嘘くさい笑顔と、解体される兄
「これが噂の聖女センパイ? もしかして私、お邪魔虫? 二人の世界にお邪魔しちゃった感じ?」
「凛」僕はため息をつき、スマホを閉じた。
「言葉を修正しろ。ここは学術的交流の場であり、『二人の世界』などという非効率な社会的空間は存在しない。それに、ここへ何をしに来た? 過去のデータ上、お前が自発的に『理系部活』に足を踏み入れる確率は限りなくゼロに近い」
「そんな堅苦しいこと言わないでよ! 放課後ついでに兄さんの様子見に来て何が悪いの?」
凛は舌を出し、それから千夏に向き直った。その目には隠しきれない好奇心が宿っている。
凛に見られたのとほぼ同時に、千夏の背筋がピンと伸びた。
あの久々に見る、標準的な「委員長スマイル」が、仮面のように瞬時に装着される。
「は、はじめまして!」
千夏は立ち上がり、優雅な仕草で髪を耳にかけ、声音を一段高く、上品に整えた。まるで他校の来賓を迎えるかのように完璧だ。
「二年B組の星野千夏です。霜月くんからよくお話は聞いてますよ。その……髪飾り、可愛いですね。すごく似合ってます」
星野千夏(裏):
『うわぁ……これが霜月くんの妹? すごい美人!』
『目つき鋭い……嫌われないかな?』
『ちゃんと挨拶しなきゃ……変な女だと思われないように。』
『笑顔! 千夏、笑顔キープ! 失礼のないように!』
彼女は緊張している。
初対面の「身内」を前に、無意識に最も手慣れた「愛想笑いモード」を起動してしまったのだ。
空気が一瞬にして粘り気を帯びる。
これは、凛が最も嫌う挨拶のパターンだ。
僕は注意しようと口を開きかけた。
「……ぷっ」
だが、凛が先に噴き出した。
彼女は千夏の前まで歩み寄り、お辞儀もせず、謙遜もしなかった。
ただ腰に手を当て、少し小首をかしげ、全てを見透かすような瞳で千夏を見つめた。
「センパイ」凛は言った。長年の悪友に話しかけるような気軽さで。
「その褒め言葉、台本読んでるみたいだよ」
「……え?」千夏の作り笑いが凍りついた。
「硬い硬い。ガチガチすぎ」
凛は手をひらひらと振り、呆れたように笑った。
「学校でどんなキャラ設定か知らないけどさ、私と兄さんの前で、そんな『他人行儀な社交辞令』なんて要らないって」
「ぶっちゃけ私、そういう面倒くさいお世辞とか大っ嫌いなのよ。聞いてるだけで疲れるし」
彼女は僕を指差した。
「ほら、こいつなんて『空気』の成分分析はできても、場の空気は読めないロボットじゃん?」
そして自分を指差し、ニカっと笑った。
「で、私は思ったこと全部口に出すガサツな女。だからさ、うちらの前でそんな気張らなくていいよ。不機嫌なら不機嫌な顔していいし、喋りたくなきゃ黙ってていいから」
千夏は呆然とした。
初対面の後輩に、遠慮なく偽装を見抜かれ、「媚びなくていい」と言い放たれたのだ。
そこに嘲笑も悪意もない。
あるのは、とてつもなく心地よい、「リアル」な受容だけだ。
星野千夏(裏):
『……バレた。』
『一瞬で見抜かれた。』
『でも……なにこの言い方。ずるいなぁ。』
『全然……嫌な気がしない。』
千夏の肩から力が抜けた。
完璧な作り笑いは溶けたアイスクリームのように消え去り、代わりに少し困ったような、でもずっと人間味のある表情が浮かんだ。
「……参ったな」
千夏は椅子に座り直し、長く息を吐いて、全身をリラックスさせた。
「すごいね、凛ちゃん。学校じゃ誰も気づかないのに、凛ちゃんの前じゃ三秒も持たないや」
「周りが節穴なだけでしょ」
凛は遠慮なく椅子を引き寄せ、千夏の隣に座った。
「それにセンパイ、さっきの笑顔、目尻が全く動いてなかったよ。いかにも営業用って感じで、私には通用しないね」
「あはは、営業用……確かにそうかも」
千夏は思わず笑った。
今度は、心からの笑顔だった。
「それはそうと……」凛は椅子に座り直し、何気なく千夏の手元に視線を走らせた。「センパイ、髪飾りとか制服の着こなしはセンスいいのに……そのブレスレットは何?」
凛は遠慮なく、千夏の手首にある赤と緑のプラスチックビーズの数珠を指差し、眉をひそめた。「幼稚園児の図工の宿題? 作りは粗いし、色もダサいし、センパイの雰囲気に全然合ってないじゃん。もしかして今の優等生界隈じゃ『ギャップ萌え』とか流行ってんの?」
千夏は一瞬動きを止め、何かの秘密スイッチに触れられたかのように、反射的に右手でその安っぽいブレスレットを覆い隠した。その動作には明らかな保護欲が見えた。「あはは……これ……流行りとかじゃないんだ」彼女の笑顔は少し困ったようになり、けれどどこか頑固な優しさを帯びていた。「これは……ちょっとワケありでね。私にとって、すごく大事なものなんだ」
「ふーん? 変なの」凛は肩をすくめ、興味を失った様子でそれ以上は追求しなかった。
だがすぐに、その些事を放り投げ、瞳に悪戯っぽい好奇心の火を灯した。彼女は椅子をさらに千夏の方へ寄せ、内緒話をするような体勢をとった。
「それよりさ、ねえねえセンパイ」凛は声を潜め、ニヤニヤしながら尋ねた。
「ぶっちゃけ、どうやって耐えてんの? ウチの兄貴みたいなムッツリと。ここでもずっとこんなにつまんないの? 『効率』だの『論理』だのばっか言って」
「僕が退屈だと分かっているなら、静かにするという選択肢もあるぞ」
僕は横から口を挟み、この場の学術的雰囲気を守ろうとした。
「無視無視」凛は手を振った。
千夏は本を読んでいるフリをしている僕を一瞥し、瞳に悪戯っぽい光を宿した。
「うん……正直、超つまんないよ」彼女は理解者を見つけたかのように、愚痴をこぼし始めた。
「聞いてよ、わざわざ高級なコーヒー豆持ってきたのに、『インスタントと大差ない』とか言うんだよ? 空がなんで青いか聞いたら、五分間もレイリー散乱の講釈垂れるし」「まさにロマンの絶縁体!」
「うわ! 分かる!」凛がバンと机を叩いた。生き別れの戦友に出会ったかのように。
「家でも同じ! 晩ご飯何がいいか聞いたら『栄養ピラミッドに基づきタンパク質が不足している』とか言うし! ドラマ見てたら横から脚本の論理的欠陥を指摘してきて、全然集中できないの!」
「そうそうそう! そういう感じ!」千夏が激しく同意し、凛の手を握った。
「Siriと喋ってるみたいだよね! たまに頭かち割って中身がコードじゃないか確かめたくなる!」
「でしょでしょ! しかも超素直じゃないし!」凛は僕を横目で見ながら、意地悪く笑った。
「人のために怪我したくせに『帳尻合わせだ』とか言うし。私のこと心配してたくせに『不快感を消去するため』とか言うし。この性格、ホント面倒くさいよね?」
「え? 心配?」千夏は初耳だという顔で僕を見た。
「霜月くんでも人を心配とかするんだ?……へぇ、意外と可愛いとこあるじゃん?」
二人の女(裏):
『(笑)』
『(共鳴)』
『(この話題において完璧な統一戦線を構築)』
室内は快活な空気に満ちていた。
千夏の頭上にあった暗雲も、噂によるプレッシャーも、この僕に対する「弾劾裁判」の中で霧散していった。
彼女たちはまるで長年の親友同士のように、僕の「黒歴史」をピーチクパーチクと交換し合っている。
僕はため息をついた。
「……君たち、当人の前でその議論は、プライバシーの侵害に当たらないか?」
「当たらないよ」
「これは愛だよ」
二人は声を揃えて答え、顔を見合わせて再び爆笑した。
僕は首を振り、反論を諦めた。
再び手元の記録帳に目を落とす。
うるさい。話題はくだらない。
けれど……。
凛の曇りのない笑顔と、ようやくリラックスした千夏の表情を見て。
冷たい計器しかなかったこの部屋が、今は温かな色彩で満たされているのを感じた。
【観測ログ更新】
【現在環境:騒音レベル高。】
【評価:……不快ではない。】
窓の外の夕陽は沈みかけている。
だが、この気象観測部の活動は、まだ終わりそうになかった。




