「あなたは私の、光だから」
強風が吹き荒れる屋上の空気は、凍てついたように張り詰めていた。
私はドアの前に立ち尽くし、制服の裾を強く握りしめていた。爪が肉に食い込む痛みだけが、現実を繋ぎ止めている。
喉が渇く。砂を飲み込んだようにザラザラする。
「降りてきて」と叫びたい。「馬鹿なことはやめろ」と怒鳴りつけたい。駆け寄って腕を掴み、こっちへ引きずり戻したい。
だが、足が鉛のように重く、ピクリとも動かない。
理性――あるいは生物としての本能が、私に警告している。
動くな、と。
私が一歩でも踏み出せば、あるいは言葉を一つでも間違えれば、わずか十数センチの幅しかない手すりに座る少女は、枯れ葉のように舞い落ちてしまうだろう。
どうする?
なんて言えばいい?
普段の私は、「言行一致」を自負していた。思ったことは口にする。
兄さんをバカ呼ばわりすることも、理不尽な教師に噛み付くことも、言葉の上で引いたことなど一度もなかった。
だが今、本物の「死」を前にして、私の脳内はホワイトアウトしていた。
どんな言葉も薄っぺらく、彼女を突き落とす凶器になりそうで、声が出ない。
「……未、央……」
絞り出した名前は、情けないほど震えていた。
私の狼狽ぶりとは対照的に、死の縁に座る少女は、あまりに穏やかだった。
「凛ちゃん、なんでそんなに緊張してるの?」
未央は小首をかしげ、私を見た。
その笑顔は、どこまでも軽く、自然だった。
まるで放課後、いつものように「クレープ食べに行こうよ」と誘ってくる時と同じ顔だ。
その軽やかな口調は、無様に立ち尽くす私を嘲笑っているようでさえある。
「普段の凛ちゃんはいつも余裕があって、お姉さんみたいに私を守ってくれるのに……今の凛ちゃん、迷子になった子供みたいだよ」
笑えるわけがない。
私の視線は、宙に浮いた彼女の足に釘付けだった。心臓を氷の手で鷲掴みにされたようで、鼓動のたびに激痛が走る。
「……降りて、きてよ」
私は必死に恐怖を押し殺し、声を平坦に保とうとした。
「未央、そこは危ない。風も強いし……とりあえずこっちに来て。ね? 話をしよう」
「話?」
未央は瞬きをした。面白い単語を聞いた、という反応だ。
「私たち、ずっと話してきたよ。でも、凛ちゃんは一度も、本当の意味で聞いてくれなかった」
彼女は身体の向きを変えた。
底知れぬ夜空に背を向け、私と正対する。
両手を身体の横につき、上体をわずかに後ろへ逸らす。風が吹けばバランスを崩してしまいそうな、極めて不安定な体勢だ。
「ねえ、凛ちゃん」
「知ってる?」
「……な、なにを?」私は反射的に答えた。時間を稼ぎたかった。
「あの日……私にとって、凛ちゃんがどういう存在だったか」
未央は私の答えを待たなかった。
彼女は顔を上げ、私を通り越して、遥か遠くの過去を見つめた。
濁っていた瞳に、突如として夢見るような光沢が宿る。
「高一の、あの日」
彼女は愛おしそうに語り始めた。
「いつものように、私は教室の隅で囲まれてた。教科書は踏まれて汚くて、牛乳をかけられて、ベタベタしてて、気持ち悪かった」
「周りのみんなは笑ってるか、見ないふり。先生も助けてくれない。誰も助けてくれない」
「実はね、もう慣れてたの」
未央は微笑みながら、背筋が凍るようなことを言った。
「我慢してれば、そのうち飽きてどっかに行くだろうって。どうせ私はドブネズミだから、踏まれるために生まれてきたんだって」
「世界はずっと灰色だった。ずっと、灰色だったの」
「でも……」
彼女の声が昂揚し、狂気じみた震えを帯び始めた。
「凛ちゃんが来た」
「バンッ! って。ドアが蹴り開けられたの!」
未央は両手を広げ、壮大なオペラでも演じるように語った。
「凛ちゃんは、まるで一筋の稲妻みたいに、突然あの灰色の世界に飛び込んできた。何も言わず、真っ直ぐ歩いてきて、私をいじめてた山田の襟首を掴んだ」
「あの瞬間の凛ちゃん、本当にかっこよかった」
「目がすごく怖くて、冷たくて、全員ビビって動けなかった。凛ちゃんが山田を引きずっていく姿は、まるでゴミ袋を運んでるみたいだった」
「私は後ろから、その背中を見てた……その瞬間、思ったの」
未央は私を見た。その目には、信仰に近い炎が燃えていた。
「ああ、この世界に、本当にヒーローっていたんだって」
「彼女は、私を助けに来てくれたんだ」
「私のためだけに、この汚い教室に降り立ってくれたんだって」
「凛ちゃん」
彼女は手を伸ばし、数メートル先の私の輪郭を虚空でなぞった。
「あの泥の中で窒息しかけていた私にとって、凛ちゃんはクラスメイトなんかじゃない。友達でもない」
「あなたは、光」
「あの灰色の世界を引き裂いて、私を引っ張り上げてくれた……たった一人の、白馬の王子様」
私は呆然と聞いていた。
あの日の記憶が蘇る。
私にとっては、ただの「不愉快だから手を出した」だけの、些細なお節介だった。
ただムカついただけだ。
だが、想像もしていなかった。
私の気まぐれな行動が、彼女の世界では、神の降臨として処理されていたなんて。
「あの瞬間から、誓ったの」
未央の手がゆっくりと下ろされ、自分の胸に当てられた。
「私の命は、凛ちゃんが拾ってくれたもの。だから私の全て……時間も、身体も、魂も、全部凛ちゃんのものだって」
「なのに……」
彼女の表情が一変した。
夢見るような光沢が消え、おぞましいほどの悲哀が顔を覆う。
「どうして凛ちゃんは、受け取ってくれないの?」
「どうして凛ちゃんは、他の人を見るの?」
「光は……私一人だけを照らしてくれればいいのに」
彼女は私を見つめていた。
涙が音もなく頬を伝い落ちる。だが口元には、あの歪んだ笑みが張り付いたままだ。
【あとがき:神格化という名の呪い】
作者「『白馬の王子様』……。本来ならロマンチックな言葉なのに、暴風の屋上で聞くと呪いの言葉にしか聞こえません」
霜月「これが『認知の歪み』の極致だ。 凛は単に『ゴミを掃除した』だけ。だが未央はそれを『自分への救済』と誤認し、凛を人間から『神』へと昇華させてしまった」
作者「神様だから、他の人を見ちゃいけない。私だけを照らすべきだ、と」
霜月「崇拝は、もっとも残酷な拘束だ。 さあ、凛。この歪みきった信仰を突きつけられて、お前はどう答える?」
作者「次回、凛の回答。そして……あの男が到着します。 」




