二十万円のチップ
「……佐藤! 一体どうしたんだ!?」
人垣の中から、彼を知る数人の男子生徒がようやく我に返り、崩れ落ちそうな佐藤を支えた。
「血が……すごい量だぞ……早く、早く救急車を!」
「い……いいんだ……」
佐藤は支えてくれた生徒の腕を、驚くほど強い力で掴んだ。
彼は血肉にまみれた顔を上げ、周囲に十分聞こえる声量で泣き叫んだ。
「俺は……俺はみんなの金を……守ろうとして……」
「金?」
「今日は俺が日直で……クラスのみんなから集めた『卒業アルバムの積立金』を、事務室へ届けに行くところだったんだ。二十万円も入ってる……」
佐藤は荒い息をつき、鮮血がシャツの襟元に滴り落ちた。
「でも……突然鬼道から電話があって、体育館裏に来いって言われたんだ。怖かったけど、行ったよ……」
「前のことを根に持ってるのかと思って」
「でも、俺が大金の入った封筒を持ってるのを見て」
「あいつ……『その金置いてけ、そしたら許してやる』って」
「渡せるわけないだろ? 千円や二千円じゃないんだぞ?」
「みんなが必死に貯めた金なんだ! だから俺、断ったんだ……必死に鞄を守って……」
「そしたら……あいつ……」
佐藤はバックリと割れた眉骨を指差し、声を極限まで震わせた。
「俺の鞄を奪い取って……『これが俺に逆らった罰だ』って……」
ドッ――!
その一言は、ガソリン入りのドラム缶を「世論」という焚き火に放り込んだも同然だった。
「強盗じゃん!?」
「金のためにここまでやったのかよ?」
「やりすぎだろ……完全に犯罪じゃねーか!」
「鬼道……あそこまで落ちたのか?」
周囲の生徒たちの目が変わった。
これまでの感情が単なる「いじめっ子への嫌悪」だったとすれば、今は「強盗傷害犯への義憤」だ。
数十万円の公金横領に加え、この惨たらしい怪我。事態の性質が変わったのだ。
僕は高みから、この完璧な供述を冷ややかに聞いていた。
理人(裏):
『……やるな。』
『佐藤雄大、お前は天才的な狂人だ。』
認めざるを得ない。彼の一手はあまりに精妙だ。
第一に、罪状の格上げ。
単なる喧嘩なら「不良同士のトラブル」で済む。だが数十万円の公金強奪となれば、それは明白な「刑事事件」だ。これで鬼道は社会的に抹殺され、噂の中で「軍師」とされる僕も、校内カーストの最底辺へと叩き落とされる。
第二に、自傷という防御壁。
あの直視に耐えない傷口を利用し、彼は絶対的な「被害者」の地位を確立した。人間の本能は、弱者と負傷者に無条件の同情を寄せる。この惨状を前にして、理性的な疑念を挟む者は「冷血漢」として排除される。
第三に、舞台の選定。
彼は教師の元へは行かず、グラウンドへ来た。
教師に行けば、現場保存、証拠採取、アリバイ確認という事務的手続きが入る。それでは嘘の綻びが出やすい。
だが彼は生徒を選んだ。生徒は感情的で、扇動されやすい。
彼は試合前の高揚感を利用し、勝利への熱狂を一瞬にして「悪人への怒り」へと変換した。
教師が駆けつける頃には、世論という空気は凝固しており、鬼道が何を言おうと誰も耳を貸さないだろう。
これは人間の弱点を知り尽くし、かつ自らを犠牲に捧げた必殺の盤面だ。
「だが……」
僕はスマホを取り出し、あらかじめ設定しておいたショートカットキーを押した。
佐藤、お前は全てを計算した。
だが、演技が迫真であればあるほど、物理的な綻びは増えるものだ。
僕はスマホをしまい、深く息を吸った。
そして、この全校生徒が騒然とし、怒号が飛び交う中、一歩一歩、スタンドの階段を降りていった。
「どけ」
僕は道を塞ぐ生徒を押しのけた。声は大きくないが、拒絶を許さない冷硬さが滲んでいた。
人波が強引に割られる。
僕は佐藤の前まで進み出た。
僕の姿を認め、佐藤の目が明らかに怯えに揺らいだ。だが即座に、より狂気的な告発へと切り替えた。
「霜月……! お前! よくも来れたな!」
彼は僕を指差し、金切り声を上げた。
「お前だろ! 鬼道に俺が金を持ってる時間を教えたのは! お前も共犯だ! みんな、こいつを捕まえてくれ!」
周囲の男子生徒たちが殺気立ち、僕という「悪人」を取り押さえようと身構える。
だが僕は彼らを無視した。
ただ佐藤から一歩離れた場所に立ち、その血肉の混じった顔を見下ろし、そして、あまりに唐突に口を開いた。
「傷の角度が、おかしい」
「……は?」
周囲の人間が呆気にとられた。
佐藤の絶叫も喉に詰まった。
僕は彼らに反応する時間を与えず、感情の一切ない声色で、冷徹な検死解剖のような分析を続けた。
「君は、鬼道に金を奪われる際に殴られたと言った」
僕は自分の額を指差した。
「鬼道の身長は185センチ。対して君は170センチだ。彼が正面から拳を振るったなら、傷は君の頬骨か眼窩の側面に生じ、かつ横方向の挫傷痕として残るはずだ」
「だが、君の今の傷は眉骨の真上にあり、かつ下から突き上げるような亀裂が入っている」
僕は目を細めた。
「それはまるで……君が自ら腰を屈め、鋭利な角に向かって頭突きをしたかのような傷だ」
「何わけの分からないこと言ってんだ!」
正義感に燃えた男子生徒の一人が僕に怒鳴った。
「こんなに怪我してるんだぞ! まだ鬼道を庇う気か? お前人間じゃねえのか!」
「事実を述べているだけだ」
僕は首だけ回し、その男子を冷たく一瞥した。絶対零度の瞳に射抜かれ、彼は反射的に口を閉ざした。
そして、僕は再び佐藤を見た。
「それに、出血量は派手に見えるが、その多くは表皮からのものだ。脳震盪の兆候が見られない」
「佐藤君、君の意識は明瞭で、論理は一貫しており、こうして大声で告発できるほど元気だ」
僕は一歩踏み出し、へたり込んでいた佐藤を威圧するように見下ろした。
「それは、たった今暴行強盗に遭った被害者には見えない」
「むしろ……入念にメイクを済ませ、舞台に上がる準備を整えた役者のようだ」




