屋上の縁に座る少女 ~月光の下、彼女は「悲劇のヒロイン」を演じている~
「ごめん……兄さん」
私は夜の闇へ飛び出した。
頬を伝う涙は、冷たい夜風によって瞬時に乾いた。
右肘が、鈍く痛む。
あの一撃に、私は全力を込めた。
兄さんの肋骨が完治していないことは知っていた。あのタックルがどれほどの激痛をもたらすか、分かっていたはずだ。
私はクズだ。
兄さんは私のためを思って止めてくれた。唯一、私を泥沼から引き上げようとしてくれた。
なのに私は、私を地獄へ突き落とそうとしている女のために、救おうとしてくれた家族を傷つけた。
『でも……行かなきゃ……』
『行かなきゃ、未央は本当に死ぬ!』
受話器から聞こえたあの風の音が、冷たい蛇のように私の首に巻きついている。
確認しなければ。引き戻さなければ。私は一生、「人殺し」という悪夢の中で生きることになる。
私は走った。
冷気を吸い込んだ肺が焼けつくように痛い。脚は鉛のように重い。
だが、止まるわけにはいかない。
……
神楽坂高校、正門。
巨大な鉄扉は閉ざされ、「立入禁止」の札が月光を反射している。
普通の生徒なら、これは越えられない壁だ。
だが今の私にとって、これは障害物ですらない。
私は守衛室横の室外機に足をかけ、フェンスの上端を掴み、身体を一気に引き上げた。
跳躍。着地。
一連の動作は淀みない。朝練に遅刻しそうな時や、授業をサボる時に何度も繰り返してきた動きだ。
着地した瞬間、巨大な静寂が押し寄せてきた。
夜の学校は、昼間とは別世界だ。
喧騒はない。楽器の音もない。
見慣れた校舎群が月光の下で巨大な影を落とし、まるで眠れる巨獣が黒い大口を開けているようだ。
あるのは風の音だけ。
ゴォォォォォ――。
今日の風は異常に強い。
街路樹の葉が狂ったようにざわめき、無数の人間がひそひそ話をしているような錯覚を覚える。
私は荒い息を吐きながら、無人の中庭を抜け、旧校舎の隣にある特別教室棟へと走った。
全校で最も高い建物。
気象観測部と――屋上がある場所だ。
一階。二階。三階。
階段の踊り場には、非常灯の緑色の光だけが灯っている。
私の足音が空虚な廊下に反響する。一歩踏み出すたびに、心臓を直接踏みつけられているような気分になる。
上へ行くほど、風の音が大きくなる。
全てを引き裂くようなその轟音が、極限まで張り詰めた私の神経を削っていく。
四階。
着いた。
私は屋上へと続く鉄扉の前に立った。
規則では、このドアは施錠されているはずだ。
だが、今は。
カチャ、カチャ。
ドアノブのあたりから、金属がぶつかる音がする。
鍵はかかっていなかった。
本来そこにあるはずの南京錠が、無惨にひしゃげ、床に転がっている。まるで、何者かが鈍器で強引に破壊したかのように。
壊した?
ペットボトルの蓋さえ開けられないような未央が……ここに来るために、鍵を叩き壊したというの?
その常軌を逸した執念に、骨の髄から凍えるような寒気が走る。
私は足を止めた。
ここまで無我夢中で走ってきた勢いが、この半開きのドアを前にして、霧散してしまった。
手が震えている。
ドアを開けるのが怖い。
そこに立っているのが人間ではなく、すでに墜落した後の抜け殻だったらどうしよう。
あるいは……また彼女に会うこと自体が、怖い。
『……怖がるな。凛。』
『助けに来たんでしょ。彼女がそこにいる限り、まだ間に合う。』
私は深く息を吸い、込み上げる嘔吐感を無理やりねじ伏せた。
そして手を伸ばし、ゆっくりと、ゆっくりと鉄扉を押し開けた。
ゴォォォォッ!!
暴風が瞬時に吹き込み、目を開けていられないほどだ。
私は目を細め、前方を見た。
月光に青白く照らされたコンクリートの床。その先にある、腰ほどの高さしかない錆びついた手すり。
そこに、彼女はいた。
木島未央。
彼女は泣き叫んでもいなければ、空に向かって喚いてもいなかった。
ただ静かに、手すりの上に座っていた。
私に背を向け、広大な虚無の夜空と対峙している。
彼女は上履きを脱いでいた。きちんと揃えられたその白い靴が、この暗闇の中で異様に白く、目に刺さる。
この国の文化において、それが何を意味するかは明白だ。
裸足の足が、手すりの外側の虚空に投げ出されている。子供がブランコに乗る時のように、無邪気にぶらぶらと揺れている。
彼女が着ているのは、あの日私に買わせようとした、四万二千円の、レースのワンピースだった。
風が吹き荒れる。
彼女の長い黒髪が狂ったように舞い踊る。それは月下に咲く黒い大輪の花のようであり、夜を掴もうとする無数の触手のようでもあった。
スカートの裾が激しく翻り、今にも翼となって彼女をこの世界から連れ去ってしまいそうだ。
美しい。
不謹慎にも、その瞬間、私の脳裏にはそんな言葉が浮かんだ。
それは残酷で、非人間的で、息を呑むほど完成された美だった。
彼女は自殺志願者には見えなかった。
元々この世界に属していない幽霊が、世界の縁に腰掛け、風が自分を連れて行ってくれるのを待っている――そんな風に見えた。
「……未央?」
私は声を絞り出した。風に千切れてしまいそうな声だった。
手すりの上の人影が、足の動きを止めた。
彼女はゆっくりと、ゆっくりと振り返った。
月光が彼女の顔を照らす。
笑っていた。
それは私が見たこともないほど、純粋で、透明な笑顔だった。
「……ああ、凛ちゃん」
彼女の声はフワフワとしていて、遥か遠くから響いてくるようだった。
「やっと来てくれたね」
「今夜の月……すごく綺麗だよ」
【あとがき:屋上の魔女】
作者「暴風、月光、そして手すりの上の美少女……。絵になりますが、未央ちゃん、怖すぎませんか? 笑顔が逆にホラーです」
霜月「視覚情報に惑わされるな。」
作者「さて、役者は揃いました。 逃げ場のない屋上で、凛、未央、そして(遅れてくる)理人。 地獄の三者面談が始まります。
明日は【2話連続更新】を実施します!(12:10 & 19:10)」




