三人の朝食と、悪意ある脚本(シナリオ)
月曜日の早朝、6時30分。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、瞼を刺した。
意識が眠りの底から浮上すると同時に、全身の筋肉痛が襲ってきた――特に昨日凛に体当たりされた脇腹と、未央を引き上げた際に酷使した左腕だ。
寝返りを打とうとした。
失敗。
左側には、蓑虫状態のまま豪快な寝相でスペースの大半を占拠する凛。
彼女の脚が、僕の掛け布団の上に乗っている。
右側には、小さく丸まり、猫のように僕のパジャマの裾を掴んで眠る未央。
この狭小な「川」の字フォーメーションにおいて、僕は二枚のパンに挟まれたハムのように、身動き一つ取れなかった。
これが、いわゆる「修羅場」後の物理的後遺症か。
効率は極めて悪いが、意外と……寒くはない。
……
三十分後。
アパートのリビングには、トーストと目玉焼きの香りが漂っていた。
寝ぼけ眼の三人が、食卓を囲んでいる。
「……ねっむ」
凛が大あくびをした。髪は爆発している。
「なんか昨日フルマラソン走った気分」
「同感」
未央はホットミルクを両手で包んでいた。顔色はまだ少し蒼白だが、その瞳からは昨日のような濁りは消えていた。
彼女はミルクをちびちびと啜り、安堵したような表情を浮かべた。
「でも……昨日はよく眠れた。こんなに深く寝たの……久しぶりかも」
未央(裏):
『悪夢を見なかった。』
『凛ちゃんの寝息が聞こえて、右側にはあの人の体温があって。』
『狭かったけど……すごく温かかった。』
あの病的な執着が完全に消えたわけではないだろうが、少なくともこの瞬間、平凡な温もりが彼女の毒を希釈してくれているようだ。
「そういえば」
凛がトーストを齧りながら、思い出したように言った。
「未央、昨日の外泊のこと、親に言った? 今日学校行くなら、一旦帰って制服とかカバン取ってこないとでしょ?」
未央の動きが止まった。
カップを持つ手が空中で硬直した。
戻りかけていた血色が、瞬時に引いていく。
「……あ」
彼女は短く声を漏らした。
未央(裏):
『……家。』
『あの冷たい場所。』
『帰ったら……またお母さんにあの目で見られる。』
『昨日どこ行ってたのか説明しなきゃ……また部屋に閉じ込められるかも。』
『怖い。帰りたくない。ずっとここにいたい。』
家庭に起因する恐怖が、影のように彼女の心を覆い尽くしていく。
僕は彼女を見た。
言葉にしなくとも、「窒息」という名のデータストリームが彼女から溢れ出している。
「……あの」
未央はカップを置き、無理やり笑顔を作った。
「私……ちょっとまだ体調悪くて。今日の午前中は休もうかなって」
「もう少し遅くなって……お母さんが出かけてから、荷物取りに帰るよ」
凛は何か言いかけたが、未央の顔色を見て、言葉を飲み込んで頷いた。
「うん。それがいいよ」
凛は手を伸ばし、未央の頭を撫でた。
「無理しないで。どうしても帰りたくないなら……放課後また相談しよ」
「……うん。ありがとう、凛ちゃん」
未央は目を閉じ、その手のひらに猫のように頬を擦り寄せた。
……
七時四十五分。
僕と凛は通学路の坂道を歩いていた。
未央はアパートに残してきた。規則違反だが、緊急避難措置として合鍵を渡しておいた。
朝の空気は澄んでおり、昨夜の暴風雨が街を綺麗に洗い流したようだった。
僕らは肩を並べて歩いた。過去の無数の朝と同じように。
「ねえ、兄さん」
凛が不意に口を開いた。
彼女は前を向いたまま、手を後ろで組み、歩調を少し緩めた。
「なんだ」
「その……昨日の夜」
彼女はバツが悪そうに、道端の小石を蹴った。
「私、兄さんにひどいこと言ったよね。『ロボット』だの『心がない』だの……」
「事実だ」
僕は平坦に返した。
「僕の行動論理はデータ分析に基づいており、感情的共鳴に欠ける。お前の記述は客観的特徴に合致している」
「……バカ」
凛は足を止め、振り返った。
「そうじゃないってば」
「昨日、兄さんが追いかけてくれなかったら、あのドアを破ってくれなかったら……私、今頃おかしくなってたと思う」
彼女の瞳は真剣で、僕の影を真っ直ぐに映していた。
「あの時、兄さんの手、熱かったよ。未央を掴んだ時も、私に傘をくれた時も」
「あれは絶対、ロボットにはできないよ」
彼女は深く息を吸い、口角を上げて爽やかに笑った。
「ごめんね、あんなこと言って。それと……ありがと」
凛(裏):
『本当に……ありがとう。』
心声と言語が重なる。
不純物の一切ない感謝だ。
「……どうでもいい」
僕は鞄のベルトを握り直し、胸の奥の不慣れな動悸を隠した。
「謝罪より賠償だ。僕の医療費をどう補填するか考えておけ」
僕は完治していない左手を持ち上げてみせた。
「ハァ? やっぱりあんた守銭奴じゃん!」
凛は笑いながら僕の腕を軽く小突いた。
「はいはい、今夜高いプリン買ってあげるから許してよ」
……
しかし。
その「雨降って地固まる」的な温かな空気は、神楽坂高校の校門をくぐった瞬間、唐突に断ち切られた。
空気が変質した。
それは単なる「視線」ではなく、もっと粘着質で、陰湿な何かだった。
僕らが中庭を抜け、昇降口へ向かうと、談笑していた生徒たちが急に声を潜めた。
無数の視線が針のように突き刺さってくる。そこには明らかな好奇心、嫌悪、そして恐怖が含まれていた。
モブA(裏):
『おい、見ろよ。霜月だ。』
『妹も一緒かよ……ケッ、まともそうな顔して、やること陰湿だよな。』
『鬼道の件、実はこいつが入れ知恵してたってマジ?』
モブB(裏):
『マジマジ。写真回ってたし。』
『鬼道が恐喝担当で、霜月がターゲット選定と分け前管理……エグすぎでしょ。』
『やっぱりな。前の鬼塚先生の時も、やたら口上手かったし、常習犯なんじゃないの?』
モブC(裏):
『関わんな関わんな。どっちもヤバい奴らだって。』
大量の情報ストリームが脳へ流入する。
キーワード抽出:
【鬼道】、【恐喝】、【写真】、【霜月は共犯/参謀】。
僕は眉をひそめた。
鬼道に関する悪評は常にある。だが今回は違う。
第一に、噂の具体性が極めて高い。「鬼道が実行犯、霜月が参謀」という役割分担まで設定されている。
第二に、攻撃範囲が拡大し、僕を巻き込んだ「武力+知力」の犯罪ユニットという物語が構築されている。
これは、入念に設計されたシナリオだ。
誰かが裏で世論を操作し、僕と鬼道を同時に孤立させようとしている。
「……兄さん?」
凛も周囲の異変に気づいたらしい。無意識に僕に寄り添い、周囲を警戒した。
「なんなのこれ? みんなの目が変だよ。あんた何かした?」
「気にするな」
僕は無表情で靴箱を開け、上履きに履き替えた。
「恐らく、誰かの退屈な三文芝居が開演しただけだ。こちらが反応しなければ、この虚偽情報に基づく空気はいずれ霧散する」
対策:無視。
証拠のない流言に対し、いかなる弁明も「焦り」と解釈されるだけだ。
沈黙を守り、日常を維持し、相手がボロを出すのを待つ。それが最も効率的な処理方法だ。
僕は凛の肩を叩いた。
「教室へ行け。ノイズに惑わされるな」
「……うん」
凛は頷き、まだ疑念を抱えたまま一年生の教室へと向かった。
僕は彼女の背中を見送り、周囲の悪意に満ちた視線を一巡した。
口では「無視」と言ったが、体内の観測レーダーはすでに全開で稼働している。
この手口……。
この「空気」を利用して人を殺すやり方。
どうやら、しばらくは平穏に過ごせそうもない。




