ロボットが走り出す夜 ~論理(ロジック)を捨ててでも、止めなければならない~
ジリリリリリリリリリリ――!!
錆びついたノコギリのような機械音が、リビングの張り詰めた空気を繰り返し切り裂く。
僕はキッチンのカウンター前で、瞬時に高速演算を行った。
この番号は、学校と緊急連絡先にしか開示していない。
この時間帯に、あえて携帯ではなく固定電話にかけてくる相手。可能性が高いのは未央だ。
彼女は意図的に凛のスマホを迂回し、この最後の防衛線を直接侵略してきたのだ。
極めて攻撃的なシグナルだ。
結論:応答不可(NG)。
この電話に出れば、今日の全ての努力――穏やかな午後、心からの笑顔、再起動しかけていた自我――が、瞬時に無に帰す。
「……出るな」
僕は皿を置き、玄関へ早足で向かった。
「凛、それは罠だ」
しかし。
恐怖の伝導速度は、理性的判断を上回った。
凛の身体は意識より先に動いていた。
見えない糸に引かれる操り人形のように、彼女は蒼白な顔で玄関へ突進した。
僕の手が電話線に触れる一秒前、彼女の震える手が受話器を掴み、通話ボタンを押してしまった。
「……もしもし?」
彼女の声は震え、まるで判決を待つ囚人のようだった。
僕は足を止め、彼女の傍らに立った。
部屋は死ぬほど静かで、受話器から漏れる音が明瞭に聞こえた。
泣き声はない。
恨み言もない。
ただ、轟々と吹き荒れる、巨大な風の音だけが聞こえる。
高所特有の、空虚で狂乱した気流の音だ。
その身の毛もよだつ背景音の中から、ふわりとした、異界からのような女の声が聞こえてきた。
『……凛ちゃん。風、強いね』
『……私が風になったら、ずっと凛ちゃんのそばにいられるかな?』
ツーツーツー。
電話が切れた。
脅しも要求もない。ただ死を暗示する遺言だけを残して。
凛の手から力が抜け、受話器がガタンと音を立てて棚にぶつかり、ぶら下がったまま揺れた。
彼女の瞳孔が劇的に拡散する。その瞬間、理性が完全に断ち切れた。
凛(裏):
『……学校。』
『あれは……校舎の屋上だ。』
『本当にあそこにいる。本当に飛び降りる気だ。』
『私のせいだ……私が電源を切ったから……私が殺したんだ……』
「……未央ッ!!」
凛は身を裂くような絶叫を上げた。
彼女は靴を履くことさえ忘れ、玄関の鍵をひったくり、外へ飛び出そうとした。
「待て!」
僕は彼女の手首を掴んだ。
「冷静になれ。あれは演技だ。お前の恐怖を利用しているだけだ」
「離してよ!」凛が猛然と振り返った。
その顔に昼間の穏やかさはなく、極度のパニックと狂気だけがあった。
「聞こえなかったの!? 屋上にいるんだよ! 屋上だよ!」
「行かなかったら……あの子本当に死んじゃう!」
「死なない」僕は彼女の手首を万力のように締め上げ、冷徹に言い放った。
「本当に死ぬ気なら、電話などしない」
「この電話の目的は一つだ。お前を誘い出し、首輪をかけ直すことだ」
「今行けば、お前は二度と戻って来られなくなる」
「それがどうしたって言うのよ!」
凛は半狂乱で暴れ、爪が僕の肉に深く食い込んだ。
「首輪でもいい……地獄でもいい……」
「あの子が生きててくれれば……人殺しにならなくて済むなら……どうだっていい!」
凛(裏):
『聞きたくない。』
『あんたの御託なんて聞きたくない。』
『生きててくれればいい……お願いだから邪魔しないで!』
「凛!」
僕は声を張り上げ、音圧で彼女の理性を喚起しようとした。
「僕を見ろ! お前は昨日『しんどい』と言った。今日『楽だ』と言った。あの一日の自由を、全部否定するつもりか!?」
その言葉が、何かに触れたようだった。
凛の抵抗が止まった。
彼女は顔を上げ、僕を見た。
その目は涙で溢れていたが、それ以上に、絶望的な怒りが宿っていた。
「……そうだよ。楽だったよ」
彼女は歯を食いしばり、声を震わせた。
「でもね、兄さん。それはあんたみたいな人間の特権なのよ」
「なに?」
「あんたには心がないからよ」
彼女は僕を見据え、僕という存在を全否定するような目をした。
「あんたみたいなロボットに何が分かるのよ!」
「『必要とされる』ことの重さも、他人の命を背負う怖さも、あんたには分からない!」
「あんたは冷静に損得勘定できるかもしれないけど、私にはできない! だって私は人間だから! 心があるから! 痛いんだよ!」
その言葉はハンマーのように、僕の胸を強打した。
ロボット。
人の心が分からない。
心がない。
その告発によって、僕の思考が一瞬フリーズした――その隙だった。
凛が動いた。
力任せに振りほどこうとするのではなく、身体を沈み込ませ、同時に手首を逆関節方向へ捻り、肩で僕の左脇腹へ強烈な体当たり(タックル)をかました。
グキッ。
激痛が炸裂した。
二週間前に折れ、まだ完治していない患部だ。
それはかつて僕が彼女に教えた護身術――『古傷や弱点を持つ相手に対し、精密打撃を行って逃走の隙を作る』技術そのものだった。
「……ぐっ!」
生理的な激痛に反射的に手が緩み、僕はよろめいて壁に激突した。
凛は僕を見なかった。
その隙にドアを開け、裸足のまま漆黒の夜へと駆け出した。
「ごめん……兄さん」
風に乗って、泣き声混じりの最後の謝罪が聞こえた。
そして足音は急速に遠ざかり、廊下の闇に消えた。
……
玄関のドアが開け放たれている。
冷たい夜風が吹き込み、昼間の温かな空気を残らず吹き散らしていく。
僕はズキズキと痛む肋骨を押さえ、壁に寄りかかったまま、ズルズルと床に座り込んだ。
周囲は死寂に戻った。
垂れ下がった受話器だけが、「プー、プー、プー」という無機質なビジー音を吐き出している。
【システムレポート】
【干渉失敗。】
【ターゲット、観測範囲外へ逸脱。】
「……最悪の展開だ」
僕は低く呟いた。
僕は正しかった。
論理的には、絶対的に正しかった。
未央は演技をしており、凛は自ら罠に飛び込んだ。
だが結果は――拒絶された。
「救済」しようとした対象に、僕が教えた技で、手痛く拒絶された。
『あんたみたいなロボットに何が分かるのよ』
その言葉が、空っぽの玄関で反響している。
僕は自分の手のひらを見つめた。
僕に「心」が分からないから、止められなかったのか?
僕には「罠」しか見えず、彼女の「人命を背負う恐怖」が見えていなかったからか?
理人(裏):
『……諦めろ。』
『お前は最善を尽くした。代案を出し、阻止を試みた。』
『彼女自身が地獄を選んだんだ。それは彼女の自由意志だ。』
『ドアを閉めて寝ろ。明日になれば全て終わっている。』
それが最適解だ。
「霜月理人」という個体の生存戦略に合致する唯一の選択肢だ。
しかし。
僕の身体は動かなかった。
冷たい床に座り込んだまま、肋骨の痛みが今起きたことの現実感を突きつけてくる。
脳内で、無数の声が交錯し始める。
佐伯先生:『変わるには巨大な外力が必要だ。凡人にとっては、変化の恐怖は忍耐の苦痛を上回る』
千夏:『誰かが「痛そう」に見えるなら、それは本当に痛いんだよ。助けに行くのに理由は要らない』
千夏:『私たち普通の人にとって……その気持ちは、「心配」って言うんだよ』
心配。
その単語が、ずっと【ERROR】を表示していた論理の鍵穴に、カチリと嵌った気がした。
僕が苛立っていたのは、データ不足だからじゃない。
僕が怒っていたのは、未央が非論理的だからじゃない。
僕が凛を止めたかったのは、僕の正しさを証明するためじゃない。
ただ単に……あいつが泣くのを見たくなかっただけだ。
いつも生意気な顔で「バカ兄貴」と呼ぶあいつが、あの屋上で完全に壊されるのを見たくないだけだ。
もしそれが「心」だと言うなら。
もしそれが、いわゆる「人間」だと言うなら。
ならば……。
「……クソったれな慣性の法則め」
僕は悪態をつき、床に手をついて、ふらつきながら立ち上がった。
論理で説得できないなら。
言葉で止められないなら。
物理的手段を行使する。
あの「慣性」を上回る巨大な「外力」となって、無理やりにでも引き戻す。
ドアは閉めない。靴も履き替えない。
僕は玄関の鍵を引っ掴み、肋骨の激痛を無視して、家を飛び出した。
目的地:神楽坂高校、特別教室棟、屋上。
夜風は冷たい。
だが体内のエンジンは、かつてない出力で咆哮を上げていた。
「待ってろ、凛」
「その檻、今夜俺がぶっ壊してやる」
【あとがき:論理の先にある衝動】
作者「あああ……凛ちゃん! 罠だと分かっていても飛び込んでしまう、その優しさが痛いです」
霜月「そして俺は、自らが教えた格闘術で無力化された。……皮肉な結果だ」
作者「でも理人くん、そこで諦めなかったですね。『心配』という感情をついにインストールしましたか?」
霜月「……言葉のアヤだ。俺はただ、俺の観測対象が修復不可能なエラーを起こすのを阻止しに行くだけだ。 ――論理で説得できないなら、物理法則でねじ伏せるまでだ」
作者「(素直じゃないなぁ……でもカッコいい!) さあ、いよいよ直接対決です。 屋上で待つ『ラスボス』未央。囚われた凛。そして、駆けつける理人。
地獄の三角関係、その決着はどうなるのか? 明日の更新(19:10)をお見逃しなく!」




