初期アイコンと、非合理な喜び
鬼道が去ってから間もなく、下校時刻のアナウンスが流れた。
校舎を出る頃には、夕陽は完全に地平線の下へ沈み、街は暖色の街灯に照らされていた。
僕は二人の少し後ろを歩きながら、脳内のバックグラウンドで「鬼道と犯人」に関する論理演算を継続していた。
闇に潜む犯人の行動ロジックは、ピースの欠けたパズルのようで、どう組み合わせても閉環しない。
この「未知数」が、僕に得体の知れない苛立ちを感じさせていた。
一方、前を歩く二人は、先ほどの不快な空気を完全に遮断し、急速に「放課後の女子トーク・モード」へと切り替わっていた。
商店街の近くまで来た時、凛が突然足を止めた。
彼女はブティックのショーウィンドウに張り付き、マネキンが下げているショルダーバッグを凝視している。
「……うっわ、あのデザイン良すぎ」
凛は感嘆の声を上げたが、値札を見るために近づいた瞬間、顔を梅干しのようにしかめた。
「はぁ? 一万二千? ボッタクリでしょ? ただのキャンバス地と合皮の切り替えじゃん」
凛(裏):
『めっちゃ好みだけど……この値段は絶対無理。』
『今月はもう余力ないし、こないだの服は未央に返品させたけど、やっぱりお小遣い足りない。』
『ケッ、悪徳業者め。』
彼女は唇を尖らせ、きびすを返そうとした。
「あの……そういうレトロな切り替えデザインなら」
隣にいた千夏がウィンドウを一瞥し、不意に口を開いた。
天気の話でもするかのような、自然な口調だった。
「隣駅の商店街に『ブルーベリー』っていう古着屋さんがあって、私よく行くんだけど。そこに似たようなのがいっぱいあるよ。古着だから革も馴染んでて柔らかいし、値段もたぶん半額くらいだと思う」
「え? マジ?」
凛の目が瞬時に輝いた。裏表のない驚きが顔に出ている。
「半額ってことは六千円? しかも革質いいの?」
「うん! 場所ちょっと分かりにくいけど、地図描いてあげよっか?……あ、それか今度、案内しようか?」
千夏は恐る恐る提案した。
星野千夏(裏):
『……何言ってんの私。』
『凛ちゃんはただ言ってみただけかも……お節介かな?』
『また「ウザい」って思われるんじゃ……』
これまでの経験上、彼女が提案をすると、女子Aたちは決まってこう言った。『えー? 面倒くさいし、千夏が買ってきてよ』と。
彼女は相談相手ではなく、パシリの道具として扱われることに慣れていた。
しかし。
「マジで!? やった!」
凛は千夏の手をガシッと掴んだ。そこに社交辞令の色は微塵もない。
「じゃあ頼むわセンパイ! 今週末か来週空いてる? 連れてってよ! 私あっち方面全然詳しくないし!」
「……え?」
千夏は呆気にとられた。
凛の、不純物が一切ない、期待に満ちた瞳を見て、胸の奥に未だかつてない温かいものが込み上げてくる。
押し付けでもなく、利用でもない。
ただ単純に、「あなたの提案は素晴らしい、あなたと一緒に行きたい」という意志。
「使用」されるのではなく「承認」される感覚は、彼女にとってあまりに新鮮で、そして無性に嬉しかった。
「うん! 任せて!」
千夏は力強く頷いた。その笑顔は、さっき部室で見せたものよりさらに輝いていた。
「そこの店長さんと顔馴染みだから、オマケしてもらえるかも!」
「さすがセンパイ! 頼りになる~!」
【観測ログ更新】
【サンプルA状態:ドーパミン分泌増大。自己肯定感の上昇を確認。】
【評価:一方的な献身ではなく、双方向の価値確認こそが、安定的関係構築の基盤である。】
……
いつの間にか、駅への分岐点まで来ていた。
通例なら、ここが解散地点だ。
「じゃ、また明日!」凛が手を振り、背を向けようとした。
千夏は改札の前に立ったまま、すぐには動かなかった。
スマホを強く握りしめ、視線を僕と凛の間で往復させ、唇を動かしたが、何らかの躊躇いによって言葉を飲み込んだ。
星野千夏(裏):
『……LINE交換したい。』
『せっかく一緒に部活行ったし、コーヒーも飲んだのに……連絡先も知らないって変だよね?』
『でも……断られたらどうしよう? 霜月くんみたいな堅物は絶対「必要ない」って言うだろうし……』
『凛ちゃんも、馴れ馴れしいって思うかな?』
その硝子細工のような躊躇いが、鮮明に僕の聴覚へ届いた。
僕は「用件があるなら気象部の共有アドレスへ」と言おうとしたが、誰かさんが僕より早かった。
「あ、そうだ!」
凛は何気なく思い出したように、極めて自然な動作でスマホを取り出し、画面を点灯させた。
「センパイ、QRコード出してよ」
「……え?」千夏がキョトンとする。
「LINEだよ、LINE」凛は当然のように言った。
「買い物行く約束したんだから、連絡先なきゃ無理じゃん」
凛はスマホを千夏の前に突き出し、QR読み取り画面を表示させた。
「あ……は、はいっ!」
千夏の目がパッと輝いた。キャンディをもらった子供のように、素早く自分のコードを表示させる。
ピッ。
軽快な電子音と共に、友達追加が完了した。
「オッケー。あとでお店の場所送ってね」
凛はスマホをしまい、その流れで僕の脇腹を肘で突いた。
「ほら兄さん。あんたもついでに追加しときな」
「僕か?」
僕は眉をひそめ、本能的に拒絶しようとした。
「必要ない。買い物のような非効率的な娯楽活動に参加する意思はない。それに……」
「御託はいいから!」
凛は僕の論理的弁明を無視し、僕のポケットからスマホを強奪し、無理やり顔認証でロックを解除し、カメラを起動して千夏に向けた。
「今後もし私がセンパイと連絡取れない時とか、あんた経由できるじゃん。ケチケチしないの」
ピッ。
再び電子音が鳴った。
僕のリストに、強制的に新規フレンドが追加された。
千夏は画面に表示された「追加完了」の文字を見て、嬉しそうな顔をした。
だが直後、僕ら二人のアイコンを見比べて、表情を微妙なものに変えた。
「……あのさ」
千夏は凛のアイコンを指差した。
それは闇夜に金色の目を光らせる黒猫のシルエットで、ミステリアスかつクールな印象だ。
「凛ちゃんのアイコン、イメージ通りだね。カッコいい」
「でしょ? 結構探したんだから」凛が得意げに顎を上げた。
「で……」
千夏の視線が僕のアイコンに移った。
そこにあるのは、生気のない灰色。
システムデフォルトの、何の特徴もない人型のシルエット。
つまり、初期設定のままだ。
「……やっぱり」
千夏は予想通りという溜息をつき、口元を引きつらせた。
「初期アイコン。背景画像すらグレーのまま」
「霜月くん……どれだけズボラなの? それとも本当に美的感覚のプログラムが入ってないロボットなの?」
「出荷時設定だ」
僕はスマホを回収し、淡々と説明した。
「画像自体は有効な情報を伝達しない。アイコン変更には約三分の時間的コストを要するが、それによる実益は皆無だ。初期状態の維持が最適解となる」
「うわぁ……ブレないねぇ」
千夏は顔を覆い、凛に向き直った。「凛ちゃん、普段ホント苦労してるんだね」
「慣れよ慣れ。私はコイツを家電だと思ってるから」
凛は肩をすくめた。
「あはははは……」
千夏が笑った。
今度は、社交辞令の別れ文句などは言わず、スマホを高く掲げて振ってみせた。
「じゃあ、メッセージ送るね!」
そう言い残し、彼女は改札へと駆け込んでいった。
その軽やかな背中は、全ての重荷を下ろしたかのように見えた。
……
帰路。
僕と凛の二人きりになった。
「……まったく」
凛は両手を頭の後ろで組み、夜空の星を見上げながら、からかうような口調で言った。
「兄さん、気づいた? あのセンパイ、最後すっごい笑ってたよ」
「心理的圧力が解放されたことによる、正常な生理反応だ」
「はいはい、生理反応ね」
凛は横目で僕を見て、ニヤリと笑った。
「でもさ、あの『完璧委員長』にあんなアホ面させるなんて……ウチのポンコツ兄貴も、捨てたもんじゃないじゃん」
「どういう意味だ」
「つまり――」
凛は歩調を早めて僕の前に出て、後ろ向きに歩きながら僕を見た。
「兄さんはデータしか見ないって言うけどさ、そのデータの中に、ようやく『温かい』ものが混ざり始めたんじゃないの? ってこと」
「それはシステムエラーだ」
僕は冷たく反論した。
「ふん、強がり」
凛は前を向き、鼻歌交じりに歩き出した。
僕は彼女の背中を見つめ、スマホの画面に増えた、ピンク色のカフェラテのアイコンを一瞥した。
【システム通知:新規ソーシャルリンク確立。】
【評価:……不快ではない。】
平穏な夜だった。
噂はただの暇つぶしのネタで、鬼道の怒りはただの幕間劇に過ぎないように思えるほどに。




