論理のデッドロックと、勇気ある証言
場所:特別教室棟 物理準備室
「……つまり、この数名の生徒の指導要録を見せろと?」
佐伯涼子は事務椅子にふんぞり返り、飴を舐めながらIDカードを指先で弄んでいた。
僕の推理を聞いても表情一つ変えないが、その半眼の瞳には、微かに値踏みするような光が宿っていた。
「その通りです」
僕は一歩も引かずに言った。
「佐藤雄大の中学時代の経歴、および鬼道蓮との同校在籍履歴を確認したい」
「加えて、彼が高一時期に『長期欠席』または『スクールカウンセリング受診』の履歴があるかどうかも」
「理由は?」
佐伯先生が問い返す。
「あんたが描いた相関図一枚だけ? 推論は見事だし、『佐藤黒幕説』も現状には合致するけど……全部あんたの憶測でしょ」
「推測とは断片的な証拠に基づく合理的接続です」
「でも証拠じゃない」
佐伯先生はため息をつき、IDカードを机に放り出した。カチリと乾いた音がする。
「霜月、私は教師なの。どんなにやる気のない教師でも、生徒の個人情報をホイホイ見せるわけにはいかないのよ。原則であり、ラインの問題」
「彼が自作自演している録音データとか、鬼道を嵌めた物証とか、確実な『決定打』を持ってきなさい。そうじゃなきゃ、あんたの『妄想』のために規則は破れないわ」
膠着状態。
僕は佐伯先生を見た。
彼女には協力する意志がある(心声は拒絶していない)。だが、自らを説得し、ルールを破るための「支点」を求めているのだ。
しかし現状は:
情報がないから証拠が見つからない → 証拠がないから情報が得られない。
完璧なパラドックスだ。
佐藤は「被害者」という立場を利用し、ルールの傘の下に隠れている。
僕がその傘を引き裂こうにも、手元にハサミがない。
「……チッ」
思わず舌打ちが出る。
正規ルート(裏口だが)が詰んだなら、非常手段に出るしかない。
【プランB:早退】
今すぐ停学中の鬼道を探し出し、力ずくでも口を割らせて、彼と佐藤の過去を聞き出す。
無断外出がバレれば僕の立場はさらに悪化し、新たなトラブルを招く危険もあるが……。
僕が校外脱出のための最適ルートを計算し始めた、その時だった。
バンッ!
準備室のドアが乱暴に開かれた。
「はぁ……はぁ……やっと……見つけた……」
星野千夏がドア枠にすがりつき、肩で息をしていた。
額には玉のような汗が浮かび、胸が激しく上下している。
マラソンでも完走したかのように、整っていた前髪も乱れていた。
「星野?」
僕は驚いた。
「今は授業中だぞ。なぜここにいる?」
千夏はすぐには答えなかった。数回大きく深呼吸して心拍を整え、顔を上げた。
その瞳には、かつて見たことのない、「決意」という名の光が宿っていた。
「霜月くん……それに佐伯先生」
彼女は唾を飲み込み、声は震えていたが、はっきりと言い放った。
「証拠、あります」
「あの佐藤って人……嘘ついてるっていう証拠」
……
【視点回想:二十分前・星野千夏】
授業中、霜月くんはずっと上の空だった(実際には思考中だった)。休み時間に話しかけようとしたけど、彼の周りには「接近禁止」の高圧電流みたいなオーラが出ていて、近づけなかった。
あの暗い表情を見て、分かった。
彼は間違いなく、鬼道先輩の件で悩んでいる。
そして、この火の粉は彼にも降りかかるかもしれない。
『私も何かしたい。』
『いつも彼一人に背負わせちゃダメだ。私は彼の友達……でしょ?』
得体の知れない勇気が湧いてきた。
不良は怖い。トラブルに巻き込まれるのも怖い。
でも、彼が私のために先生に噛み付いてくれた時のことを思うと……。
じっとしていられなかった。
私は休み時間を利用して、一人で三年生のフロアへ向かった。
上級生の縄張り特有の威圧感が漂っている。
私は深く息を吸い、得意の「委員長スマイル」を装着した。
「失礼します、二年の星野です」
私は通りがかりの三年生の女子を捕まえ、何も知らないフリをして聞いた。
「朝、騒ぎがあったって聞いたんですけど……委員会からの資料をお届けに来たので、ちょっと心配で……」
佐藤先輩が保健室で休んでいる(ショックを受けたという名目で)と聞き出し、私は教室へは戻らなかった。
そのまま保健室へ向かった。
佐藤雄大はベッドに座り、水を握りしめ、数人の女子に慰められていた。
彼は怯えているように見えた。身体が小刻みに震えている。
でも。
その震え方は、変だ。
私は、本当に怯えている人を見たことがある。
本物の恐怖は、視線を泳がせ、身体を硬直させるものだ。
でも佐藤先輩は……手は震えているのに、目が爛々と輝いている。
あれは……抑えきれない興奮?
私は中に入った。「資料を届けるついでにお見舞い」という体で。
「佐藤先輩、お加減はいかがですか?」
私は微笑んで尋ねた。
「あ……星野さんか」
佐藤先輩は私を見て一瞬止まり、すぐに恐縮した表情を作った。
「だ、大丈夫……ただちょっと怖かっただけで。鬼道があんなに……」
「そうですね、怖かったですね」
私は話を合わせた。そして、賭けに出た。
霜月くんの判断が正しいということに、全チップを賭けた。
私は佐藤先輩の目を見つめ、不意に笑顔を消し、困惑したような、それでいて意味深な口調で言った。
「でも、不思議ですね」
「……え? なにが?」
「鬼道先輩が連行される時……佐藤先輩、どうして笑ってたんですか?」
これは嘘だ。
私はその場にいなかった。これはカマかけだ。
「な……」
佐藤先輩の表情が凍りついた。
哀れっぽい仮面に亀裂が入り、その下の醜悪な素顔が覗く。
「わ、笑ってなんかないよ! 俺は死ぬほど怖くて……」
「いいえ、裏口から見てましたよ」
私は一歩踏み込んだ。心臓が破裂しそうだったが、絶対に引かなかった。
「先生たちが鬼道先輩を取り押さえた時……先輩の口元、確実に上がってました」
「あれは被害者の顔じゃなかった。もっとこう……『ざまあみろ』って顔でしたよ」
「――黙れッ!!!」
佐藤先輩が突然吠えた。
その声は金切り声のように鋭く、悪意に満ちていて、周りの女子たちが驚いて後ずさった。
彼は私を睨みつけた。怯えは消え失せ、図星を突かれた逆上だけがあった。
「お前に何が分かる! ガキのくせに知ったような口きくな!」
彼はシーツを握りしめ、歯ぎしりしながら低く唸った。
「あのクズ……あの傲慢なクズ野郎……自業自得だ! これはあいつのツケだ! あいつが招いたことなんだよ!」
言い終わってから、失言に気づいたようだった。
彼はハッとして口を閉ざし、周囲を怯えたように見回してから、再び布団に潜り込み、頭痛を装い始めた。
「出てけ……みんな出てけ! 休ませろ!」
私は追い出された。
でも、十分だった。
あの目。あの「ツケ」という言葉。
単にカツアゲされただけの被害者が言うセリフじゃない。
彼は鬼道を恨んでいる。
骨の髄まで染み込んだ私怨だ。
これを霜月くんに伝えなきゃ。
教室に戻ると、霜月くんの席は空だった。
「田中くん! 霜月くんは?」
「あ? あいつなら……特別棟の方へ行ったけど」
だから私は、ここまで走ってきた。
鳴り響く予鈴も無視して。
……
【視点回帰:物理準備室】
「……ということでした」
千夏は息を整え、保健室での出来事を復唱し終えた。
「彼は言いました。『あの傲慢なクズ、これはあいつのツケだ』って」
千夏は僕と佐伯先生を真っ直ぐに見た。
「ただお金を取られただけなら、『傲慢』とか『ツケ』なんて言葉は出ません。彼と鬼道先輩の間には、絶対に個人的な因縁があります」
「それに……さっきのあの目、本当に怖かった」
千夏の話を聞き終え、室内には短い沈黙が降りた。
「……ほぉ」
佐伯先生が感嘆の声を漏らし、飴を口から出した。
彼女は千夏を見やり、その目に賞賛の色を浮かべた。
「お嬢ちゃん、いい度胸してんじゃん。頭に血が上ったサイコ野郎相手にカマかけるなんて」
「わ、私も勢いだけでやっちゃって……今思うとゾッとしますけど……」
千夏は照れくさそうに頭をかいた。
僕は千夏を見た。
【観測ログ更新】
【サンプルA(星野千夏)行動評価:非合理的リスクテイク。だがリターンは極大。】
彼女が持ち帰ったのは単なる言葉ではない。
佐藤の「憎悪の動機」を裏付け、彼が現在「情緒不安定」であることを確認した。
これこそ、論理的推論に欠けていた最後のピース――人間の感情の暴走だ。
「先生」
僕は佐伯涼子に向き直った。
「これで、『支点』はできましたね」
「自称・恐喝被害者が、加害者に対して極度の復讐的快楽を示し、かつ『負債関係』を示唆した」
「これは『証言の信憑性を疑う』十分な理由になり得ます。その背景にある人間関係を確認するために档案を閲覧することは、正当な生徒指導の一環では?」
佐伯先生は僕を見、次に期待に満ちた千夏を見た。
最後に、彼女は観念したように笑い、パソコンに向き直った。
「ったく……最近のガキはどいつもこいつも小賢しいんだから」
彼女の指がキーボードを高速で叩き始めた。
「今回だけだからな。バレたら二人とも反省文一万字書かせるぞ」
モニターが点灯する。
【教務システム ログイン成功】
【検索ワード:佐藤雄大 / 鬼道蓮】
数秒後。
埃を被っていた過去の記録が、画面上に展開された。
「……あった」
佐伯先生の声が低くなった。
「なるほどね。これが『腐れ縁』ってやつか」
僕は画面を覗き込んだ。
そこに記されていたのは、単なる二つの名前の交錯ではない。
「いじめ」と「救済」が歪に絡み合った、残酷な過去の記録だった。




