喧騒の祭り、鮮血の侵入者
それからの二日間、時間は異常に遅く、それでいて不気味なほど平穏に過ぎた。
校内の噂は依然として発酵を続けている。
廊下での悪意ある視線、トイレの個室に増えた落書き、すれ違いざまの故意の肩の衝突……「排斥」という名の小さな嫌がらせは止まない。
だが、局面を決定的に爆発させる「大事件」は起こらなかった。
僕は絶対的な日常を維持した。
授業中は真面目にノートを取り、昼休みは読書をし、放課後は定刻通り気象観測部へ向かう。
千夏は毎日来た。
時間の経過と共に彼女の表情には憂色が濃くなっていったが、僕が淡々と機器を校正し、不味いインスタントコーヒーを平然と啜る姿を見ると、強張った肩の力が少し抜けるようだった。
「……霜月くんがコーヒー飲んでると、何事もない気がしてくるよ」
彼女はそう苦笑していた。
僕は答えなかった。
ただ心の中でカウントダウンを続けていた。
これは嵐の前の低気圧に過ぎない。
闇に潜む狩人は、今頃丁寧に猟銃を磨き上げ、最高の射撃タイミングを待っているのだ。
……
金曜日。
決戦日。
朝、校門をくぐった瞬間から、僕は身体機能を臨戦態勢へと調整した。
右手は常にポケットの中にあり、指はスマホのサイドキーにかかっている。
【ショートカット設定完了】
【ワンタッチ録音:オン。】
【鬼道召喚シグナル:スタンバイ。】
しかし、午前の授業は拍子抜けするほど平穏だった。
突発的な呼び出し放送もなく、教師からの呼び出しもなく、佐藤本人さえも教室で大人しく座り、怯えた被害者を演じ続けていた。
この不気味な静寂は、午後まで続いた。
「おい! 霜月!」
六時間目の終了チャイムが鳴った直後、前の席の田中が興奮気味に振り返った。
彼はすでにユニフォームに着替え、額に汗止めのバンドを巻き、過剰な熱気を発散させていた。
「この後すぐ帰るなよ! 絶対グラウンド来いよな!」
田中は胸を叩き、誇らしげに言った。
「今日はサッカー部の秋季公開試合だ! 相手は隣町の強豪校! 学園祭前のプレマッチだし、全校生徒が見に来るんだぜ!」
「兄弟として、俺のゴールシーンを見届ける義務がある!」
僕は彼を見た。
普段なら「騒音レベルが規定値を超えており、視力にも悪影響だ」と拒絶するところだ。
だが……。
公開試合。全校生徒。人口密度極大。
もし僕が佐藤なら、もし僕が回復不能な社会的抹殺ショーを演出したいなら、この観衆に満ちた、感情が高揚したステージこそ、絶好の処刑場だ。
「……了解」
僕は頷き、鞄を閉じた。
「行くよ。観測者としてな」
「よしきた! お前なら来てくれると思ってたぜ!」
田中は嬉しそうに僕の机をバンと叩き、風のように教室を飛び出していった。
……
**午後四時半。学校グラウンド。**
熱気は沸点に達していた。
遮るもののない広大なフィールド。
スタンドは生徒で埋め尽くされ、ピッチの周囲には幾重もの人垣ができている。
吹奏楽部のブラスバンドが大音量で鳴り響き、チアリーディング部の女子たちがポンポンを振り回し、黄色い声援を送っている。
緑の芝生に西日が差し込み、土埃と汗の匂いが充満していた。
僕はスタンドの最上段、金網を背にした位置に立ち、グラウンド全体を俯瞰していた。
視界良好。
僕はフィールドをスキャンし、脳内にリアルタイム戦術マップを構築した。
左翼(東側): 旧校舎と体育館の接続部。普段は人通りの少ない薄暗い通路がある。
右翼(西側): グラウンドの対岸、特別教室棟裏手の荒廃した緑地帯。――あそこが鬼道蓮の現在の潜伏地点だ。
東西の両端は、巨大なサッカーコートによって隔てられている。
完璧な地理的距離だ。
試合開始直前。
審判が笛を口にくわえ、両チームがセンターサークルに整列する。
FWの田中が興奮して飛び跳ねているのが見える。
全校の歓声が最高潮に達した。
「いけーっ! 神楽坂!」
「田中! 決めろよ!」
数千の瞳が、一点の白黒のボールに集中する。
それは青春の最も輝かしい瞬間。
しかし。
審判が笛を吹く、そのコンマ一秒前。
「――助けてくれぇぇぇぇぇ!!!!」
この世のものとは思えない絶叫が、左翼(体育館方向)から突き刺さった。
それは歓声の周波数ではない。
純粋な、死に追われる者が発する、裂帛の悲鳴だった。
ピーッ!
審判の笛が中途半端に途切れた。
沸騰していたグラウンドは、突然電源を引き抜かれた機械のように、急速に音を失い、やがて鳥肌が立つほどの死寂に包まれた。
全員が振り返り、声の発生源を見た。
西日が差し込むそのエリア。
体育館へと続く薄暗い出口から。
よろめく人影が、転がるように飛び出してきた。
本校の制服を着ているが、その白シャツは今、鮮烈な深紅に染め上げられていた。
彼は片手で額を死に物狂いで押さえているが、指の隙間から鮮血が止めどなく溢れ出し、目を超え、頬を伝い、乾いた土の上に滴り落ちている。
もう片方の手は力なく垂れ下がり、足取りは覚束なく、一歩ごとに崩れ落ちそうだ。
佐藤雄大。
それはまるで、屠殺場から逃げ出してきた家畜のようだった。
彼は走りながら、何度も背後の暗い体育館出口を怯えきった様子で振り返る。まるでそこに、とてつもない怪物が潜んでいるかのように。
「助けて……助けて!!」
彼は群衆に向かって叫んだ。恐怖で裏返った声で。
「殺される……鬼道が……鬼道が殺しに来た!!」
その言葉は爆弾のように、静まり返った群衆の中で炸裂した。
「……は?」
「血……血だらけじゃん!」
「鬼道? 停学中のあの鬼道!?」
パニックの波が瞬時に伝播した。
ピッチサイドの生徒たちは反射的に後ずさり、空間を開けた。
佐藤は特定の誰かに向かうわけでもなく、ただ本能的に「人の多い場所」を目指していた。
ドサッ。
彼はピッチの端まで辿り着くと、体力が尽きたように芝生の上に激しく転倒した。
だが彼は止まらない。手足を無様に動かして地面を這いずり、血まみれの手を群衆へと伸ばした。
「助けて……誰か助けて……」
「あいつ狂ってる……俺を殺す気だ……」
「すぐ後ろ……すぐ後ろまで追ってきてるんだ!!」
全校生徒が凍りついた。
誰も近づけない。その凄惨な視覚的インパクトに、全員の脳処理が停止していた。
僕は高台から、芝生の上で蠕動する血だるまを見下ろしていた。
スマホを握る指が、録音ボタンを押すことさえ忘れていた。
【観測不能。】
深すぎる。
あの傷は深すぎる。
血糊ではない。あの皮肉の捲れ方は、メイクで作れるものではない。
硬い鈍器で眉骨と鼻梁を全力で殴打し、骨にまで達していなければ生じ得ない重傷だ。
僕は無意識に自分のこめかみを押さえた。
見ているだけで、脳内のミラーニューロンがあの眩暈がするような激痛をシミュレートしてしまう。
生物としての本能が絶対的に回避する痛みだ。
だが、佐藤はそれをやった。
鬼道を陥れるために、僕らを地獄へ道連れにするために、躊躇いなく自分の顔面を粉砕したのだ。
理人(裏):
『……冗談だろ。』
『復讐のために、そこまでやるのか?』
僕の事前の「全方位防御」は、「相手が合理的利益を追求する人間である」という前提に基づいていた。
奴は暗がりに隠れるタイプで、勝ち確の盤面でしか出てこないと思っていた。
だが間違っていた。
こいつは狂人だ。
獅子を噛み殺すためなら、自分自身を爆弾に変えることも厭わない狂人だ。
僕は佐藤の残った片目を見た。充血し、涙を流している。
だがその悲惨な仮面の下で、全てを焼き尽くす黒い炎が燃えているのを感じた。
それは単なる計算ではない。
覚悟だ。
歪みに歪みきった、生存本能さえ凌駕する復讐への覚悟。
「……佐藤雄大」
僕は握りしめていた手を開いた。掌は冷や汗で濡れていた。
たとえ僕であっても、この瞬間は認めざるを得ない。
その反吐が出るような執念……自分自身さえ切り刻むその決断力……。
本物だ。
即座に対策が浮かばない。
僕はただ立ち尽くし、「人間の悪意」という名の巨大な津波を、正面から浴び続けていた。




