闇の中のゲームツリーと、欠けたピース
職員室を出た後、僕はすぐには教室へ戻らなかった。
あの「ひそひそ話」という名のノイズに満ちた空気はあまりに濁っており、精密思考には適さない。
僕は階段を上がり、普段は人気のない図書室の最奥部へ向かった。
死角になる席を確保し、ポケットからくしゃくしゃになったルーズリーフを取り出し、再び広げた。
ペンの先を紙の上で止める。
【現時点での確定情報】
敵性状態:佐藤雄大。情緒極めて不安定、「復讐未遂」による焦燥期にある。
タイムリミット:金曜日。彼が心の中で明確に指定した「終結日」。
戦術特性:世論操作、証拠偽造、挑発による「既成事実」の構築を得意とする。
【核心的問い:彼は金曜日に何をするつもりか?】
僕は「金曜日」という文字を見つめた。
鬼道はすでに停学、僕は孤立状態。佐藤のアドバンテージは圧倒的だが、彼はまだ満足していない。彼が求めているのは「チェックメイト」だ。
ならば、どのような手を打ってくる?
僕は紙の上に博弈樹を構築し、論理的に可能な攻撃パターンを列挙し始めた。
【仮説1:偽証の積み上げ】
手段:一年生数名(あるいは彼自身の取り巻き)を買収または脅迫し、集団で「鬼道に恐喝された」「霜月が仲介役だった」と学校側に証言させる。
可能性:高。三人寄れば文殊の知恵ならぬ、三人嘘つけば真実になる。
対抗策:この攻撃には物的証拠がない。対質尋問において心理学的に証人の防衛線を崩せば、逆転可能だ。
【仮説2:物的証拠の捏造】
手段:違法物(タバコ、盗まれた試験問題、あるいはよりセンシティブな物品)を鬼道の下駄箱や僕の鞄に混入し、教師に通報する。
可能性:極めて高。最も低コストかつ高効率な抹殺手段だ。特に現在鬼道は不在で、彼の下駄箱は無防備だ。
対抗策:今から私物に対する常時監視を行う。鞄の隙間等に簡易的な物理的封印(髪の毛や埃の位置記憶)を施す。異動を検知次第、指紋保全を行う。
【仮説3:デジタル偽造】
手段:写真を証拠として使うくらいだ、LINE履歴の偽造や、僕のIDを騙った脅迫メールの送信も考えられる。
可能性:中。技術的ハードルが高く、IPアドレス等の痕跡が残りやすい。
対抗策:学内ネットワークログの監視(佐伯先生経由)。
【仮説4:脆弱点への攻撃】
手段:僕の周囲の人間――例えば千夏や田中を標的にし、彼らを傷つけることで僕を激昂させ、手を出させる。
可能性:佐藤の陰湿な性格に合致する。
対抗策:この数日間、千夏を絶対に単独行動させない。
僕はリストアップされた四つの仮説を見つめた。
偽証、捏造、サイバー攻撃、人質。
「利益最大化」と「リスク制御」の原則に基づき、考えうる攻撃手段は網羅したはずだ。
「……まずはこの四点を防げば、奴の陰謀は成立しない」
僕はこめかみを押さえた。
現状はロシアンルーレットのようなものだ。
銃に弾が入っていることは知っている。彼が金曜日に引き金を引くことも知っている。僕は防弾チョッキを着込み、盾も構えた。
だが、胸の奥に微かな不安が残る。
【欠けたピース】。
この論理の連鎖の中で、何か決定的な「媒体」が欠落している気がする。
佐藤はどうやってこれらの罪を具現化する? 何か媒介物が必要だ。
金か? 物か? それとも別の何かか?
僕は窓外を見た。
変わらないキャンパスの風景。
だがこの日常の皮の下で、「金曜日」という名の導火線はすでに燃え始めている。
……
しかし、戦場は動的だ。
既知の仮説に対する防御だけでは不十分だ。もし佐藤がこれら四象限を超越した「仮説5」を実行した場合、即応できる手段を持たねばならない。
「……汎用的な『動的防御システム』をもう一セット構築する必要がある」
僕はこめかみを押し、紙の余白に新たなコマンドを書き込んだ。
佐藤がいかなる混乱を引き起こそうと、その核心目的は「既成事実の構築」にある。
これを打破するには、僕自身が「現場凍結」の能力を持たねばならない。
【緊急プロトコル:全域スナップショット(Snapshot)】
物理記録:スマホのショートカットキーを再設定し、0.5秒以内に録音・録画を起動可能にする。何が起きようと、第一時間で客観的データを保全する。
権限借用:佐伯先生に対し「緊急介入権」を事前申請する。事態が制御不能に陥った際、彼女という「教師(権威ある第三者)」を即座に投入し、全員の行動を凍結させ、証拠の二次破壊を防ぐ。
世論切断:「最悪の事態」を想定した話術を用意する。もしその場で指弾された場合、感情的な弁明は一切行わず、論理的パラドックス(タイムラインの矛盾等)を指摘し、野次馬に疑念を植え付ける。
「まだ足りない」僕は思考を加速させる。
【核心変数:鬼道蓮の運用について】
これが、このゲームにおける最重要ピースだ。
佐藤がこれほど大胆に計画を推進できる最大の前提は――「鬼道は停学中である」という事実だ。
彼の目には、最大の物理的脅威は盤上から排除されていると映っている。
鬼道は家で無能な怒りを撒き散らすだけで、学内で起きる事象には干渉できない、と。
もし僕が佐藤なら、鬼道が絶対に出現できないタイミングを選んで決行する。
ならば、逆説的に――
この前提を崩すことこそが、局面打開の鍵となる。
だが、ここにはジレンマが存在する。
鬼道を早々に学校へ戻したり、周囲をうろつかせたりすれば、佐藤は警戒し、計画を延期するか変更するだろう。
それに鬼道の性格上、姿を見せれば再び挑発に乗って暴走するリスクが高い。
かといって鬼道をずっと家にいさせれば、金曜日の「クライマックス」発生時、彼は現場に急行できず、僕は強力な物理的抑止力(および重要証人)を欠くことになる。
結論:
鬼道は存在しなければならないが、同時に「シュレーディンガーの鬼道」でなければならない。
「物理的にはその場にいるが、観測上は存在しない」という重ね合わせの状態。
僕はペンを取り、紙の端に精密な行動指令を書き込んだ。
フェーズ1:絶対静黙(金曜日まで)
鬼道に対し、この数日間徹底的に「消失」するよう厳命する。
コンビニ不可、公園不可、カーテンを開けることすら不可。佐藤に対し「鬼道は完全に引き籠もった/抵抗を放棄した」という錯覚を与える。これは狩人を麻痺させるためだ。
フェーズ2:隠密配備(金曜日当日)
金曜日の放課前という「空白時間」を利用し、鬼道を「現場に極めて近く、かつ絶対に発見されない」戦略的緩衝地帯へ移送する。
気象観測部? 否、あそこは目立ちすぎる。佐藤も警戒しているはずだ。
旧校舎の用具室? リスクが高い。
僕の視線は、窓の外の特別教室棟の裏手に落ちた。
そこには拡張工事の名残で放置された緑地帯があり、雑草が生い茂り、体育館の裏口へと繋がっている。
教室からの距離:疾走して30秒。隠蔽性:Sランク。
「……決まりだ」
僕は口角に冷笑を浮かべた。
この獅子を、狩人の鼻先へ隠してやる。
佐藤が盤面を支配したと思い込み、勝利の果実を味わおうとしたその瞬間。
僕が自らの手で檻を開け、腹に怒りを溜め込んだ野獣を解き放ち、彼に一生忘れられない「サプライズ」を贈呈する。
僕は紙の上に完成した論理の網を見つめた。
防衛、監視、そして最後の反撃。
全ての駒の配置は完了した。
僕はロジック図を描いた紙を丸めた。
窓の外を見る。
逸る鼓動を鎮める。
「いつでも来い」
僕は立ち上がり、紙屑をゴミ箱へ放り込んだ。
全方位布陣。動的防御。
そして、最悪の場合には「最終手段」を行使する覚悟も完了した。
僕は自分なりに、水も漏らさぬ布陣を敷いたつもりだった。
だが、僕は依然として一つの変数を見落としていた――
ある種の悪意は、論理を介さないということを。
憎悪に食い尽くされた人間は、敵を噛み殺すためなら、「生存本能」に背く狂気的な選択さえし得るということを。
そしてそれこそが、僕という合理主義者にとって最大の死角だった。




