盲目的なバカと、逆光の中の共犯者
翌朝。
校門をくぐった瞬間、昨日発生した新たな噂が、すでに爆発的な速度で発酵していることを知った。
空気はただ濁っているだけでなく、腐食性の酸性霧へと変質していた。
今回は受信帯域を調整するまでもなく、悪意が物理的な質量を持ってぶつかってくる。
生徒たちは心の中で呟くだけでなく、あからさまに指を差し、ささやき声は巨大な羽音のようなノイズとなって校内に充満していた。
「見ろよ、あれが例の軍師だ」
「よく平気な顔して来れるよな」
「鬼道みたいなのとつるんでるんだから、中身もゴミだろ」
「警察沙汰になるってマジ? さっさと退学しろよ」
そこに「推定無罪」はない。
あの完璧な構図の写真と扇動的なテキストの前で、僕は学校という名の法廷において、欠席裁判のまま「有罪」判決を受けていた。
僕は無表情で廊下を歩いた。
覚悟はしていたが、千の指弾を受ける空気抵抗は、予想以上に重い。
一歩ごとに、泥沼を進むような負荷がかかる。
ガラッ。
二年B組の扉を開ける。
喧騒に包まれていた教室が、瞬時に死に絶えたように静まり返る。
数十の視線が一斉に突き刺さる。
恐怖、軽蔑、好奇心、嘲笑。
退院直後の光景と似ているが、今回は「得体の知れない狂人」への忌避ではなく、「確定した犯罪者」への断罪の目が向けられている。
モブA(裏):『来たよ。恐喝犯の仲間。』
モブB(裏):『鬼道と一緒に停学になればいいのに。目障りだわ。』
僕はそれらの雑音を無視し、席へ向かった。
鞄を掛け、今日一日の孤立を受け入れようとした、その時。
前の席の椅子が、ギシッと音を立てた。
あの背中が振り返った。
「よう、霜月」
田中洋平。
顔色は良くない。眉間に深い皺を刻み、周囲のプレッシャーに参っているのは明らかだ。
だが彼は振り返った。クラス全員が僕を避けているこの状況下で。
彼は僕を見た。その目に疑いはなく、あるのは単純な困惑だけだった。
「写真はあんな風に写ってるけどさ……お前がやったんじゃないよな?」
彼は声を潜めて聞いた。
「あの恐喝計画とか、入れ知恵とかさ」
僕は彼を見た。
一般人の論理なら、「動かぬ証拠」を前にしての第一声は「なぜやったのか」あるいは「あの写真はなんだ」と問うのが正常だ。
だが彼は、「やってないよな」と聞いた。
「やっていない」
僕は簡潔に答えた。
「そっか」
田中の眉間から一瞬で皺が消え、いつもの能天気な笑顔が戻った。
「ならいいや! そうだと思ってたぜ!」
「……」
僕は呆気に取られた。
これで終わりか?
「なぜ一緒に写っていたのか」も、「鬼道はどうなったのか」も聞かないのか?
彼は僕にいかなる証拠も求めず、ただ僕が「否定」したという事実だけで、信じたのだ。
「……理由は聞かないのか?」と思わず問うた。
「は? 理由なんているかよ」
田中は頭をポリポリとかき、当然のように言った。
「お前は口は悪いし変な奴だけどさ、金のために弱い者いじめするような奴じゃねえよ。俺の勘は当たるんだ、なんたってFWだからな!」
田中(裏):
『霜月が違うって言うなら、違うんだろ。』
『俺は自分の見る目を信じるぜ。』
【観測ログ更新】
【サンプル(田中):論理回路の極度な単純化を確認。】
【評価:……バカだ。だが、この根拠なき盲信は、意外にも……悪くない。】
胸の奥に澱んでいた重い気団に、小さな風穴が開いた気がした。
しかし、より大きな衝撃は、その後に訪れた。
「みんなおはよー」
教室の前扉が開いた。
星野千夏が入ってきた。
彼女はいつものように女子グループへ挨拶に行くことはしなかった。
教室を見渡し、充満する悪意の気配を感じ取り、深く息を吸った。
顔には普段の愛想笑いはない。代わりにあるのは、かつてない深刻さと、悲壮な決意だ。
彼女は一直線に教卓の前へ進んだ。
そこは全生徒の視線の焦点だ。
空気を読むことに特化した彼女にとって、そこに立つプレッシャーは計り知れない。
その一瞬の間隙に、僕は教卓の陰で行われた彼女の小さな動作を捕捉した。
彼女の左手が、右手首を死に物狂いで握りしめていた。そこは普段、あの安っぽいプラスチックビーズのブレスレットが巻かれている場所だ。
制服の袖越しでも分かるほど強く掴んでいる。指の関節が白くなるほどに。まるで溺れる者が嵐の中で最後の流木にしがみつくように。
彼女は確認しているのだ。「勇気」という名のスイッチを。
パン! パン!
乾いた柏手が、全員の注意を引いた。
「みんな、ちょっと聞いて!」
声はまだ震えていたが、音量は大きく、教室の隅々まで届いた。
「掲示板の書き込みで、霜月くんが『軍師』だっていう噂があるけど、あれはデマだよ!」
教室がどよめいた。
「えっ? 千夏なに言ってんの?」
「写真出てるじゃん……」
「写真は話してるだけで、恐喝してる証拠にはならないよ!」
千夏は反論を遮った。スカートの裾を掴む手に力がこもる。
「だって……昨日の放課後、霜月くんはずっと特別棟の気象観測部にいたもん!」
彼女は顔を上げ、クラス全員を見回し、最後に真っ直ぐに僕を見た。
「私もそこにいたの。私と彼はずっと一緒で、暗くなるまで部活のデータ整理をしてたんだから」
「だから、彼に恐喝の計画なんて立てる時間はなかった! あの『軍師』って話は、全部ただの言いがかりだよ!」
静寂。
先ほどよりも、さらに深く重い沈黙。
全員が呆然としていた。
あの八方美人で、立ち位置をあやふやにし、トラブルを何より嫌う委員長・星野千夏が、衆人環視の中で、「全校の敵」のためにアリバイ証言をしたのだ。
しかも……「ずっと一緒だった」だと?
女子A(裏):
『……はぁ?』
『何言ってんのコイツ? ずっと一緒?』
『それって、自分があのイカれた男とデキてるって認めてるようなもんじゃん!』
『千夏……マジで狂った? あんな奴のために、自分の評判捨てる気?』
僕は教卓の前の千夏を見た。
彼女は嘘をついている。
昨日の放課後、僕は確かに鬼道の元へ行った(公園だが)。
彼女はそこにいなかった。
彼女は「優等生」として、「委員長」として積み上げてきた全ての社会的信用を消費して、僕のために存在しない「アリバイ」を捏造しているのだ。
彼女が振り返り、僕を見た。
その瞳は潤んでいるが、揺るぎない光を宿していた。
まるでこう言っているようだ。「安心して。今度は私が守るから」と。
心臓が大きく跳ねた。
未知の感覚だ。
守られること。信じられること。誰かがなりふり構わず自分の前に立ちはだかってくれること。
僕の論理モデルにおいて、それは「高リスク利他行動」に分類される。
だが今この瞬間、それは地獄の天井から垂らされた蜘蛛の糸のように、目が眩むほどの光を放っていた。
「……マジかよ?」
「委員長がそこまで言うなら……」
「確かに、写真一枚じゃ何とも言えないかも……」
世論の厚い氷に、亀裂が入った。
これが「信用」の力だ。
千夏が日頃築いてきた「人当たりの良さ」が、この瞬間、僕を守る盾となった。
言い終えた千夏は、全身の力を使い果たしたようだった。
女子Aたちの射殺すような視線には気づかないフリをして、うつむき加減で早足に席へ戻った。
僕は彼女の背中を目で追った。
女子Aたちが完全に納得したわけではない。千夏の僕への偏愛は明らかだ。
だが、僕が「陰謀を企てていない」と証明できないのと同様に、誰も僕が「部室にいなかった」ことを証明できない。
昨日の帰り道、僕は人目を避けて裏道を通ったからだ。
これは証明不能な泥仕合へと持ち込まれた。
そして千夏の証言は、この泥水をかき混ぜる決定的な一撃となった。
理人(裏):
『……バカな奴だ。』
『僕なんかのために、自分まで泥を被るなんて。』
だが。
不快ではない。
それどころか……。
田中の「ならいいや」という言葉。千夏の「デマだよ」という叫び。
悪意に満ちたこの教室で、絶望的に見えるこの朝に。
二つの微弱な灯火が、頑固に僕のために灯り続けている。
僕は深く息を吸い、教科書を開いた。
嵐はまだ続いている。佐藤の陰謀は終わっていない。
だが今の僕は、もはや孤軍ではない。
待っていろ、佐藤。
お前が僕の仲間まで巻き込んだ以上。
このゲーム、最後のカードが開かれるまで付き合ってやる。




