教師の査定と、廊下の影
一時間目の終了チャイムが鳴った瞬間だった。
教室のスピーカーから、不快な呼び出し放送が流れた。
「二年B組、霜月理人。至急、職員室まで来なさい」
教室内の空気が、先程の緩和状態から一転して微妙なものへと変わった。
前の席の田中が心配そうに振り返り、千夏も不安げに僕を見た。
女子Aの席からは、抑えきれない忍び笑いが漏れている。
僕は無表情で教科書を閉じ、立ち上がった。
予想通りの召喚だ。
噂がここまで発酵した以上、管理者である学校側が無反応でいられるはずがない。
……
職員室。
僕はデスクの前に立っていた。
対面に座っているのは、担任の伊藤だ。
生え際の後退し始めた頭、金縁眼鏡の中年男。
今、彼は貧乏揺すりをしながら、指先で苛立たしげに机を叩き、濁った目でレンズ越しに僕を睨みつけていた。
「霜月、なぜ呼ばれたか分かってるな?」
彼は声を潜めているが、その焦燥感は隠せていない。
「私に関する流言についてでしたら、申し上げることはありません」僕は淡々と答えた。
バンッ!
伊藤が机を叩いた。周囲で授業準備をしていた数人の教師が驚いて顔を上げるほどの音だった。
「とぼけるな! 最近の生徒はどうしてこう、往生際が悪いんだ!」
彼は立ち上がり、唾を飛ばしてまくし立てた。
「掲示板の写真は見たぞ! あの鬼道とつるんで、恐喝までして……これがクラスに、学校にどれだけの悪影響を与えるか分かっているのか!?」
伊藤(裏):
『クソッ……ただでさえ今年の査定は危ないんだ。』
『クラスから恐喝犯の共犯者なんか出してみろ、ボーナスが全部パーだぞ!』
『認めさせればいい……自首か自主退学させれば、影響は最小限で済む……そうだ、これは俺の評価のためだ!』
彼は真相などどうでもいい。
彼はただ、自分の人事考課を守るために、僕という「腫瘍」を最速で切除したいだけだ。
「先生、言葉を選んでください」
僕は彼を見据え、視線を微動だにさせなかった。
「あれは未確認のネット上の噂に過ぎません。写真は誘導的に撮影された疑いがあります。確たる証拠もなく生徒を有罪と決めつけるのは、教師の職業倫理に反します」
「証拠だと? みんながそう言ってるのが証拠だ!」
言い返された伊藤の顔は豚のレバー色に染まり、声が裏返った。
「あの鬼道だって停学になったんだ! 共犯のお前が逃げられると思うな! さっさと自首しろ! 反省文を書け! さもなくば俺は……」
「さもなくば、なんです? 伊藤先生」
気怠げで、しかし絶対零度の冷気を孕んだ女性の声が、一方的な怒鳴り声を遮った。
伊藤が凍りついた。
僕も振り返った。
佐伯涼子が少し離れた場所に立っていた。
片手には物理公式がプリントされたマグカップ、もう片手は白衣のポケットに突っ込み、半開きの目で、退屈な茶番劇でも見るかのようにこちらを見ていた。
「さ、佐伯先生……」伊藤の威勢が一瞬で萎んだ。
教員カーストにおいて、佐伯はその怠惰さにもかかわらず、学歴と背景(そして正体不明の威圧感)により、不可侵領域に位置しているからだ。
「何してんの? 朝っぱらから。声デカすぎて準備室まで聞こえてきたんだけど」
佐伯先生はゆらりと歩み寄り、僕の横に立った。
「生徒指導ですよ!」伊藤は虚勢を張った。「この霜月は恐喝の疑いがある。反省を促して……」
「疑い? 証拠は?」佐伯先生はコーヒーを啜り、淡々と聞いた。「警察が立件したんですか? 被害者が霜月を名指しで告訴したんですか? それとも先生がカツアゲ現場を目撃したんですか?」
「そ、それは……掲示板に……」
「掲示板? ハッ」
佐伯先生は鼻で笑った。知性への侮蔑を隠そうともせずに。
「高等教育を受けた大人が、匿名のネットゴシップを根拠に有罪認定ですか? 伊藤先生、あなたのクリティカル・シンキング能力は幼稚園児レベルで止まってるんですか?」
「な……な、なんてことを!」伊藤の顔がさらに赤くなる。
「それに」
佐伯先生はカップを下ろし、眼光を鋭くした。
「生徒がネットリンチやデマ被害に遭ってる時に、担任としての第一声が『守る』でも『事実確認』でもなく、自分の保身のための『自首の強要』?」
「それ、大人としてちょっと醜悪すぎません?」
周囲の教師たちがひそひそと話し始め、伊藤に向けられる視線が冷ややかなものに変わっていく。
「恥」という名の空気が、伊藤の周りに凝縮されていく。
「わ、私はただ……」伊藤はしどろもどろになり、脂ぎった額から冷や汗を流した。
論理的にも道義的にも粉砕され、反論の余地がない。
「もういい」
佐伯先生は、うるさいハエを払うように手を振った。
「霜月借りてくわ。気象部のデータ整理が終わってないの。ここで無駄話させてる暇ないんで」
そう言うと、彼女は僕を一瞥した。「行くわよ」
……
職員室を出ると、廊下の空気はずっと清浄だった。
「……感謝します」僕は佐伯先生の後ろを歩き、低く言った。
「礼には及ばないわ。あのハゲの騒音が耳障りだっただけ」
佐伯先生は振り返りもせずに言った。
「ただ……今回の件、厄介ね。相手は用意周到だわ。気をつけなさい」
「了解しました」僕は頷いた。「お礼に、次は少し高いコーヒー豆を買ってきます」
「お? 言質取ったからね」佐伯先生は口元だけで笑い、手を振って準備室へと消えていった。
僕は一人、廊下を歩き続けた。
教室に戻る気はしなかった。
次の手を整理する時間が必要だ。
廊下は長い。
授業中ゆえ、人影はない。
僕の足音だけが反響する。
しかし。
階段の踊り場を通り過ぎた瞬間。
僕の聴覚受容体が、極めて微弱な、しかし異様に粘り気のある心声を捕捉した。
???(裏):
『……チッ。』
『あの余計な女教師に邪魔されたか。』
『あのバカ担任なら、そのまま停学まで追い込めると思ったのに……』
僕は足を止めず、視線も動かさず、等速直線運動を維持した。
だが精神は極度に集中し、音源をロックオンした。
階段下の暗がりだ。
???(裏):
『なんでだ?』
『なんであいつはまだあんなに冷静なんだ?』
『鬼道は停学になって、全校生徒があいつを叩いてるのに……なんで霜月はまだ「我関せず」みたいな死んだ顔してられるんだ?』
『許せない……あの見下したような余裕が、一番ムカつくんだよ!』
その声には、歯ぎしりするような憎悪と、獲物が罠にかかりきらないことへの焦燥が満ちていた。
姿は見えない。
だが、この覚えのある、湿った悪意……。
佐藤雄大。
なるほど。
彼もここにいたのか。
ずっと暗闇から職員室の様子を覗き見し、僕が泣き崩れるか、懇願するか、あるいは処分される様を高見の見物しようとしていたわけだ。
だが僕の「平然」と佐伯先生の「介入」が、彼の期待を裏切った。
佐藤(裏):
『いい気になるなよ……霜月理人。』
『これはほんの序章だ。』
『教師が潰せないなら……俺の手で終わらせてやる。』
『金曜日……金曜日になりさえすれば……』
心声が遠ざかっていく。
彼は去ったようだ。
僕は歩き続け、感知範囲から完全に脱したことを確認して初めて足を止めた。
壁に寄りかかり、深く息を吐く。
金曜日。
彼は心の中で明確にそのタイムリミットを指定した。
その日に何かが起きる。
今ここで彼と対峙し、盗み聞きを暴露することも可能だったが、無意味だ。
狂気に陥った復讐者に言葉は通じない。
彼は破滅的な終局を設定済みで、着実にそこへ向かっている。
「……金曜日か」
僕は低くその日付を繰り返した。
クライマックスの時間を予告してくれたんだ。
ならばこちらも、万全の準備をしておこう。




