「彼女の死が、お前と何の関係がある?」
凛の話が終わった。
狭いリビングの空気は、固体になったかのように凝固していた。
テーブルの上の空になった弁当箱から、微かに冷えた油の匂いが漂っている。
僕は目の前でうつむいている凛を見た。
脳内プロセッサが、彼女が語った全ての情報(「パシリ」「雨の中の待ち伏せ」「泥の中の捜索」)を統合し、モデリングを行う。
【データ解析完了】
【モデル判定:悪性依存関係。】
これは友情などではない。一般的ないじめですらない。
これは「癌」だ。
「未央」という名の細胞が、凛の「善意」を培地として利用し、無秩序に増殖を繰り返している。
凛が途中で試みた距離を置く行為(嘘をついて本屋へ行った件)は、本来正しい免疫反応だった。
だが、未央がより過激な手段(雨の中での自傷的待機)を取ったことで、凛は誤った「罪悪感」を植え付けられ、抵抗を放棄してしまった。
それこそが、最も致命的なエラーだ。
一度の妥協、一度の「まあいいか」、一度の「仕方ない」が、全て癌細胞への栄養供給となっている。
凛は平和を維持しているつもりだろうが、実際には「破滅」という名の怪物を自らの手で飼育しているに過ぎない。
「……分かった?」
凛の声は小さく、自暴自棄な響きを含んでいた。
「これが全部。笑えるでしょ? 普段は姉御ぶって偉そうなこと言ってるくせに、こんなことに雁字搦めにされてるなんて」
「笑えない」
僕は静かに口を開き、彼女の自嘲を遮断した。
「これはゲーム理論における典型的な敗北ケースだ。非理性的な対戦相手とのゲームにおいて、君が誤って理性的ルール(同情と責任)を適用した結果、必然的に全敗しているだけだ」
僕は指先でテーブルを叩いた。
「結論は変わらない」
「その関係は、肉体に生じた悪性腫瘍と同じだ。切除しなければ、宿主――つまりお前は、遅かれ早かれ養分を吸い尽くされて壊死する」
「だから、僕の提案は一貫している」
「即時損切り。物理的隔離を実行しろ」
「……はあ?」
凛が勢いよく顔を上げた。その目には、理解不能なものを見る衝撃が浮かんでいた。
「日本語通じてる? 兄さん」
彼女の感情が昂ぶり始め、声のボルテージが上がっていく。
「言ったでしょ! 切りたくないんじゃなくて、切れないの! もし私が急に無視したり、電話に出なかったりして、兄さんの言う『物理的隔離』なんてしたら……」
彼女は髪を掻きむしり、瞳に恐怖を滲ませた。
「あの子、発狂するわよ! 本当に極端なことするかも知れないの! 自分を傷つけるか、それとも自殺か……あのイカれた子が何しでかすか分からないじゃない!」
「万が一あの子が死んだらどうすんの!? 私に一生、人殺しの十字架背負えって言うの!?」
彼女のヒステリックな詰問に対し、僕は微動だにしなかった。
心拍数は平常。思考はクリアだ。
僕は恐怖に震える彼女の瞳を見据え、絶対的理性に基づいた、最も冷酷な回答を提示した。
「だから、なんだ?」
「……え?」
凛が固まった。
直球を顔面に受けたかのように呆けている。
僕は続けた。明日の天気を語るような平坦さで。
「彼女が自分を傷つける、それは彼女の選択だ」
「彼女が自殺する、それも彼女の自身の生命に対する処分権の行使だ」
僕は身を乗り出し、一切の感情色素を含まない瞳で、凛の視線をロックした。
「彼女の生死が、お前と何の関係がある?」
死寂。
今回は、徹底的な死寂だった。
窓の外の風音さえ止まったかのようだ。
凛は口を開けたまま、瞳孔を激しく収縮させた。
彼女は僕を見ていた。まるで、人の皮を被った怪物を見るような目で。
彼女は僕が「怖くないよ」「大丈夫だ」と言うか、あるいは未央を罵倒すると予想していただろう。
だがまさか、「生命」の重さそのものを否定するとは思っていなかったはずだ。
「あんた……」凛の声が震えている。
「何言ってんの……人の命だよ!? 私の友達なんだよ!?」
「なんで……なんでそんな冷血なことが言えるの……」
「冷血?」
僕は首を傾げた。
「未央という個体は、自身の生命をチップにしてお前を脅迫している。これはテロリズムそのものだ」
「そしてお前は、人質が殺されるのを恐れて、延々と身代金を払い続けている」
「『人質が死ぬかもしれない』というリスクを受け入れない限り、この脅迫は永遠に終わらない。お前は全ての身代金を払い終えた後、彼女と共に破滅するだけだ」
僕は彼女の胸を指差した。
「凛。お前に、他人の狂気のために支払いを続ける義務はない。もしその覚悟さえないなら、一生彼女の餌でいればいい」
その言葉は、麻酔なしの手術刀のように、凛の最後の遮蔽物を生々しく切り裂いた。
痛み。激痛。
だが、反論は不可能だ。
凛は僕を見ていた。唇を震わせ、涙が眼窩に溜まっているが、決してこぼれ落ちることはなかった。
罵りたかったはずだ。
人の心が分からない機械だと、人でなしのクズだと。
だが、心の奥底で、微かな声がこう囁いているのだ。
『兄さんの言う通りだ』と。
一秒、また一秒と時間が過ぎる。
リビングの空気は窒息しそうなほど重い。
ついに。
凛は全身の力を抜かれたように、背もたれに崩れ落ちた。
うつむき、前髪が目を隠し、表情が見えなくなる。
「……分かったよ」
その声は掠れ、深い疲労と苦味を帯びていた。
「兄さんが正しい。たぶん……私が弱すぎるだけなんだ」
彼女はゆっくりと立ち上がった。動作はぎこちない。
「でもさ、兄さん。人は機械じゃないの。スイッチ一つで、はいそうですかって切り替えられないのよ」
彼女はテーブルの空き箱を手に取り、ゴミ箱へ捨てた。
その背中は、痛々しいほど小さく見えた。
「……もう少し、考えさせて」
それだけ言い残し、彼女は僕を見ようともせず、歯磨きもせず、そのまま寝室へと入っていった。
ベッドに潜り込み、僕に背を向けて横になり、頭まで布団を被る。
拒絶の姿勢だ。
僕はテーブルに残り、固く閉ざされたドアを見つめた。
彼女の拒絶に、挫折感はない。
メスは入った。
今は痛みが走り、彼女は抗っているが、「腫瘍を切除する」という種は確実に蒔かれた。
あとは、契機が必要なだけだ。
彼女にあの腫瘍の正体を直視させ、決断を下させるための、決定的な契機が。
そして、未央という「病理モデル」のシミュレーションに基づけば。
その契機は、おそらくすぐに訪れる。
僕は立ち上がり、電気を消した。
闇が再び部屋を支配する。
今夜もまた、眠れない夜になりそうだ。
「理人の正論、もっともだ!」と思った方も、
「さすがに言い過ぎでしょ……」と思った方も、
ぜひ感想や【★★★】で教えてください!
あなたの倫理観は、理人と凛、どちらに近いですか?
それでは、また明日(19:10)にお会いしましょう!




