一缶のコーヒーが招いた破滅
鬼道はその財布を受け取らなかった。
代わりに、彼の腕が勢いよく払われた。
鈍い音と共に、薄っぺらい財布が宙を舞い、放物線を描いてコンクリートの地面に叩きつけられた。
ジャラッ――
中の小銭が散乱し、甲高く耳障りな音を立てて、側溝のそばへ転がっていく。
そして次の瞬間、彼は男子生徒の襟首を掴み、恐怖で引きつった顔を自分の目の前まで引き寄せた。
その目は、相手を食い殺さんばかりに凶悪だった。
「おい、ゴミ」
鬼道の声は低く、爆発寸前の怒りを押し殺していた。
「テメェ、俺を乞食か何かと勘違いしてんじゃねえぞ?」
「誰が金寄越せって言った? 誰がそんな『施し』みてえな態度で安全を買っていいと許可した?」
男子生徒は腰を抜かし、歯の根が合わないほど震えていた。
「え? で、でも……あいつが……金さえ払えば許してくれるって……」
「俺をそんな雑魚と一緒にするな!」
鬼道は手を離し、ゴミを捨てるように彼を突き飛ばした。
彼はうずくまる人影を見下ろした。その目にあったのは貪欲さではなく、純然たる軽蔑だけだった。
「よく聞け。誰かにモン取られそうになったら、噛みつけ。噛めなきゃ石で殴れ。勝てなきゃ喚け」
「その程度の反抗する気概もねえ、自分のモン守る気もねえ、ただ金で俺を追い払おうとするその根性……」
鬼道は唾を吐き捨てた。
「お前のその目……反吐が出る」
男子生徒には、その論理が全く理解できなかった。
彼に分かったのは、自分が気まぐれな狂人に遭遇したということだけだ。
「ヒィ……ヒィッ!!」
彼は短い悲鳴を上げ、散らばった小銭を拾うことさえせず、這うようにして公園から逃げ出した。
彼が僕の横を通り過ぎる時、パニックの風が巻き起こった。
僕は木陰に立ち、地面に散らばる硬貨を見つめ、それから再びベンチに座って不機嫌そうにコーヒーを煽る鬼道を見た。
「……実に非効率的な教育メソッドだな」
僕は陰から歩み出た。
「経済学的に言えば、彼は『リスク回避』を行っていただけだ。金銭を支払うことで身体的損害を回避する、それは不可抗力に対する弱者の生存戦略だ。お前は収益を拒否しただけでなく、相手のPTSDを悪化させた」
「またテメェか、屁理屈野郎」
鬼道は僕を一瞥したが、僕の出現に驚いた様子はなかった。
彼は空を仰ぎ、虚空を見つめた。
「経済学なんざ知らねえよ。俺が知ってるのは、戦う気がねえ奴にモノを持つ資格はねえってことだ」
彼は足元にいついたままの野良猫(さっきの音で少し驚いていたが)を指差した。
「犬っころだって、骨取られそうになりゃ牙を剥く。さっきの奴は、犬以下だ」
鬼道蓮(裏):
『あの目……「金さえ払えば解決するんだろ」って目。』
『あの時の裏切り者と、そっくりだ。』
『クソムカつく。』
僕は彼を見た。
乱暴な論理だが、これこそが鬼道蓮の美学なのだろう。
だが、その純粋すぎる美学ゆえに、彼は「人の心の闇」に精通した佐藤の手のひらで踊らされている。
「鬼道」
僕は哲学論争をするつもりはなく、単刀直入に切り出した。
「佐藤雄大とは、どういう関係だ?」
その名前が出た瞬間、鬼道が空き缶を握る手に力がこもった。
アルミ缶が悲鳴を上げ、ひしゃげた。
「……テメェも知ってんのか」鬼道は隠そうともせず、またなぜ僕が知っているのかも問わなかった。
彼にとって、僕という「論理の怪物」が何かを知っていても不思議ではないのだろう。
「あのクソ野郎……ここ数日、俺の下駄箱にゴミ詰め込んでたネズミだ」
「根拠は?」と僕は問うた。
「今朝だ」鬼道はひしゃげた缶をゴミ箱に投げ入れ、陰鬱な目をした。
「下駄箱開けたら、虫もボロ布も入ってなかった。入ってたのは、缶コーヒー一本だけだ」
「コーヒー?」
「ああ。コンビニで一番売れてる、死ぬほど甘ったるいコーヒーだ」
鬼道は冷笑した。
「高一の頃、俺は金がなくてよくアレ飲んでた。佐藤って金魚のフンは俺に媚び売るために、パシリのたびにわざわざあの銘柄買ってきやがった。『鬼道さん、これ一番好きっすよね』なんてヘラヘラ笑いながらな」
「マズいから二度と買うなって八百回言っても、あいつは毎回アレを買ってきた」
「で、今朝。そのコーヒーの下に、メモが挟まってたんだよ」
鬼道はポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出し、ベンチに叩きつけた。
そこには、わざと崩したような筆跡でこう書かれていた。
【この味、覚えてる? これ、君が僕に借りてる「みかじめ料」だよ。――君の犬より】
「これ見た瞬間、全部繋がったわ」
鬼道の目に怒りの火が宿った。
「『犬』だ。あの野郎、昔よく自分のこと俺の忠犬だなんて抜かしてやがった。あいつ以外にそんな気色悪い自称する奴はいねえし、俺があんなクソ甘いコーヒー飲んでたこと覚えてる奴もいねえ」
「だから、三年C組へ行ったのか?」僕は推測した。
「ああ。頭に来てな」
鬼道は髪をかきむしり、苛立ちを露わにした。
「カッとなって、ただ襟首ひっつかんで『何がしてえんだ』って問いただすつもりだった。不満があるならサシでやり合えばいいだろ。こんな陰湿なマネしやがって男じゃねえ」
「結果は?」
「結果?」鬼道はハエでも飲み込んだような顔をした。
「俺がドア蹴破って、あいつの机の前まで行って、指一本触れる前に……あいつが発狂し始めたんだよ」
彼は当時の佐藤の様子を真似て、大げさに頭を抱え、震えてみせた。
「『鬼道様!? ごめんなさい! もう金ないんです! 本当にないんです! 殴らないでください! 全部差し上げますから!』」
「……はぁ?」鬼道は両手を広げ、理解不能だという顔をした。
「俺はポカーンとしたわ。手に持ってたのはあの缶コーヒーで、ナイフじゃねえぞ。しかも俺は一言も発してねえのに、あいつ一人で『金払います』とか喚き散らして」
「俺が『何発狂してんだ』って聞こうとした瞬間、まだ怒鳴りもしないうちに……」
「体育教師と警備員が二、三人雪崩れ込んできやがった」
鬼道は唇を歪めた。
「まるで待ち伏せしてたみたいにな。問答無用で俺を押さえつけて、『やめろ』だの『恐喝は許さん』だの」
「で、そのまま指導室連行、即座に停学処分だ」
鬼道は話し終えると、大きく息を吐き出し、忌々しそうに言った。
「マジで意味不明だわ。あいつ脳味噌腐ってんのか? それとも被害妄想の発作か?」
僕は彼を見た。
未だにこれを単なる「誤解」や「相手の発狂」だと思い込んでいる猛獣を。
理人(裏):
『……やっぱり。』
『こいつ、罠だと気づいてすらいない。』
『佐藤が単にビビったか、あるいはラリってただけだと思ってる。』
『あれが入念に演出された「被害者演技」だと、全く見抜けていない。』
缶コーヒーは餌(挑発)。
「金ならある」という台詞は脚本(恐喝の既成事実化)。
教師の介入は網の回収(証拠固め)。
佐藤は鬼道の過去を利用し、鬼道の気性(教室突撃)を利用し、さらには鬼道の鈍感さ(演技を見抜けない)まで計算に入れた。
これは知能における次元の違う暴力だ。
「……まったく」
僕はこめかみを押さえ、頭痛を覚えた。
「お前は単細胞なだけでなく、ファイアウォール未搭載の裸のマシンか?」
「あ? 何だと?」鬼道が不機嫌そうに睨む。
「つまりだ……」僕は彼を見据え、真剣な眼差しを向けた。
「これで終わりだと思ってるのか? 否、これは奴が用意した前菜に過ぎない」
「奴は缶コーヒー一本でお前の停学を勝ち取った。次は、より高い代償を使って、お前の――退学を取りに来るぞ」




