マホの強制シャットダウン ~「毒」を抜くための、束の間の休日~
土曜日の深夜、2時30分。
寝室は闇に沈んでいる。
僕はベッドの左側で、隣から聞こえる呼吸音を聞いていた。
凛は眠っていなかった。
呼吸のリズムが不規則で、時折息を止めて何かを耐えているような気配がする。
彼女は目を閉じ、寝返りも静かだが、漏洩する電波のような心声が、絶え間なく僕の脳へ侵入してくる。
『……本当に、あんなことしていいのかな。』
『「彼女の死活は関係ない」なんて……そんなわけないじゃん。』
『もし無視して、彼女が本当に死んだら……狂言だとしても、万が一本当になっちゃったらどうするの?』
『でも……しんどい。』
『明日また彼女に会って、泣き声を聞いて、あの目で見られることを想像するだけで……胸が詰まって、吐きそうになる。』
『兄さんが正しいの? 私、一度逃げてみるべきなのかな?』
葛藤。恐怖。罪悪感。
そして、救済を求める微かな渇望。
僕もまた、眠気は皆無だった。
「観測」の副作用による大脳皮質の持続的興奮状態だ。
暗闇の中で目を開け、彼女の心の囁きを一つ一つ解析する。
強制的な手段を講じなければ、明日の朝、彼女はまた「責任感」という名の慣性によって、泥沼へと引きずり戻されるだろう。
……
日曜日の朝、8時00分。
カーテンの隙間から朝日が差し込んだ時、僕らはほぼ同時に上体を起こした。
同じようにクマを作った二組の目が一秒間交差し、すぐに逸らされた。
睡眠の質判定:最悪。
凛は重い足取りで洗面所へ向かった。
僕はキッチンへ行き、機械的に朝食の準備を始めた――シンプルなだし巻き卵と味噌汁だ。
十分後。
顔を洗って出てきた凛は、少しだけ生気を取り戻していたが、眉間には依然として焦燥感が巣食っていた。
彼女は食卓に着いたが、箸を取ろうとはせず、無意識に手を伸ばし、テーブルの端にあるスマホを掴もうとした。
凛(裏):
『……チェックしなきゃ。』
『一晩返信してないし、未央から数百件きてるはず。』
『返さないと……言い訳考えないと……』
中毒的な条件反射だ。
電気ショックを与えられたマウスが、電流が流れていなくてもスイッチを見ただけで震えるように。
彼女の指先が画面に触れる一秒前。
横から伸びた手が、その黒い長方形を掠め取った。
「……え?」
凛が呆けて顔を上げた。
僕は無表情で彼女を見下ろし、指を電源ボタンにかけた。
長押し。
画面が点灯し、そして消灯する。
シャットダウン。
「実験だ」
僕はただの鉄屑と化したその黒いブロックを、部屋の反対側にあるソファの隅へ放り投げた。
「今日一日、信号源の切断を試行する」
「ちょっ! 何すんのよ!」
凛が勢いよく立ち上がった。顔には禁断症状のような焦りが浮かんでいる。
「返して! 未央と連絡取れなくなったら……」
「取れなくてどうなる?」
僕は遮り、寝不足でいつもより淀んだ死んだ魚の目で彼女を睨んだ。
「お前は昨日、『考えさせてくれ』と言った。これが考えるための環境だ」
「この部屋には、泣き声も、脅迫も、あの四万二千円の服もない。お前自身しかいない」
僕は目の前の朝食を指差した。
「まずは食え」
「それとも、死ぬかもしれないし死なないかもしれない他人のために、空腹のまま発狂に付き合うつもりか?」
凛はその場に凍りついた。
ソファの隅に転がるスマホを見つめ、次に僕の微動だにしない目を見つめる。
彼女は葛藤している。
理性は僕が正しいと告げているが、恐怖が神経を引っ張っている。
凛(裏):
『……でも……』
『兄さんの目……怖い。』
『それに……本当に電源切っちゃえば……あの声を聞かなくて済む?』
最後には、空気が抜けた風船のように、彼女はドサリと椅子に座り込んだ。
「……勝手にしてよ!」
彼女は僕を睨みつけたが、その声には迫力がなかった。
「どうなっても知らないからね! 何かあったら全部兄さんの責任だから!」
「了解」
僕は箸を彼女に渡した。
「世界が滅亡したら、僕が報告書を書く。今は食べろ」
……
午前10時00分。
朝食後、凛はリビングを五周ほど歩き回った。
ソファの隅にあるスマホをチラチラ見たり(手は出さない)、窓の外を見たり、服の裾をいじったりしている。
典型的な離脱症状だ。
注意を逸らし、かつ彼女が退屈さゆえに再び不安に陥るのを防ぐため、僕はテレビに接続されたゲーム機の電源を入れた。
以前、凛が持ってきた「友情破壊ゲーム」として名高いレースゲームだ。
「コントローラー」
僕は赤と青のコントローラーを彼女に差し出した。
「一戦やるぞ。負けた方が皿洗いだ」
凛は呆気にとられ、それを受け取った。
「はあ? バカじゃないの? 今そんな気分じゃ……」
「スタート」
僕は文句を無視し、開始ボタンを押した。
五分後。
「ああああっ! 卑怯! 赤甲羅とか性格悪すぎ!」
凛の絶叫がリビングに響き渡った。
「合理的な戦術的妨害だ」僕は無表情で操作を続ける。「お前のコーナリングは攻撃的すぎて隙だらけだ」
「うるさいっ! 吹き飛ばしてやる!」
凛は歯を食いしばって加速ボタンを連打し、画面に合わせて身体を左右に揺らしている。
十分。二十分。一時間。
順位が激しく入れ替わるにつれ、凛の眉間にあった暗雲が、少しずつ晴れていった。
彼女はもうスマホを見ない。
意識の全てが、この仮想のサーキットで僕を打ち負かすことだけに集中している。
「よっしゃあ! 一位!」
凛はソファから飛び上がり、コントローラーを掲げて歓呼した。
「見たか! これが実力よ! 兄さんみたいな計算ばっかの走りじゃ勝てないのよ!」
凛(裏):
『勝った! あはは!』
『スカッとする! あの車吹き飛ばすの超気持ちいい!』
「未央」も、「責任」も、「顔色窺い」もない。
今この瞬間、彼女の脳を満たしているのは、純粋な勝負欲と快楽だけだ。
僕は興奮で紅潮した彼女の顔を見た。
笑ってはいないが、胸の奥に詰まっていた淀んだ気団が、少しだけ緩んだ気がした。
……
午後。僕らは床に座って課題を片付けた。
時折、僕が彼女の数学的論理エラーを指摘し、彼女が僕の字を「コードみたいでキモい」と反撃する。
その後は漫画だ。
ソファの両端を占領し、読み古した週刊誌をめくる。
窓の外の光が、東から西へと移動していく。
この一日は、退屈なほど平穏だった。
泣き声も、脅迫も、四万円を払ってまで維持しなければならない関係もない。
夕暮れ時。
凛は漫画を閉じ、大きく伸びをして、茜色に染まる空を見た。
「……ねえ、兄さん」
彼女の声は軽く、穏やかだった。
「なんだ」
「今日……過ぎるのが早いね」
彼女は振り返り、隅に転がされたまま画面の黒いスマホを見た。
そこに恐怖はなく、隔世の感のようなものが漂っていた。
「そっか……スマホを見ないと、一日ってこんな感じなんだ」
「返信の内容考えなくていいし、言葉の裏読まなくていいし……」
『楽だなぁ。』
『天井見てボーッとしてるだけでも、あのカフェにいるより一万倍マシ。』
『私……今まで、ずっと無理してたのかな。』
僕は彼女を見た。
【観測ログ更新】
【サンプルB状態:離脱症状の消退。自己修復プロセスの起動を確認。】
【結論:物理的隔離は有効。サンプルは「正常」の基準線を再設定中。】
「お前の脳が、これまで高負荷なバックグラウンド処理を実行し続けていただけだ」
僕は平坦に言った。
「不要なプロセスを終了し、工場出荷状態に戻ったに過ぎない」
「……相変わらず可愛げのない言い方」
凛が笑った。それは久々に見る、心からのリラックスした笑顔だった。
「でも……サンキュ」
僕は視線を戻し、口元をわずかに緩めた。
「礼には及ばない。居住環境の安寧を維持するためだ」
夕陽に染まるリビングの空気は、乾燥していて温かかった。
この状態を維持できれば、あるいは「未央」という名のウイルスは、彼女の免疫系によって自然排除されるかもしれない。
そう思った。
しかし。
世界は常にマーフィーの法則に従う。
事態が好転したように見える時こそ、最悪の事態の前兆なのだ。
夜の八時。
僕はキッチンで夕食(スーパーの惣菜を盛り付けるだけ)の準備をしていた。
凛はソファでテレビを見ていた。
突然。
鼓膜を劈くような、この家では聞いたことのないベルの音が、静寂を引き裂いた。
ジリリリリリリリリリリ――!!
スマホではない。
玄関の靴箱の上に置かれた、インテリアと化していた固定電話だ。
凛の動きが凍りついた。
僕も手を止めた。
この時代、セールスか詐欺以外で固定電話にかけてくる人間など殆どいない。
あるいは……。
何らかの手段で、わざわざこの番号を特定した誰か以外は。
凛がゆっくりと振り返り、狂ったように叫び続ける赤い電話機を凝視した。
彼女の瞳孔が極限まで収縮し、顔色が見る見るうちに土気色へと変わっていく。
『……嘘でしょ?』
『あれは……学校にしか届けてない緊急連絡先。』
『未央……?』
嵐は、ついに到達した。
【あとがき:侵入経路の脆弱性】
作者「あぁぁ……。マリオカートで和んでいたのに! まさかの固定電話!」
霜月「盲点だった。スマホの遮断には成功したが、レガシーデバイスへの迂回ルートが残されていたとはな」
作者「学校の緊急連絡網か何かを使ったんでしょうか……? 執念が凄まじいです
それでは、また明日(19:10)にお会いしましょう!」




