琥珀の中の虫と、絶対的な受動
帰宅後、僕は簡単なシャワーを済ませ、この長い一日を終えようとしていた。
全ては平穏に見えた。
電気を消し、ベッドに横たわり、アラームをセットしようとスマホを手に取った。
その時だ。
ブブッ――
画面が突然点灯した。
新しいLINEの通知がポップアップする。
アイコンは、ピンク色のカフェラテ。
星野千夏:『霜月くん! 起きてる?』
星野千夏:『これ見て! 一体どうなってるの!?』
星野千夏:『[リンク:神楽坂高校裏掲示板/Thread-9982]』
連なる感嘆符を見て、僕は眉をひそめた。
胸中の警報レーダーが鋭く鳴り響く。
僕はリンクをタップした。
黒背景に白文字のフォーラム画面が表示される。
トップに固定されたスレッドタイトルは、赤色の太文字で煽情的に踊っていた。
【特ダネ:反省? してねーよ! 停学中の悪魔はまだ狩りをしてました!】
指で画面をスクロールする。
本文:
『今日の放課後、停学中の鬼道がまだ校外をうろついてるのが目撃された。あいつ反省するどころか、さらにエスカレートして、ウチの一年にまで手を出してるぞ!』
『しかも最悪なことに……あの噂の「軍師」も、やっぱり一緒にいた。』
その下には、二枚の写真。
【写真一】
背景はあの公園のベンチ。
鬼道が座り、男子生徒が財布を取り出し、両手で捧げるように鬼道へ差し出している。
構図は完璧なまでに「カツアゲ現場」そのものだ。
そして一点、僕の瞳孔を収縮させる細工があった。鬼道の目の部分に、厚い黒色のモザイクがかけられているのだ。
キャプション:
『目撃証言:これが反省だと? 金出さなきゃ手が出るってか。あの一年、泣きそうだったぞ。こんな奴、学校に置いとく資格ねえ!』
【写真二】
背景は同じ公園だが、時刻は少し遅く、光量は落ちている。
僕と鬼道が向かい合って立っている。
僕はうつむいて思案し、鬼道は僕を見て、その表情にはいつもの凶暴さはなく、どこか……リラックスしているようにさえ見える。
キャプション:
『被害者が逃げた後、真の黒幕登場。この仲良さげな感じ、分け前の相談か? 次のターゲットの選定か? 吐き気がするわ。』
コメント欄は炎上していた。
『クズ!』『やっぱりあの霜月もグルだった!』『在校生まで襲うとか警察案件だろ!』『なんで生きてんのコイツら……』
理人(裏):
『……やられた。』
僕は深く息を吸い、胸の奥で爆発した怒りを強引にねじ伏せた。
キーボードを高速で叩き、パニック状態の千夏へ返信する。
僕:『落ち着け。これは誘導的な虚偽報道だ。』
僕:『スレに書き込むな。僕を擁護するな。お前まで攻撃対象になる。』
僕:『寝ろ。それが現状の最適解だ。』
数秒後、既読がついた。
長い数秒間の沈黙。
吹き出しの上に「入力中……」の表示が出ては、数回消えた。
聞きたいことは山ほどあるだろう。ぶつけたい怒りもあるはずだ。
だが最終的に、彼女から送られてきたのは短い三行だった。
星野千夏:『……分かった。』
星野千夏:『すごく悔しいけど……言うこと聞く。』
星野千夏:『でも、霜月くん。絶対に無茶しないで。私、信じてるから。おやすみ。』
「信じてる」。
その文字を見て、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
少なくとも、この悪意に包囲された夜に、一人だけ無条件で味方してくれる人間がいる。
僕はスマホを枕元に投げ出し、目を閉じた。
闇の中で、あの二枚の写真が網膜に焼き付いた残像のように消えない。
思考しろ。
即座に論理再構築を行え。
まずは【写真一】。
あのモザイクだ。
なぜわざわざ鬼道の目元を隠した? プライバシー保護?
否、投稿者は鬼道の全てを晒したがっている。
唯一の理由は――真実の隠蔽だ。
当時の鬼道の表情は「凶悪」でも「貪欲」でもなく、「愕然」と「困惑」だった。
あの困惑した目を晒せば、写真の説得力は激減する。
目を隠し、口元の表情だけを残すことで、見る者を「暴力的な恐喝」という解釈へ完璧に誘導できるのだ。
なんという緻密な情報操作。
次に【写真二】。
あのアングル……あの解像度。あれは望遠レンズを使い、少なくとも四十メートル離れた植え込みの中から撮影されたものだ。
つまり、僕らが公園に到着するより前に、あのカメラマン(佐藤)はあそこで待ち伏せしていたことになる。
クソッ。
僕は内心で悪態をついた。
油断していた。
自分が狩る側だと思い込み、自分が盤面を支配する観測者だと思い上がっていた。
鬼道に「動くな」と警告しに行った僕自身の行動が、自分自身を絞首台へ送る最後のピースになってしまった。
僕の傲慢さが、敵の武器になったのだ。
【対策シミュレーション】
プランA:佐藤と直接対決?
不可。
彼が撮ったという証拠はゼロだ。
それに今の僕は社会的信用が破綻している。彼に接触すれば、「脅された」という新たな素材を提供するだけだ。
彼は泣きながら言うだろう。「ほら、僕の言った通りだ、彼が報復に来た」と。
プランB:あの恐喝された男子生徒を探して証言させる?
不可。
まず見つけられるか不明だ。
見つけたとしても、あの生徒は鬼道に怯えきっているし、そもそも佐藤が仕込んだ「役者」(あるいは誘導された被害者)である可能性が高い。
彼を証言台に立たせても、彼はこう言うだけだ。「鬼道先輩は怖かったです、金払わないと殴られそうでした」と。
火に油を注ぐだけだ。
プランC:掲示板での反論?
この狂信的な「正義の魔女狩り」の空気下で、理性的なテキストは何の力も持たない。
そして致命的なのは、証拠がないことだ。
「やっていない」ことを証明する証拠(悪魔の証明)がない!
無数のルートが脳内で分岐し、その全てが行き止まりへと収束する。
僕は天井を見つめ、かつてない閉塞感を覚えた。
何もできない。
どれだけ足掻いても、どれだけ論理を駆使しても、現状は好転しない。
むしろ、いかなるアクションも状況を悪化させる。
結論:【沈黙保持。】【受動受容。】
ついさっき、僕が鬼道に勧告した言葉――「何もしないことだ」。
今、その重い言葉が、ブーメランのように僕自身に突き刺さっている。
「……ハッ」
乾いた笑いが漏れた。
佐藤雄大。
前言撤回だ。
お前は弱者でも、単なる狂人でもない。
お前は優秀な棋士だ。
鬼道の性格を利用し、僕の行動を利用し、大衆の盲目を利用し、光と影、モザイクさえも利用した。
手持ちのカード全てを、極限まで使いこなしている。
認めよう。この局は、お前の勝ちだ。
今の僕らは、琥珀に閉じ込められた虫のようなものだ。
どれだけ藻掻いても、指一本動かせない。
ただ、「悪意」という名の樹脂が、ゆっくりと僕らを飲み込んでいくのを直視するしかない。
忍耐。
それが今、僕にできる唯一のことだ。
明日の指弾に耐え、千夏の心配に耐え、全てに耐えること。
そして、待つこと。
お前がこのシナリオに終止符を打つために、踏み出さざるを得ない……最後の一手を。
「……まったく、不愉快な夜だ」
僕は布団を頭まで引き上げた。
窒息しそうな闇の中で、システムを強制的にスリープモードへ移行させる。
だが意識が途切れる直前、闇の奥底から、怨嗟と狂喜に満ちた瞳が、じっとこちらを覗いているような気がした。




