故障したミュート機能と、ベタな演出(クリシェ)
駅前。
「じゃ、私は先帰るわ。母さんから催促メール三件も来てるし、これ以上遅れると通報されかねない」
凛はスマホを確認し、やれやれと溜息をついた。
「まったく、またあの『冷凍庫』に帰るのかと思うと気が重い」
「未成年者に対する監護義務だ」と僕は言った。
「はいはい。じゃあ行くね。兄さんも早く寝なよ。夜更かしして気象データ分析とかしないでさ」
凛は手を振り、家へと続く別の道へ歩き出した。
僕はその場に立ち、彼女の背中が人混みに消えるのを見届けてから、アパートへ向かって踵を返した。
周囲に静寂が戻った。
千夏のピーチクパーチクとしたお喋りもない。凛の鋭いツッコミもない。
通り過ぎる車の単調な走行音だけが聞こえる。
これは僕が過去十六年間親しんできた、「孤独」という名の常態だ。
最も効率的で、計算リソースを節約できる状態。
本来なら、快適なはずだった。
しかし。
帰路を歩きながら、僕は奇妙な違和感を覚えていた。
足音がやけに空虚に響く。
風切り音がやけに寒々しく聞こえる。
本来なら気象モデルや数式の処理に充てられるべき脳内リソースが、今はただ空転している。
理人(裏):
『……静かすぎる。』
『さっきまで、あんなにうるさいと思っていたのに。』
『特定の周波数が消失したことで、逆に鼓膜が適応エラーを起こしているのか?』
僕は無意識に、緩やかに脈打つ自分の心臓あたりに手をやった。
「……まったく、故障か」
僕は低く呟き、歩調を速めた。
どうやら、「慣れ」というのは恐ろしいウイルスらしい。
たった数日の喧騒が、この快適だったはずの静寂に対し、拒絶反応を引き起こしている。
今夜帰宅したら、システムの詳細な自己診断が必要だ。
……
【視点切り替え:霜月凛】
あのポンコツ兄貴と別れ、私は一人で家路についていた。
気分は意外と悪くなかった。
未央の件も片付いたし、千夏センパイとも友達になれたし、今度の買い物も約束できた。
ここ最近で一番気楽な日だったかもしれない。
近道をするため、私は普段あまり人のいない地域の公園を通り抜けた。
街灯は薄暗く、ブランコが風に揺られて「キーキー」と錆びた音を立てている。
「……ニャー」
突然、公園の奥の植え込みから、微かな猫の鳴き声が聞こえた。
「え? 猫?」
私は足を止めた。
声の感じからして、一匹じゃなさそうだ。
好奇心と、まだ家に帰って母さんと顔を合わせたくないという気持ちから、私は足音を忍ばせて近づいてみた。
滑り台を回り込むと、そこにあった光景に私は絶句した。
ベンチに、大柄な影が座っていた。
あの特徴的な黒いTシャツ。制服の上着を無造作に肩にかけ、背中からは圧倒的な圧迫感が漂っている。
鬼道蓮。
今日の夕方、部室に怒鳴り込んできた、あの凶悪ヅラの「恐喝犯」だ。
だが、今の彼は昼間とは別人だった。
公共物を破壊しているわけでも、喧嘩の練習をしているわけでもない。
彼はただ静かにそこに座り、夜空の月を見上げて、どこか遠い目をしていた。
そして彼の膝の上には、薄汚れた三毛猫が丸まり、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
足元では、別の黒猫がちぎられたソーセージに夢中でかぶりついている。
この絵面……なんていうか。
ベタすぎない?
不良が実は動物好きとか。
そんな設定、今の少女漫画でも使い古されてるってば。
私は内心でツッコミを入れ、思わず声をかけそうになった。「よう、奇遇じゃん」と。
「――シッ」
私の声が出る前に、空を見ていたはずの男が突然振り返り、人差し指を唇に当てた。
目は鋭いまま。眉間の皺もそのままで、見た目は相変わらず凶悪だ。
だが、その声は低く、押し殺されていた。
「……静かにしろ」彼は膝の上の三毛猫を顎でしゃくった。
「こいつ、やっと寝たんだ。起こしたら殺すぞ」
「……」
殺気立っているのに妙に優しいその脅し文句に、私は毒気を抜かれてしまった。
これが、さっき部室で「世界をぶっ壊してやる」みたいな顔で怒鳴り散らしていた鬼道蓮?
私が黙ると、鬼道は興味を失ったように向き直った。
彼は再び膝の猫を見つめた。張り詰めていた肩の力が、少し抜けたように見える。
「……気楽な連中だぜ」
彼は独り言のように呟いた。
「餌がありゃ喜びやがって、暖かい場所がありゃ寝やがる」
「人の顔色も窺わねえし、クソみてえな噂も気にしねえ……フーッて威嚇したけりゃするし、甘えたけりゃ甘える」
彼の手が、ぎこちなく猫の頭を撫でた。
動作は不慣れで硬いが、そこにはいつもの殺伐さはなく、深い、言葉にできない疲労だけが滲んでいた。
その光景を見て、私が用意していた「うわー、ギャップ萌え狙いっすか?」という皮肉は、喉の奥に引っ込んで出てこなかった。
そうだよ。ベタで何が悪いの?
世界中から誤解されて、全員から白い目で見られている時に、言葉を持たず、自分をジャッジしない生き物のそばにいたいと思うこと……それを笑う資格なんて誰にある?
ただ「設定っぽい」からってその本音を茶化すのは、それこそ一番失礼なことだ。
「……ごめん」
私は声を潜め、からかうような表情を引っ込めた。
「お邪魔しました」
鬼道は一瞬きょとんとした。私が謝るとは思っていなかったらしい。
彼は私を一瞥し、口元を複雑に歪めた。「フン」
その時、膝の上の三毛猫が私の気配に気づいたのか、あるいは眠り足りたのか。
大きく伸びをし、軽やかに鬼道の膝から飛び降りて、草むらへと消えた。
足元の黒猫もソーセージを食べ終え、後を追って走り去った。
「……ケッ。薄情な奴らだ」
鬼道はズボンについた猫の毛を払い、立ち上がった。
立ち上がると同時に、「最強の不良」としての威圧感が戻ってきた。
彼は私を見たが、「軟弱な」一面を見られたことを恥じる様子もなく、むしろ堂々としていた。
「おい、女」彼は言った。
「名前は?」
「……霜月凛」
私は答えた。他の女子のように震えたりはしなかった。
「霜月……?」
鬼道は片眉を上げ、何かを思い出したようだった。
「ああ、なるほど。あの理屈屋の妹か」
彼は私を上から下まで値踏みし、短く鼻で笑った。
「納得だ」
「目つきが同じだ。度胸もな」
「悪くねえ。この学校で、俺の目を真っ直ぐ見返せる女は、テメェが初めてだ」
そう言い残し、彼は上着を肩に担ぎ直し、両手をポケットに突っ込んで、公園の出口へと歩き出した。
すれ違いざま、彼の背中は依然として大きく見えたが、普段纏っていた燃えるような怒りの炎は消えているように見えた。
代わりに、より深く、何かを耐え忍ぶような沈黙が漂っていた。
「……じゃあな」
彼は振り返らず、片手だけ上げて、夜の闇へと消えていった。
私はその場に立ち尽くし、空になったベンチを見つめた。
なぜだろう。ふと思った。
いつも「猛獣」と呼ばれているこの男は、本当は誰よりも……孤独なんじゃないかと。
帰ろうとしたその時、再びスマホが震えた。
着信画面の表示は――
未央。
……
【霜月凛 視点終了】




