入部届と、望遠レンズの悪意
放課後の特別教室棟は、相変わらず夕焼けの残光に包まれていた。
僕は気象観測部の定位置に座り、今週の気圧配置図を整理していた。
間もなく、廊下から軽快な足音が近づいてきた。
いつものような迷いを含んだ足取りとは違う。今日のリズムは、明らかに確固たる意志を帯びていた。
「お邪魔しまーす」
ドアが開き、星野千夏が入ってきた。
少し興奮しているのか、頬が紅潮している。
彼女はボロい回転椅子には向かわず、一直線に僕の長机の前までやって来た。
「はい、霜月くん」
彼女は鞄の一番外側のポケットから、一枚の丁寧に折られた紙を取り出し、勿体ぶって僕の前に叩きつけた。
僕は一瞥した。
用紙の上部には【部活動入部届】の文字。
申請者欄には「星野千夏」の文字が几帳面に記されている。
そして入部理由欄には、少し幼い筆跡でこう書かれていた。
『もっと本当の空を観測するため。』
「……佐伯先生に渡されたやつか」
僕は申請書を手に取り、確認した。
「えへへ」千夏は両手を後ろで組み、口角を上げた。
「考えたの。毎回サボる口実を探すより、大手を振ってここにいられる方がいいじゃんって。佐伯先生も人手不足で予算申請したいって言ってたし」
「それに……」
彼女は視線を窓外へ向けた。
「ここの空気、教室よりずっと吸いやすいしね」
「了解」
僕は申請書を引き出しにしまった。
「顧問に提出しておく。手続き上、お前はこれで気象観測部の見習い部員だ」
「えっ? 見習いなの?」
「正式部員には百葉箱のメンテナンスと雲画像解析の単独遂行能力が求められる。お前はまだ未熟だ」
「厳しいなぁ、部長さんは」
僕の素っ気ない減らず口にも、千夏は全く気にしていない様子だった。
彼女は鼻歌交じりに手際よくミルク入りインスタントコーヒーを淹れ、机に突っ伏して今日の「戦果」を語り始めた。
「そういえば、土曜日のドタキャンの件……意外となんてことなかったよ」
彼女は指でカップの縁をなぞった。
「玲奈たち数人は無視してくるけど、他の普通の子たちには……今日思い切って謝ってみたの。『急に家の用事が入っちゃって』って」
「そしたら『えー? 残念。次は絶対来てねー』で終わって、すぐ別の話題になった」
千夏は苦笑した。その目には解放感と、一抹の寂しさが混じっていた。
「私がいなきゃ世界が滅ぶとか、みんなに嫌われるとか思ってたのに……」
「地球は普通に回ってた。私って……自分が思ってたほど重要じゃなかったみたい」
「良いことだ」僕はデータを記録しながら言った。
「それはお前が『不可欠な道具』から『ただの人間』に戻ったことを意味する。期待値が下がれば、メンテナンスコストも下がる」
「はいはい、理性的な分析ありがと」
千夏は笑った。
そしてふと思い出したように、表情を少し引き締めた。
彼女はスマホを取り出し、数回スワイプしてから僕に突きつけた。
「そういえば霜月くん。気にしてないとは思うけど……これ、一応見といた方がいいよ」
「学校の裏掲示板。朝から炎上してる」
僕はスマホを受け取った。
画面には【告発:神楽坂高校の闇――「最強」の裏にある汚い取引】というタイトルのスレッドが表示されていた。
閲覧数はすでに千を超えており、コメント欄は正義感に燃える怒りの書き込みで溢れかえっている。
投稿主:
『みんな鬼道のこと、喧嘩以外は無関心な一匹狼だと思ってる? 甘い甘い。情報筋によると、あいつは校外で下級生をカツって「支配」を維持してるらしいよ。しかも単独犯じゃない。最近目立ってる二年の「論理オタク」、実はあいつが軍師で、カモになりそうな奴を物色してるんだって……』
その下には、二枚の写真が添付されていた。
【写真一】
撮影環境は薄暗く、路地裏か校舎裏の死角のようだ。
写真には、本校の制服を着た大柄な男子生徒が背中を向けて立っており、片手で別の華奢な男子生徒の胸倉を掴み、壁に押し付けている。
「被害者」の顔には厚いモザイクがかかっており、震えながら財布を取り出している様子だ。
一方、「加害者」側は――背中しか見えない。
あの特徴的なボサボサ髪、広い肩幅、そして少しサイズの合っていないズボンの裾。
一見すれば、鬼道を知る者なら0.1秒で結論づけるだろう。「これは鬼道蓮だ」と。
コメント欄:
『うわ、これ鬼道じゃん? 怖すぎ……』
『被害者かわいそう、チビりそうじゃん。』
『証拠確定! こんな奴がなんでまだ退学になってないの?』
僕は目を細め、画像を拡大した。
「……三流の模倣だな」僕は冷ややかに評した。
「え? どういうこと?」千夏が覗き込んでくる。
「この写真の男は、鬼道じゃない」
僕は画面上の細部を指差した。
「髪型と体格は似せているし、鬼道特有の少し猫背な立ち方も模倣している。だが、ここを見ろ――右手首だ」
「鬼道の右手首には喧嘩でついた古傷があるが、こいつの手首は綺麗だ」
「それに、鬼道の筋肉は常に『即応状態』特有の脱力感があるが、こいつは……肩が上がりすぎている。身体言語で必死に凶暴さを『演技』しているだけだ」
理人(裏):
『体格の似た替え玉を用意し、同じ制服を着せ、ウィッグかセットで髪型を似せ、薄暗い場所で撮影を行った。』
『あえて正面を撮らず、人間の「確証バイアス」を利用している――みんな鬼道を悪人だと思っているから、彼っぽい背中が悪事を働いていれば、自動的に本人だと脳内補完する。』
これは徹頭徹尾、捏造写真だ。
だが捏造だからこそ、鬼道には反論が難しい。
存在しない出来事なのだから、「アリバイ」さえ証明しようがない(時間が特定できないため)。
そして【写真二】。
これは遠距離からの盗撮だ。
場所は一階の昇降口、自販機横。
写真には、靴箱の前で本を持つ僕が写っている。
そして自販機にもたれかかり、缶コーヒー片手に僕に何かを話しかけている鬼道の姿。
音声はないが、二人の間に流れる「隔意のない」空気感と、鬼道の不敵な笑みが、完璧に切り取られている。
キャプション:
『ほら、これが証拠。普段誰ともつるまない鬼道が、あの霜月と密談してる。グルじゃなきゃ、鬼道があんな顔するわけないでしょ?』
コメント欄:
『うわ……鳥肌立った。』
『あの霜月って奴、普段クールぶってるけど、裏じゃヤンキーのパシリ?』
『キモい。高知能犯罪ユニットかよ。』
「……霜月くん?」
僕が写真を凝視して黙り込んだので、千夏が心配そうに声をかけてきた。
「あの……写真は本物っぽく見えるけど、私は違うって分かってるから。鬼道先輩と霜月くんは……たまたま会っただけだよね?」
「写真は本物だ」
僕はスマホを返し、冷たく言った。
「だが解釈は全て間違っている」
脳内プロセッサが高速回転し、写真二の撮影状況を再構築する。
あれは先週水曜日の夕方だ。
当時、昇降口の生徒たちは鬼道に恐れをなして逃げ去っていた。
周囲に人影はなかった。
無人の廊下、死寂した空気。
ならば、この写真はどこから撮られた?
僕は目を閉じ、当時の地理的配置を想起した。
靴箱……自販機……ガラス戸……視線の延長線上。
その位置を正面から捉えられるのは、中庭を挟んだ旧校舎二階の渡り廊下だけだ。
距離:約40メートル。
この距離でこの解像度、かつ僕の鋭敏な知覚に気づかれずに撮影するには……通常のスマホカメラでは不可能だ。
「……望遠レンズ」
僕は低く呟いた。
「え?」千夏が聞き返す。
「この写真の撮影者は、当時、旧校舎二階の階段踊り場にいた」
僕は窓の外の方向を指差した。
「ズーム機能に特化した一眼レフか、あるいはスマホに望遠アタッチメントを装着していた」
「そして、そこで待ち伏せしていた」
これは通りすがりの野次馬が撮ったものではない。
計画的な狩りだ。
犯人は鬼道の動線を予測し、さらに僕が鬼道と接触することさえ予測して、あらかじめカメラを構えていた。忍耐強い狩人が、獲物が罠にかかる瞬間を待つように。
背筋を悪寒が這い上がった。
常に誰かに覗かれているような、顕微鏡下で生活させられているような感覚。最高に不愉快だ。
犯人は汚い手段だけでなく、反吐が出るほどの忍耐力も持ち合わせている。
「霜月くん?」千夏が僕の陰鬱な顔を見て、怯えたように服の裾を掴んだ。「一体……誰がやったの? これ明らかに、二人を嵌めるための陰謀だよね?」
「恐らくだが……」
答えようとした、その時だった。
バンッ!
鉄の扉が勢いよく開け放たれた。
「ヤッホー! 兄さん! 来ちゃった!」
活力に満ちた声が、室内の重苦しい空気を粉砕した。
霜月凛が鞄を背負い、大手を振って入ってきた。
顔色は良く、昨夜の影からは完全に回復しているようだ。
「あれ? 先客?」
凛は中に座っている千夏を見て、一瞬止まった。
視線が千夏の手元の入部届に落ち、次に机上の二つのコーヒーカップへ移る。
彼女の口元が瞬時に吊り上がり、極めて邪悪で、かつ下世話な興味に満ちた笑みを形成した。
「へぇー」
凛は語尾を伸ばし、僕と千夏を交互に見比べた。
「これが噂の聖女センパイ? もしかして私、お邪魔虫? 二人の世界にお邪魔しちゃった感じ?」




