矛盾する座標と、草むらの切り札(エース)
鮮血が眉を伝い、目尻を滑り落ち、顎で雫となって溜まる。
右目の世界が赤く染まった。
だが、僕の視界はかつてないほどクリアだった。
沸騰していたグラウンドは、今や風が草を揺らす音さえ聞こえるほどに静まり返っていた。
全員が僕を見ていた。
身の潔白を証明するために、自らの頭を叩き割った狂人を。
もはや誰も僕を「クズ」とは罵らず、佐藤に無思考な同情を寄せる者もいない。
なぜなら、僕もまた血を流しているからだ。
僕もまた「被害者」の座に登ったからだ。
「……よく見ろ」
僕は手を上げ、顔の血を拭うこともせず、へたり込む佐藤を指差した。
「もし鬼道に殴られたのなら、彼の身長(185センチ)とリーチを考慮すれば、君が立位または逃走中の場合、拳の着弾点は頬骨側面となり、傷は横方向の裂傷となるはずだ」
僕は一歩踏み出し、絶対零度の声で告げた。
「だが、佐藤君。君の傷は眉骨の真上に集中しており、かつ明確な『下から上へ』の衝撃痕を示している」
「法医学上、これは典型的な**『硬質物への能動的衝突』**の特徴だ」
「つまり、君自身が身を屈め、石か何かの角に額を叩きつけたということだ」
佐藤(裏):
『……こいつ……化け物か?』
『血が出てるんだぞ……なんで声ひとつ震えねえんだ?』
『角度だの……法医学だの……こんな時に誰がそんなもん気にするんだよ!』
『ダメだ……認めちゃダメだ! 鬼道がやったって言い張れば、みんなまだ信じてくれるはずだ!』
佐藤の心理防壁が揺らぎ始めた。
僕の「人間離れした」冷静さを前に、本能的な恐怖を感じている。
彼は無様に後ろへ退き、距離を取ろうとした。
「で……デタラメ言うな!」
彼は叫び、音量で虚勢を張った。
「鬼道がやったんだ! 証拠だってある! さっき体育館の裏で脅されたんだよ……金出さなきゃ殺すって!」
「あいつはまだそこにいる! あそこで俺を見てるんだ!」
彼は背後の体育館出口(グラウンド東側)を指差し、断言した。
「ほう?」
僕は足を止め、血塗れの唇で嘲笑を浮かべた。
「鬼道が体育館の方にいると?」
「ああそうだよ! 今逃げ込んだんだ!」佐藤は藁にもすがる思いで叫んだ。
「……誰がそこにいるって?」
低く、しゃがれた、そして明らかに不機嫌な声が、不意に響いた。
だが、体育館の方角からではない。
真逆の方向――グラウンド西側、あの鬱蒼とした緑地帯の中からだ。
全校生徒が凍りついた。
全員の首が、錆びついた機械のようにギギギと西へ向く。
ガサガサッ――
植え込みが激しく揺れた。
次いで、一本の手が枝を払いのけた。
ボサボサの頭に枯れ葉を数枚乗せ、寝起きのような顔をした大柄な男が、草むらから姿を現した。
彼は大あくびをし、ズボンの裾についた泥を払った。
鬼道 蓮。
「……鬼道?」
「え? なんであっちに?」
「佐藤は体育館(東)から逃げてきたって言ってたよな? なんで反対側(西)の茂みから出てくるんだ?」
「ていうかあの感じ……ずっとあそこにいたっぽくないか?」
ざわめきが再燃した。
だが今度は僕への非難ではなく、佐藤の証言に対する根本的な疑念だ。
物理的位置の矛盾は、いかなる演技力をもってしても補填できない致命傷だ。
佐藤は反対方向から現れた人影を見て、幽霊でも見たような顔をした。
「鬼道……なんで……ここに?」
「お前……停学中だろ? 家にいるんじゃ……」
「あ? 停学?」鬼道は彼の言葉尻を拾い、鬱陶しそうに耳をほじった。「おう、停学中だよ。だから教室には入ってねえ」
彼は背後の草むらを親指で示した。
「朝からずっとあそこで寝て蚊に刺されてたんだよ。家ン中は息苦しいからな」
そう言うと、彼は呆気にとられる生徒たちの輪を無視し、一直線に僕の元へ歩いてきた。
血まみれの僕を一瞥し、同じく血まみれの佐藤を見下ろし、最後に盛大に白目を剥いた。
「おい、霜月」鬼道は文句を垂れ始めた。怨念がこもっている。「テメェ遅すぎだろ? あのクソ狭い草むらで半日だぞ? 足痺れたわ」
「これが『合図』かよ? あと少し遅かったら蟻の餌になるとこだったぞ」
理人(裏):
『……こいつ、本当に言いつけ通りずっと潜んでたのか。』
「必要な待機時間だ」僕は彼の文句を無視した。
「獲物を完全に罠の中央へ誘い込むには、ギリギリまで待つ必要があった」
「ケッ、めんどくせえ」
鬼道は首を鳴らし、ボキボキと音を立てた。
彼は向き直り、地上の佐藤を見下ろした。
その目にかつてのような暴虐な殺意はなく、哀れな虫を見るような憐憫だけがあった。
「で、軍師サマ」鬼道は佐藤を顎でしゃくった。「俺は出てきたぞ。どうすんだ? こいつシメていいのか?」
「弱きは殴らねえ主義だが、このクズには反吐が出るほどムカついてるんでな、特例措置でもいいぜ」
佐藤はビクリと震え、反射的に頭を抱えた。「殴らないで! 先生! 助けて!」
「必要ない」僕は呆れ顔で鬼道を制した。
「今手を出せば、これまでの忍耐が全て水泡に帰す。暴力は潔白を証明しない。世論を再反転させるだけだ」
「チッ、つまんねえの」鬼道は肩をすくめ、拳を下ろした。
「へいへい。じゃあ好きにしろよ。俺はここで見ててやるからよ」
彼は腕を組み、仁王像のように僕の背後に立った。
その瞬間、いわゆる「軍師と用心棒」という噂が、ある意味で具現化した。
だがそれは卑劣な恐喝コンビなどではない。「論理と武力」による絶対的な制圧陣形だ。
周囲の人々は僕らを見ていた。
平然とした鬼道と、血まみれでも冷静な僕。そして地上で支離滅裂になり、論理が崩壊している佐藤。
どんなに鈍い人間でも、今、真実の匂いを嗅ぎ取っていた。
佐藤(裏):
『……終わった。』
『なんで鬼道があそこにいるんだ? なんで家にいないんだよ?』
『俺の脚本が……全部狂った。』
『みんな俺を見てる……あの目……同情じゃない、疑いだ。』
彼の心理防壁は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。
僕は一歩踏み出し、彼の前まで進んだ。
僕の影が彼に落ち、彼を完全に覆い隠す。
「傷痕の物理分析との不整合」
「鬼道の地理的座標の矛盾」
「そして……君がたった今口走った『なんでここにいる』という失言」
僕は彼を見下ろし、血のついた指で伊達眼鏡を押し上げる仕草をした。そして最後の宣告を下した。
「全ての証拠は、単一の結論を指し示している」
「強盗はなかった。恐喝もなかった。共犯者も存在しない」
「さて、佐藤君」
僕は彼を俯瞰し、死寂したグラウンドに声を響かせた。
「君が脚本・演出・主演を務めたこの三文芝居について、何か申し開きはあるかな?」




