「だったら跳べよ」
肺が燃えている。
呼吸をするたび、吸い込んだ冷気が有刺鉄線となって気管を掻きむしる。
肋骨の亀裂が鋭い悲鳴を上げ、次の瞬間にでも骨がズレてしまいそうだ。
左腕のギプスが走る動作に合わせて重く身体を打ち付ける。
だが、止まらなかった。
どうやって校門を乗り越えたのかも、どうやって四階まで駆け上がったのかも覚えていない。
脳内には、極限まで単純化されたコマンドだけが残っていた。
【間に合え。】
「心配」という名の未知の変数が、僕の身体制御権を掌握している。
四階の廊下の突き当たり。
半開きの鉄扉の向こうから、凛の悲痛な叫びと、未央の詩を詠うような遺言が聞こえてきた。
『私が凛ちゃんにあげられる、最高に重くて、深くて、絶対に色褪せない……愛を』
その言葉を聞いた瞬間、脳内を渦巻いていた混乱したデータストリームが、唐突に停止した。
代わりに湧き上がったのは、冷徹で、鮮明な怒りだった。
愛だと? ふざけるな。
「――そんなもの、愛とは呼ばない」
言葉が口をついて出た。
僕は力任せに、重い鉄の扉を蹴破った。
ドォン!!
金属が壁に衝突する轟音が、屋上の凄惨な美しさを一瞬で引き裂いた。
突風が吹き込み、僕のパジャマを激しくはためかせる。
二つの人影が同時に僕を見た。
凛は床に膝をつき、涙に濡れた顔で、驚愕と微かな希望を浮かべていた。「……兄さん?」
そして手すりの上に座る未央は、すでに極限まで上体を反らしていた。
僕を見た瞬間、その夢見るような笑みが凍りつき、クライマックスを邪魔されたことへの困惑と憤怒に変わった。
僕は前屈みになり、肩で荒い息をしながら、激痛の走る脇腹を押さえた。
そして顔を上げ、一切の感情色彩を持たない瞳で、未央を射抜いた。
呼吸を整え、恐ろしいほど平坦な声で告げた。
「それはただの、反吐が出るほど低俗な独占欲だ」
未央は呆然とした。
この生と死の瀬戸際において、侵入者の第一声が否定であるとは予想していなかったのだろう。
「……なに言ってんの?」
未央の目が据わり、声から優しさが消え、金切り声に近い響きを帯びた。
「あんたに何が分かるの!? 部外者のくせに……私は凛ちゃんのために命を捧げるの! これは永遠の……」
「だったら跳べよ」
僕は遮った。
「……え?」未央と凛が同時に、信じられないという声を上げた。
僕は背筋を伸ばした。
彼女を引き戻そうと一歩踏み出すことさえせず、両手をパジャマのポケットに突っ込み、冷ややかに彼女を見下ろした。
「跳ぶんだろ? ならさっさと跳べよ」
「重力加速度は9.8m/s²。四階からの落下所要時間は約1.5秒だ」
「着地の瞬間、お前の骨格は粉砕され、内臓は破裂し、脳漿がコンクリートにぶちまけられる」
「お前は原形を留めない肉塊になる。美しくもなければ、ロマンチックでもない」
「あんた……っ」未央の顔が怒りで歪んだ。「悪魔なの!? 私は死ぬんだよ! 凛ちゃんは私を一生忘れないんだから!」
「何を覚えるって?」
僕は一歩踏み出した。言葉のナイフを突きつけながら。
「お前が身勝手な誘拐犯だったことか?」
「愛とは双方向の相互作用であり、正の感情流動だ」
「だかお前はどうだ?」
僕は跪く凛を指差した。
「彼女を見ろ。その顔を見ろ」
「最初から最後まで、凛がお前から得たものは何だ?」
「喜びか? 安らぎか? 信頼か?」
「違う。恐怖だ。疲労だ。お前が死ぬかもしれないという不安だけだ」
未央の視線が、無意識に凛へと向いた。
凛は呆然と僕を見ていた。涙はまだ流れていたが、未央に対する「不安」や「罪悪感」は、僕の言葉によって粉砕され、ただの困惑だけが残っていた。
「これは愛なんかじゃない」
僕はさらに距離を詰めた。一歩ごとに未央の心理防壁を踏み砕いていく。
「これはお前が自分の空虚さを埋めるために行っている、一方的な搾取だ」
「彼女の善意を利用し、罪悪感を人質に取り、自分の自己満足を無理やり押し付けているだけだ」
「これは強要された詐欺取引だ。あまつさえ今、お前は『死』という粗悪品を使って、彼女の一生を強引に交換しようとしている」
「黙れッ!!」
未央が絶叫した。
仮面を剥がされた後の、逆上だった。
人形のように整っていた顔は、今や醜悪に歪み、怨嗟に満ちていた。
「あんたなんかに何が分かる! 心のない化け物に何が分かるのよ!」
「凛ちゃんは私のものよ! 私が死ねば……私が死ねば、凛ちゃんは永遠に私のものになるの!」
「だから、なんだ?」
僕は再び遮り、歩みを止めなかった。
「死ねば勝てると思ってるのか?」
「寝言は寝て言え」僕は鼻で笑った。
「今跳べば、確かに凛はお前を覚えているだろう」
「だが記憶されるのは『愛』じゃない。『恐怖』だ。お前が彼女の人生を壊し、人殺しの汚名を着せたという事実だ」
「時間の経過とともに、その恐怖は嫌悪へ、そして憎悪へと変わる。十年後、彼女が『未央』という名を思い出す時、抱く感想は一つだけだ――『ああ、私を壊そうとしたイカれた女』とな」
「それがお前の望む永遠か?」
「ち、違う……!」
未央が狼狽した。
僕の論理というハンマーが、彼女が構築した完璧な脚本を叩き割ったのだ。
反論したいが、論拠が見つからない。
彼女の深層心理が、僕の言葉を正しいと認めてしまっているからだ。
彼女は迫り来る僕を見て、恐怖が狂気を上書きし始めた。
「来ないで!!」彼女は後ろへ退き、手すりの上でぐらりと揺れた。「それ以上来たら……本当に跳ぶから!」
「跳べ!」
僕は止まらず、むしろ加速した。声は雷鳴のように轟いた。
「今跳ぶなら、それは愛のための死じゃない!」
「お前は僕の追求に怯え、暴かれた自分を直視できずに逃げ出しただけだ!」
「お前は『臆病者』として死ぬんだ! 凛がそんな惨めな脱走兵を一生覚えていてくれるとでも思うのか!?」
「――ッ!!!」
未央が完全に崩壊した。
シナリオが壊された。
神聖性が剥奪された。
今跳んでも、自分はただの笑い者になる。
彼女は無意識に支えを求めた。
凛を見た。
「凛ちゃん……助けて……こいつを黙らせて……」
だが、凛は動かなかった。
凛は跪いたままだったが、その目は未央を見ていなかった。
彼女は顔を上げ、僕を見ていた。
その瞳から困惑と恐怖は消え、深い、謝罪を伴う信頼だけがあった。
未央(裏):
『……負けた。』
『凛ちゃんが、私を見てない。』
『命の最後の瞬間なのに……凛ちゃんが見てるのは、私じゃない。』
嫉妬と絶望という名の感情が、瞬時に彼女を飲み込んだ。
計画は失敗だ。
「永遠の愛」になれないなら、もういい……本当に死んでやる。
逃げるためでもいい。この敗北感には耐えられない。
「……あああああっ!!」
未央は絶望の叫びを上げた。
目を閉じ、勢いよく上体を後ろへ反らした。最後の跳躍を試みるために。
だが、手を離す直前、彼女は無意識に足元を見てしまった。
四階分の高さ。
闇に沈むコンクリート。
全てを砕くのに十分な距離感。
生存本能。
生物の最下層にあるコードが、この瞬間に起動してしまった。
未央(裏):
『……高い。』
『痛い。死ぬ。』
『死にたくない……私、死にたくない……』
その一瞬の躊躇いが、致命的だった。
彼女の手は本能的に手すりを掴み直そうとしたが、反動が大きすぎた上、手のひらは冷や汗で濡れていた。
滑った。
「――あっ」
短い悲鳴。
彼女の身体はバランスを失い、本当に後ろへ落下し始めた。
これは演技ではない。真実の墜落だ。
「未央ッ!!」凛が絶叫した。
その刹那。
一陣の影が、チーターのように空気を切り裂いて飛び込んだ。
僕は躊躇なく手すりへ突っ込んだ。
肋骨が悲鳴を上げ、肺が焼ける。
だが、迷いはない。
未央の身体が完全に手すりの外へ消えようとした瞬間。
僕の右手――唯一無事な手が、そしてギプスを巻いた左手さえもが、彼女の手首を死に物狂いで掴んだ。
バキッ。
腕に強烈な牽引力がかかり、患部の激痛で視界がブラックアウトしかけた。
だが、離さない。
僕は全身の力を振り絞り、手すりに身を乗り出し、鉄の万力となって、深淵へ落ちゆく少女を、生と死の境界線上で強引に繋ぎ止めた。
未央が宙ぶらりんになる。
彼女は僕を見上げた。
苦痛に歪みながらも、決して揺らぐことのない僕の顔を。
「……捕まえたぞ」
僕は歯を食いしばり、言葉を絞り出した。
「死なせるとでも思ったか」
「お前の自殺計画は……却下だ」
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【反撃開始!】 「愛という名の独占欲」を、理人が真っ向から否定しました。
この展開に「スッキリした!」「よく言った!」と思ってくださった方は、 ぜひ今すぐ【★】で理人の論破を応援してください!
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