埃を被った調書と、捨てられた信者
場所:特別教室棟 物理準備室
PCモニターが放つ青白い光が、僕ら三人の顔を照らしていた。
佐伯先生は棒付きキャンディを咥えたまま、キーボードを数回叩き、二年前のPDFファイルを呼び出した。
「あった」
佐伯先生は目を細め、画面上の文字を追った。
「佐藤雄大、一年次の生活指導記録。……うん、確かに一回デカいのがあったわ」
【日時:20XX年12月14日】
【事案:校外傷害事件】
【概要:当該生徒は下校途中、校外の集団に囲まれ暴行を受け、顔面軟部組織挫傷および肋骨の不全骨折を負った。】
「やっぱりな」
僕はその冷たい記述を見つめた。
「校内いじめじゃない。校外でのトラブルだ」
「当時、結構騒ぎになったのよ」
佐伯先生は何かを思い出すように、指先でデスクを軽く叩いた。
「佐藤の親が学校に怒鳴り込んできてね、安全管理がなってないって。でも確か、妙な点があったのよね……」
彼女はマウスをスクロールし、ページ下部の【関係者聴取記録】の欄で止めた。
そこに、一つの名前がはっきりと記されていた。
鬼道 蓮。
「鬼道先輩?」
横から覗き込んでいた千夏が、驚いて口元を覆った。
「あの人……加害者なんですか?」
「ううん、目撃者」
佐伯先生は画面上の記録を指差した。
「当時の記録によれば、警察は通りがかりの鬼道に事情聴取してる。でも、鬼道の回答は……」
【鬼道 蓮 証言:知らない。見ていない。俺には関係ない。】
短い一行。
冷淡で、決定的で、いかなる温度も感じさせない言葉。
「ひどい……」
千夏が眉をひそめた。その声には義憤が滲んでいた。
「もし佐藤先輩が酷い目に遭ってる時に、鬼道先輩がただ見てただけなら……助けに入らないにしても、せめて警察呼ぶとか」
「そこが問題の核心だ」
僕はその一行を凝視し、脳内で当時の状況を高速で再構築し始めた。
「佐藤は鬼道による『見殺し』を告発していない」
僕はファイル内の別の記述を指摘した。
【被害者 佐藤雄大 証言:自分で不注意でぶつかっただけです。鬼道くんのことは知りません。】
「なんで?」千夏は理解できないという顔をした。「無視されたなら、怒るのが普通じゃないですか? なんで鬼道先輩を庇うんですか?」
「僕も理解不能だ」
僕は眉をひそめ、無意識に指で机を叩いた。
「通常、冷淡な扱いを受けた被害者は、報復的な告発を行うか、証言を通じて正義を求めるのが論理的な反応だ。この『隠蔽』行為には、巨大な論理矛盾が存在する」
あるいは……。
僕は佐伯先生を見た。
「先生。この傷害事件が発生する以前、佐藤雄大と鬼道蓮の間に、何らかの既定の人間関係は存在しましたか?」
「え?」佐伯先生はキャンディを持ったまま動きを止めた。
「たとえ一方的であったとしてもです」僕は補足した。「例えば、佐藤が頻繁に鬼道の周囲にいたとか、二人が行動を共にしている目撃情報があったとか」
「うーん……言われてみれば」
佐伯先生は天井を仰ぎ、重要ではなかった記憶の底を掘り返すような顔をした。
「高一の春先だったかな。私、その頃まだ旧校舎の方でサボ……いや、巡回してたんだけど」
彼女は目を細めた。
「よく佐藤が、鬼道のケツにくっついて歩いてるのを見かけたわ。ジュース買いに行ったり、屋上のドアの前で立ってたり」
「鬼道はその頃からあの死んだような目をしてて、『ウザい』って顔してたけど。佐藤は違った」
「違った?」千夏が聞いた。
「ええ。あの子……いつも媚びるような笑い顔だった」
佐伯先生は手でジェスチャーした。
「まるで、ご主人様に褒められたくて必死な子犬みたいに。鬼道が完全に無視してても、嬉しそうについて回ってた。周りの奴らに『俺、鬼道と仲良いんだぜ』なんて自慢してたことさえあったわね」
理人(裏):
『……なるほど。』
『一方的な依存関係。』
『そして……自己陶酔的な虚偽の契約。』
データが補完された。
「それなら、論理は通る」
僕は深く息を吸い、画面上の【鬼道くんのことは知りません】という証言を見据え、眼光を鋭くした。
「佐藤は当時、『庇った』わけでも、『泣き寝入り』したわけでもない」
「彼は、待っていたんだ」
「待ってた?」千夏が首をかしげる。
「当時の佐藤にとって、彼は自らを鬼道の『舎弟』だと誤認していた可能性がある。今回殴られたことも、彼の歪んだ論理の中では『試練』か、あるいは鬼道が『たまたま見ていなかっただけ』と変換された」
僕は冷静に分析した。
「彼は『鬼道のために隠蔽した』という巨大な『恩』を売ることで、鬼道からのほんの少しの返報、あるいは罪悪感を引き出そうとした」
「彼は賭けたんだ。この件を機に、鬼道が自分の存在を認めてくれることに」
「でも、賭けに負けた」
佐伯先生がため息をつき、言葉を引き取った。
「思い出したわ。佐藤が退院した後、まだ顔にガーゼ貼ってた頃、廊下ですれ違ったのを見たの。彼、鬼道に話しかけようとしたのよ。たぶん、手柄話でもするか、慰めてもらおうとしたんでしょ」
「結果は?」
「鬼道は彼を一瞥すらしなかった」
佐伯先生の声が冷え込んだ。
「そのまま肩をぶつけて通り過ぎたわ。あの目……まるで道端のゴミを見るような。いや、ゴミですらない、徹底的な『無視』だった」
理人(裏):
『……それが「因」か。』
「それが転換点だ」
僕は目を閉じ、全ての点と線を結合した。
「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」
「佐藤は殴られたから鬼道を憎んだんじゃない。彼に殺意を抱かせたのは、鬼道が彼を『仲間』(たとえパシリであっても)としての資格すら完全に否定したからだ」
「あの冬、佐藤は肋骨だけでなく、全ての幻想を折られたんだ」
僕は目を開け、モニターを見た。
「その瞬間から、『崇拝』は『怨嗟』に変質した。彼はもう鬼道の影になりたいとは思わない。鬼道の悪夢になりたいと願ったんだ」
「だから……」千夏が蒼白な顔で続けた。「佐藤先輩の今の復讐は……鬼道先輩に自分を『見させる』ため?」
「その通りだ」僕は頷いた。
「たとえ敵としてでも、たとえ憎まれてでも、彼は鬼道の世界に爪痕を残したい。そのためなら鬼道を破滅させても構わない、と」
なんという歪で、そして哀れな執念だろう。
「……まったく、面倒な爆弾だこと」
佐伯先生はウィンドウを閉じ、USBメモリを引き抜いた。
「佐藤の境遇には同情するけど、今の犯罪行為を正当化できるわけじゃない」
彼女は僕を見た。
「霜月、これが分かってどうする気? 佐藤を説得しに行く? 無理でしょ」
「当然、不可能です」
僕は常時携帯しているメモ帳を取り出し、一つの住所を走り書きした。
それはファイルに記録されていた、鬼道蓮の自宅住所だ。
「佐藤はすでに『復讐過負荷』状態にあり、言語的コミュニケーションは無効です」
僕はペンをしまい、冷徹な目を向けた。
「彼が『自爆』覚悟でチェックメイトを狙っている以上、その爆弾が起爆する前に、まだ状況を理解していない『バカなライオン』の方を処理しに行きます」




