サンプルA(聖女) ~彼女はなぜ、損な役回りばかり引き受けるのか~
翌朝。
再び二年B組の教室に足を踏み入れた時、「排斥」という名の空気濃度は昨日よりも数パーセント上昇していた。
靴箱に画鋲を入れられることも、机に落書きをされることもなかったが、視線の回避とひそひそ話の頻度が、僕が「クラスの発がん性物質」であることを明確に示していた。
どうでもいい。
集団に馴染むつもりはない。
僕は窓際の席に座り、ヘッドホンを装着した。
だが今回、僕はホワイトノイズを流さず、「受信周波数」を調整した。
解析すると決めた以上、まずは身近なデータソースから着手すべきだ。
この閉鎖された教室空間において、情報密度が最も高く、相互作用が最も頻繁なノードは、間違いなくクラスの権力構造の中心にいる「委員長」――仮にサンプルAと呼称しよう――だ。
空気の管理者(メンテナンス担当)として、彼女は巨大な信号発信塔のように、絶えず周囲へ向けて修飾されたデータを放射し続けている。
……
一限目の休み時間。
観測の機会はすぐに訪れた。
「あのぉ……千夏ちゃん~」
数人の女子が、彼女の机を取り囲んだ。
リーダー格は、昨日彼女の後ろにいた取り巻きの一人――女子Aと呼ぼう。
彼女の名前に記憶リソースは割いていない。
「今日の放課後の日直なんだけどぉ、代わってもらえないかな? 隣の学校に届け物しなきゃで、急いでるんだよね~」
典型的な、感情を人質にした強要だ。
僕は焦点を合わせ、音声と心声、双方の同期受信を開始した。
女子A(表):
「お願い! 今度スタバ奢るから! 千夏ちゃん大好き!」
女子A(裏):
『めんどくせ。今日は新しくできたパンケーキ屋に並びたいんだよ。どうせ委員長なんだから、これくらいの雑用やるでしょ。』
委員長(表):
「え? でも私、今日は早めに帰ろうと……」
委員長(裏):
『私も本屋に行きたいのに! ていうか先週も代わったじゃん? 図々しいにも程があるでしょ? 断れ……早く断ってよ!』
いいぞ。
双方の利益要求が衝突した。
ゲーム理論に基づけば、ここでの委員長の最適解は「拒否」だ。
相手は等価交換を提供していない。「今度スタバ奢る」など換金不能な空手形であり、かつ委員長自身の時間コストも高い(本屋に行きたい)。
しかし次の瞬間、委員長の口角は熟練の動きで吊り上がった。
委員長(表):
「うーん……もう、仕方ないなぁ。いいよ、任せて。用事、急いでるんでしょ?」
委員長(裏):
『……私、何やってんの。まあいいや、ここで断ったら、絶対LINEグループで陰口叩かれるし。「これくらいの協力もできない」とか言われて。我慢すればいい。三十分で終わる。』
「やった! ありがと千夏ちゃん!」
女子Aは満足げに立ち去った。心の中で『よっしゃ、無料の労働力(タダ働き)ゲット』と思いながら。
委員長は笑顔で手を振ったが、背を向けた瞬間、瞳の光が消え、淀んだ水溜まりのような色に変わった。
観測結果:論理的矛盾。
内心では極めて強く拒絶しており、相手に利用されていることを明確に理解していながら、彼女は自己利益を犠牲にして相手の理不尽な要求を満たすことを選択した。
これは生物の「苦痛を避け快楽を求める」本能に反している。
なぜだ?
単に「陰口を叩かれる」というリスクを回避するためだけか?
そのリスクの実質ダメージ値は、彼女が支払った時間コストを本当に上回るのか?
この理解不能なアルゴリズムは、僕に「無限ループ(死のループ)」に似た困惑をもたらした。
この現象を解明するには、さらなるデータが必要だ。
そこで、次の休み時間、千夏が課題ノートを抱えて僕の席の横を通った時、僕は口を開いた。
「星野さん」
千夏の身体が明らかに硬直した。
彼女は足を止め、振り返る。
顔には即座にトレードマークの笑顔を貼り付けたが、瞳の奥底は警戒心で満ちていた。
『……また? この変人、また私の筋肉分析する気?』
『大きい声出さないでよ、みんな見てるじゃん。』
「なにか用かな? 霜月くん」彼女は完璧な声色を維持した。
「先ほどの日直の交代について」
僕はあえて声を潜めることはせず、平常の、あるいは少し冷淡とも取れる口調で直接問いただした。
「君の内心は極めて強い拒絶を示しており、かつ相手の要求は明白な『理不尽な搾取』だった。個人の収支がマイナスである状況下で、なぜ君は受諾を選択したんだ?」
彼女の瞳孔が瞬時に収縮した。
僕がそこまで直接的に聞くとも、ましてや彼女の矛盾をこれほど赤裸々に空気中に晒すとも思っていなかったのだろう。
近くにいた数人のクラスメイトが僕の言葉を聞きつけ、好奇の視線を投げてきた。
『こいつ、ずっと私を監視してたの? 気持ち悪ッ……』
『声デカいよ! 聞かれるじゃん! 早く黙って!』
『なんで私が嫌がってたって分かったの? まさか表情管理できてなかった?』
だが、彼女はやはり百戦錬磨の「偽装の達人」だ。
彼女は素早く周囲を一瞥し、僕に怒るのではなく、立ち位置を変えて視線の一部を遮り、まるで聞き分けのない子供を諭すような、包容力に満ちた口調で答えた。
「霜月くん、分かってないなぁ」
彼女は少し小首をかしげ、髪を肩に流した。
「クラスメイト同士、助け合うのは当たり前だよ。私も早く帰りたかったけど、私が手伝わなきゃ、あの子が困るでしょ? 友達のために自分の時間を少し犠牲にする、それも委員長の仕事だからね」
完璧な模範解答。
隙のない道徳的高地。
彼女は僕の詰問を「空気が読めないが故の誤解」へと変換し、自身の「親切な人」というキャラクター設定を再強化することに成功した。
『これでいいでしょ? 早く会話終わらせて。これ以上掘り下げないで。実験用のマウスを見るような目で私を見ないで!』
『私は間違ってない。クラスの空気のためなんだから。これは必要な維持コストなの! あんたみたいな誰にも相手にされない怪物には一生分からないわよ!』
僕は彼女を見た。
彼女は嘘をついている。僕に対して、そして彼女自身に対して。
彼女は「委員長の責任」や「友情」といった壮大な語彙を使って、「断る勇気がない」という自身の弱さを隠蔽しようとしている。
「なるほど」
僕は頷き、脳内のメモ帳のデータを更新した。
「『虚構の人間関係の維持』を、『個人の実質的利益』より上位に置く。それが君の行動ロジックか。了解した」
「……は?」
千夏の笑顔が崩れかけた。
「回答に感謝する。僕はただ、自分の観測モデルを検証したかっただけだ」
僕は再びヘッドホンを装着し、本を開いた。
千夏はその場で、理解するまでに二秒ほど硬直していた。
『……なんなのコイツ!』
『意味わかんない! 観測? 私をナニカとして観測してるわけ?』
『やっぱりキチガイだわ! 離れよ!』
彼女はノートを抱え、逃げるように早足で去っていった。
僕は彼女の背中を見送った。
彼女は答えを出したが、その答えは僕を納得させるには至らない。
なぜなら、彼女が「我慢」している時、その心声の波形は苦痛を示していたからだ。
人間はなぜ、能動的に苦痛を選択する?
凛は「人間を見ろ」と言ったが、見れば見るほど、この生物種にはバグが多いように思える。
だが、実験は始まったばかりだ。
理解できないなら、収集を続けるまで。
合理的なモデルを構築するのに十分なデータ量が溜まるまで。
「嫌なのに、なぜ引き受ける?」
理人にとって、千夏の行動は最大の謎です。
普通なら「優しさ」で片付けられる行動を、論理的に分解していく理人。
このズレが、二人の関係をどう変えていくのか。
**本日まだまだ更新します!**
次は**【本日 18:10】**に更新します。




