団の意志』を執行する。
真由の後ろに隠れて、口元を押さえてクスクス笑いながら同調しているのは、鈴木優奈。
彼女は自分の意思を持たないリピート機で、ただその場の空気を読んで動くだけ。今は笑っているけれど、その目には「千夏ちゃん、頼むから彼女たちを怒らせないでよ」という無言の圧力が滲んでいる。
そして、二人の間に立ち、終始一言も発さず、ただ完璧な微笑みを浮かべて私を見つめているのが――
河合玲奈。
彼女はこのピラミッドの頂点であり、私の『親友』だ。
彼女は退屈そうに自分の巻いた髪の毛先をいじっている。その瞳は一見優しげだが、底なしの沼のように暗い。彼女が話す必要はない。真由が口にする言葉のすべてが、玲奈の意志なのだから。
「えっと……真由ちゃん、玲奈ちゃん」
私は無意識のうちに、何千回と練習した媚びるような笑みを浮かべようとしていた。
「ごめんね……委員会はないんだけど、私、ちょっと別の――」
「『別の用事』?」
真由が私の言葉を遮り、一歩前に出る。靴を履き替えて逃げるルートは完全に封鎖された。
「また? 隣のクラスの荷物運び? それとも図書室の手伝い?」
「千夏、あんた最近ちょっと優先順位おかしくない? そんな誰でもいい雑用と、ウチらの合コンの決起集会と、どっちが大事なの?」
そこでようやく、玲奈が口を開いた。
「真由、そんな言い方しないであげてよ」
彼女は優しく真由の腕を引き、それから潤んだ大きな瞳で私を見つめた。
「千夏はきっと忘れてただけだよね。ほら、委員長で忙しい人だから」
「でもぉ……もし今回も来てくれなかったら、みんな本当に悲しむよ?」
玲奈は瞬きをする。その笑顔は完璧で、つけ入る隙がない。まるで心から私のことを思っているかのような顔だ。
「みんな千夏に来てほしくて楽しみにしてるのに。一緒にワイワイ歌ったら楽しいじゃん」
歌う。
そう、名目は『一緒に歌う』だ。
でも私だけが知っている。あのタバコと安っぽい香水の匂いが充満した個室で私を待っているのは、マイクなんかじゃない。永遠に入り続ける予約曲の管理と、空になるたびに注がなければならないドリンクの世話だ。
みんながストレスを発散している間、私は部屋の隅に座り、いつでも動ける『盛り上げ役』という名の置物になるだけ。
「行かない」
その四文字が喉元まで出かかり、棘のように声帯を突き刺す。
でも、断った後のあの凍りつくような空気を想像するだけで、二年前の透明だった自分を思い出し、恐怖で体が強張る。
「私……」
またいつものように妥協して、あの偽りの仮面を被り直そうとした、その時だった。
「どけ」
冷淡で、抑揚のない男の声が、不意に私の背後にある下駄箱の向こう側から響いた。
「換気口を塞いでいる」
その声は決して大きくはなかったが、煮えたぎる油の中に落とされた一滴の絶対零度の氷水のように、周囲の熱っぽい空気を一瞬で冷却した。
私は弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、中肉中背の、背筋をピンと伸ばした男子生徒。
顔立ちは目を引くほどではないけれど、ただそこに立っているだけで、周囲とは相容れない異質なオーラを放っている。
霜月理人。
その底知れない黒い瞳は、他の男子生徒のように欲望に満ちているわけでも、迷いがあるわけでもない。
それはあらゆる光を吸い込むような目だった。無機質で、それでいて恐ろしいほどに鋭利。まるで皮肉を突き抜け、人間の最底辺にある論理と欲望を直接見透かすような視線。
彼を見た瞬間、私は息を呑んだ。
走馬灯のように、ここ数週間の間に彼が引き起こした不可思議な光景が脳裏を駆け巡る。
最初は、あの放課後の旧校舎。
大柄な鬼塚先生に詰め寄られ、恐怖で震えていた私を、誰一人として助けてくれなかった時……。
もう終わりだと思った。
でも、彼だけが前に出てくれた。
彼は冷徹な論理で教師の常識を粉砕し、あの絶望的な状況を完全にひっくり返してみせた。
後で震えながら理由を尋ねると、彼はただ淡々と「貸し借りの清算だ」と言い放った。
たとえその理由が冷たい計算だったとしても、あの背中は、正義を口にする誰よりも頼もしく見えた。
二度目は、全校生徒が注目するグラウンドで。
鬼道先輩を陥れるために自傷までした佐藤君を前に、彼は保身に走るどころか、数百人の前で躊躇なく自分の額を石で叩き割った。
真実を証明するためなら流血すら厭わない、あの狂気……。
みんなの目には、彼は根暗な変人で、狂人で、屁理屈ばかり言うひねくれ者に映っているかもしれない。
でも、私は知っている。
誰もが仮面を被り、顔色を窺いながら『空気』を読んでいるこの偽りの学校で……。
霜月理人という変人は、誰よりもリアルに生きていることを。
「ハァ? またあんた?」
玲奈は霜月君を見ると、完璧だった作り笑いにヒビを入れ、露骨な嫌悪感を露わにした。
「ウチら女子会の話してんだけど。あんたみたいな陰キャには関係ないでしょ」
霜月君は玲奈の挑発に取り合わなかった。
彼はただ鞄を片方の肩に掛けたまま、ゆっくりと私のそばまで歩いてくると、まるで実験データを観察するような目で周囲を一瞥した。
「君たちの社交活動に干渉するつもりはない」
霜月君は平坦な声で言った。そこには何一つ感情が乗っていない。
「だが、先ほど『カラオケ』というキーワードを捕捉した」
彼は心底不思議そうに小首をかしげた。
「音響工学の観点から言えば、カラオケボックスは高デシベルの密閉空間だ。あのような環境下では、人間の聴覚神経は九〇デシベル以上の騒音衝撃を持続的に受け続けることになる上、換気システムも極めて非効率だ」
「それだけじゃない。参加者は濁った空気の中で、音程の極めて不安定な個体がマイクを通して増幅させた歌声を聴かされ、その対価として決して安くない料金を支払うことになる」
そこで彼は玲奈に視線を向けた。その目には憐れみすら浮かんでいるように見えた。
「金を払って苦痛を買いに行き、それを『楽しい』と定義するとは……失礼だが、経済学的に見て典型的な『マイナスリターンの行動』だと言わざるを得ない」
「あんたぁ――ッ!!」
玲奈の顔が一瞬で朱に染まる。
隣の真由と優奈も口をあんぐりと開けていた。『歌うこと』をここまで無価値なものとして貶められ、しかも反論の余地を与えられなかったことに驚愕しているようだ。
霜月君は彼女たちの怒りを無視して振り返り、その底知れない瞳でまっすぐに私を見た。
「それに、星野」
彼は私の名前を呼んだ。
「現在、一五時四五分だ」
「気象観測部の部則に基づけば、今日の雲画像データ記録作業は一六時三〇分までに完了させる必要がある。あのような非効率な社交活動によってデータが欠損すれば、来週の降水確率のモデリングに支障が出る」
彼は「行くな」とは言わなかった。
ヒロインを助けるヒーローのように、私の前に立ちはだかって「彼女をいじめるな」と叫んだわけでもない。
彼はただ、この上なく正当な理由――『部活』という鍵を、私の手に握らせてくれただけだ。
彼は待っている。
その瞳は精密なスキャナーのように静かに私を見つめ、私の恐怖も、迷いも、逃げ出したいのに踏み出せない心臓の鼓動さえも見透かしている。
彼の視線に晒されると、私の魂は透明になり、隠れる場所なんてどこにもないように思える。
(霜月君なら……)
彼の目を見ていると、押し殺していた心の声が不意に響いた。
霜月君なら、こんな行きたくもない誘い、〇・一秒も迷わずに断るだろう。
彼は誰の顔色も窺わない。
自分の存在を確認するために、あんな偽りの友情なんて必要としない。
私も……そうなりたい。
もう、これ以上誰かの都合のいい道具でいたくない。
嫌なことに愛想笑いをするのは、もう嫌だ。
時間が引き伸ばされたようだった。
周囲で喚く玲奈たちの声が遠ざかり、脳裏にいくつもの記憶が泡のように浮かび上がってくる。
先々週の土曜日を思い出した。
本来ならバスケ部の応援に行かなければならなかった日。
あの日、私はスマホの電源を切り、気象観測部に引きこもった。
罪悪感で居ても立ってもいられなくなると思っていた。『ドタキャン』なんてしたら世界が終わると思っていた。
でも……違った。
あの日の午後、風の音と本をめくる音しかしないあの部屋で、インスタントコーヒーを飲みながら、霜月君が話す難解な気象用語を聞いていた時間。
それはここ数年で、一番呼吸が楽だった午後だった。
最近のことを思い出した。
玲奈に雑用を押し付けられた時、真由に当然のようにパシリをさせられた時。
以前ならすぐに笑顔で「いいよ」と言っていた私が、消えていた。
代わりに、返事をする前に一瞬の『間』が生まれるようになった。
そのわずかな沈黙の中で、私の心は拒絶と嫌悪、そして嘘をつく自分への吐き気で満たされていた。
そうか……もう、演じきれなくなっていたんだ。
他人に気に入られるために生きる『聖女』も、利用されることを『価値』だと言い聞かせてきた星野千夏も、とっくに壊れていたんだ。
私はずっと逃げたかった。
ずっと、この重たい仮面を叩き割りたかった。
ただ勇気がなくて、誰かが背中を押してくれるのを待っていただけ。
そして今、その人がすぐ隣にいる。
霜月理人。
みんなに嘲笑される変人だけど、誰よりも背筋を伸ばして生きている人。
すべてを見透かすような彼の瞳が、無言で私に問いかけている。
『お前の時間は、これからも安売りのままでいいのか?』
いいや。
もう、嫌だ。
私は拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みで、体の震えを止める。
深く息を吸い込むと、心臓が喉から飛び出しそうなくらい激しく跳ねた。
でも、今回だけは、私は視線を逸らさなかった。
顔を上げ、玲奈を見て、そしてかつて弱かった自分自身を見据える。
「……行かない」
「え?」玲奈がぽかんとした顔をした。聞こえなかったみたいだ。
「行かないって言ったの」
声はまだ微かに震えていたけれど、言葉の一つ一つは驚くほど鮮明だった。
私は一歩前に踏み出し、霜月君の隣に立った。世界と戦うための勇気を、彼から吸い取るように。
「私、あそこ嫌い」
「うるさい場所は嫌いだし、あのタバコの匂いも嫌い。行くたびに頭が痛くなるの」
驚愕で顔を歪ませていく玲奈に向かって、私は初めて、自分の本当の言葉を放った。
「カラオケなんかより……部活に行きたい」
「私には、もっと大事なことがあるから」




