濁った空気と、遅効性の悪意
二年B組の教室に足を踏み入れる。
廊下よりは粘度が低いものの、依然として「疑惑」という名の浮遊粒子が充満していた。
僕は窓際の席へ向かった。
その道中、視線が探照灯のように突き刺さってくる。
モブA(裏):
『来たよ……』
『普段はクールぶってるくせに、裏じゃヤバいことしてんのか?』
『でもデマじゃね? こないだ委員長のこと助けてたし。』
モブB(裏):
『知らんけど。人は見かけによらんしな。』
『でも鬼道との写真、結構ガチっぽくね? 付き合いがあるなら、こいつも真っ黒だろ。』
モブC(裏):
『どうでもいいけど、俺に関わんなきゃいいわ。』
雑多なデータストリーム。
悪意を持って推測する者、無関心を決め込む者、前回の「鍵事件」の記憶から判断を保留する者。
だが依然として、ここは「推定有罪」の環境下にある。
僕は視線を無視し、椅子を引いて座った。
鞄を掛けた瞬間、前の席の背中がいつものように振り返り、安心感のある「バカの気配」を振り撒いた。
「よう! 霜月!」
田中洋平だ。
彼の表情には、他人のような探究心も恐怖もない。むしろ眉をひそめ、不機嫌さを露わにしていた。
「なあ、聞いたか? あの変な噂」
彼は声を潜めたが、地声がデカすぎて周囲には丸聞こえだ。
「お前が鬼道の軍師だのなんだのって……あいつら想像力豊かすぎだろ? 小説家かよ」
田中(裏):
『呆れるわ。こいつら普段暇すぎだろ。』
『霜月は口は悪いけど、ただのガリ勉変人なだけじゃんか。』
『こないだ俺に勉強教えてくれたし……悪人があんな根気強い目をするわけねーって。』
僕は彼を見た。
観測ログ:
信頼。
論理的根拠はなく、単なる「直感」と「短期間の接触経験」に基づく信頼だ。
その判断プロセスは極めて杜撰だが、悪意に満ちた現状下において、この盲目的な信頼は意外なほど価値がある。
「虚偽情報だ」
僕は平然と答えた。
「いわゆる『軍師』などという設定は荒唐無稽だ。僕は鬼道蓮と利益共同体関係にはない」
「だよな!」
田中はバシッと太ももを叩き、安堵の息を吐いた。
「嘘だって分かってたぜ! 安心しろよ霜月、俺の前で変なこと抜かす奴がいたら、サッカーボールで頭カチ割ってやるからよ!」
「……いや、暴力は噂を解決しない。新たな罪状を追加するだけだ」
「あはは、確かに!」
その時、教室の前扉が開いた。
少しざわついていた教室が、一瞬だけ静まり返った。
星野千夏が入ってきた。
彼女は依然として数人の女子に取り囲まれており、顔にはあの見慣れた、完璧な「委員長スマイル」を張り付けていた。
どうやら土曜日の「ドタキャン騒動」は、何らかの方法で鎮火させたらしい。
彼女は依然として、グループの中心に位置している。
「みんなおはよー」
彼女はいつものように挨拶し、視線を自然にクラス全体へと巡らせ、最後にこちらへ留めた。
以前のように過度に避けることもなく、かといって過剰な親密さも見せない。
周囲に挨拶を済ませた後、自然な流れで僕の席の近くへ滑り込み、僕らにしか聞こえない早口で尋ねた。
「あの……昨日の件、どうなった?」
瞳の奥に緊張が潜んでいる。
僕への心配と、事の顛末への好奇心だ。
僕は彼女を見た。
たった一言の問いかけだが、彼女の心に吊り下がっていた巨大な重石の存在を感じ取った。
「解決済みだ」
僕は簡潔に答えた。
「プロセスには多少の波乱が含まれたが、有効なシステム再起動が完了した」
「……そっか」
千夏の目が瞬時に輝いた。
作り笑いではない、心底からの、安堵に満ちた喜びだ。
「よかった……本当によかった」
彼女は小さく呟き、口元を優しく綻ばせた。
「霜月くんなら、絶対大丈夫だと思ってた」
星野千夏(裏):
『ポンコツロボットだけど、いざって時は……本当に頼りになるんだから。』
彼女は長居はせず、無用な憶測を招かないよう、踵を返して女子グループへと戻っていった。
「ごめんごめん。何の話だっけ?」
千夏は自然に会話へ復帰した。
しかし。
観測者として、僕は明白なデータ異常を検知した。
「女子A」と呼ばれる玲奈。
今この瞬間、彼女はいつものように千夏にまとわりつくこともなく、千夏の帰還を歓迎する素振りも見せていない。
ただうつむいてスマホを見つめ、指先を高速で滑らせている。
女子A(裏):
『……ハッ。』
『まだイイ子ぶっちゃって。』
『あんな恐喝犯の仲間とアイコンタクト取ってるの、みんな見てるっつーの。』
『千夏……あんたがあのイカれた男を気に入ってるなら、こっちも手加減しないから。』
『この書き込み……拡散、と。』
彼女は笑っていた。
口元に、微かだが陰湿な笑みを浮かべて。
彼女が閲覧しているのは、間違いなく僕と鬼道に関する誹謗中傷スレッドだ。
そして彼女は今、積極的に「拡散者」の役割を演じている。
隣にいた女子Bも何かを察知したのか、表情を引きつらせ、視線を千夏と玲奈の間で往復させているが、口を開こうとはしない。
千夏は、土曜日の怒りを鎮めたと思っている。
だが実際には、導火線を延長させたに過ぎない。
女子Aが面と向かって爆発しなかったのは、より悪質な報復手段を見つけたからだ――噂の散布という名の。
「……まったく、面倒な生態系だ」
僕は視線を戻し、教科書の数式に目を落とした。




