星野千夏という名の「聖女」 ~その笑顔の下にある、計算高い脚本(シナリオ)~
神楽坂高校の正門に到着した時、時刻はちょうど12時35分を指していた。
まさに昼休みだ。
校内には弁当の匂いと、過剰なホルモンの臭気が充満している。
僕が上履きに履き替え、校舎の廊下に足を踏み入れたその瞬間、それまで正常だった背景雑音の調子が急変した。
まるで静かな水面に巨石を投げ込んだかのように、波紋が急速に広がっていく。
「おい、あれ……霜月じゃね?」
「嘘だろ? もう退院したのかよ」
「梶原さんはまだ入院中だろ? 手術するって聞いたぞ……」
「人をあそこまでやっておいて、自分だけ戻ってきたのか? 化物かよあいつ……」
これは物理層面の声だ。
彼らは声を潜め、ひそひそ話で隠そうとしているが、反響効果の高いこの廊下では、依然として明瞭に聞き取れる。
だが、それは最悪な部分ではない。
最悪なのは、視線と共にやってくる、声帯の振動を経由せず、脳内で直接炸裂する「心の声」だ。
『怖い怖い怖い、こっち見んな。』
『こいつかよ……優男に見えるのに、人の腕をへし折るとか。』
『離れろ、こんな精神異常者に関わるな。』
『なんで退学にならないわけ? こんなのが学校にいるとか時限爆弾じゃん。』
無数のデータストリーム。
恐怖、嫌悪、好奇心、野次馬根性。
これらの負の感情が混ざり合い、粘着質な黒いアスファルトとなって、廊下を塞ぐだけでなく、僕の聴覚神経までも塞ごうとしてくる。
僕は無表情のままヘッドホンのホワイトノイズの音量を上げたが、焼け石に水だ。
その時、前方の廊下を、野次馬の生徒数人が塞ぐ形になった。
彼らは指を差し合い、僕が梶原に謝りに行くべきかどうか議論しているようだ。
「あの、皆さん、道を開けてあげてください」
空気を浄化するような、澄んでいて、温かい声が突然響いた。
人混みの中から現れたのは、栗色の長い髪を持ち、制服を一切の乱れなく着こなした女子生徒だった。
星野千夏。
二年B組の学級委員長であり、教師たちが口を揃えて言う「模範生」だ。
彼女は男子たちの前に立ち、礼儀正しく、しかし威厳を失わない微笑みを浮かべていた。
「廊下で塞いでいると他の人の迷惑になりますよ。それに、クラスメイトを指差すのは失礼です」
正義凛然。落落大方。
周囲の男子はすぐに顔を赤くして散らばり、「ごめん、星野さん」と口々に言った。
星野千夏が振り返り、僕を見た。
彼女の表情は、完璧な「慈しみと包容力」モードに切り替わっていた。
「霜月くん、退院したんだね。体はもう大丈夫なの?」
同時に、彼女の心の声がラジオ放送のように僕の脳内に響き渡る。
『完璧なタイミング。』
『男子たちが動揺しているところに登場して、委員長としての威厳を見せつつ、”問題児”への包容力もアピールする。』
『今の私、みんなの目には聖女みたいに映ってるはず。』
『こんな誰からも相手にされない暴力男にも優しく接するなんて、これでまた評価が上がるわ。』
以前から薄々感じていたが、この委員長は周囲に好かれることに過剰なほど熱心で、常に集団内での自分の立ち位置を確認しているようだった。
今、この「声」によって、僕の推測は確信へと変わった。
だが、僕には関係ない。
彼女が聖女を演じようが、評価を稼ごうが、それは彼女の生存戦略だ。
僕の利益を害さない限り、干渉する理由もなければ、協力する義理もない。
そのため、僕は足を止めず、彼女を一瞥することさえせず、その横を素通りした。
道端の看板広告を、いちいち直視しないのと同じことだ。
「え?」
背後の空気が一瞬、凝固した。
千夏の笑顔が引きつり、言いかけた挨拶が喉に詰まる。
『……え? 無視?』
『待って、台本と違う。ここは感激して泣くか、恥じ入って下を向くところじゃないの?』
『……まあいいわ。無視されても笑顔を崩さない、その方が私の度量の広さが際立つし。』
『そう、それでいいのよ。』
心の声は迅速に自己修正を行った。脚本が脱線したことによる多少の慌てふためきはあったものの、彼女はすぐに「理不尽な扱いを受けても健気な委員長」という役に没入した。
……
二年B組の教室のドアが目の前にある。
ここが台風の目だ。
僕はドアを開けた。
それまで喧騒に包まれていた教室が、その瞬間に物理的な死寂に陥った。
全員の動作が停止した。
弁当を食べていた箸が宙で止まり、談笑していた口が開いたまま塞がらない。
数十の視線が、探照灯のように僕の一身に集中する。
『本当に戻ってきた……』
『腕、吊ってる。』
『目を合わせるな、目を合わせるな。』
僕はそれらの視線を無視し、窓際の最後列へと直行した――そこは僕の席、いわゆる「主人公席」だが、僕が手にしているのは熱血漫画の台本ではない。
「あの……霜月、戻ったんだ」
前の席に座る男子が、気まずい空気に耐えかねてか、引きつった笑顔で声をかけてきた。
僕は少し考え、社交儀礼に基づき、反応を返すべきだと判断した。
「ああ。脚部の機能は正常だから、登校した」
「あ……そ、そう。はは……」
会話終了。
その時、入り口から急ぐような足音が聞こえた。
先ほど廊下で僕に無視された星野千夏が入ってきた。
彼女は明らかにメンタルを立て直しており、顔には再び隙のない笑顔が張り付いていた。
彼女は手をパンパンと叩き、クラス全員の注意を引いた。
「はいはい、みんな席に戻って。霜月くんは退院したばかりなんだから、あんまり困らせちゃダメだよ」
『ほら、私の一言でクラスの空気が戻った。』
彼女は心の中でご機嫌な鼻歌を歌っている。まるで先ほどの気まずさなど存在しなかったかのようだ。
僕は鞄から教科書を取り出した。ちょうど予鈴が鳴った。
彼女が僕の邪魔をしないなら、どうでもいい。
……
午後の最初の授業は数学だった。
僕にとって、授業を聞く効率は独学に遠く及ばない。特に「住宅ローンがまだ残っている」という教師の不安げな独り言に耐えながらでは尚更だ。
だが、僕は45分間を静かに過ごした。
終業のチャイムが鳴った瞬間、あの微妙な、「空気」という名のものが再び教室に流れ始めた。
誰一人として、自分から僕に話しかけようとはしない。
一人を除いて。
完璧な役割を演じることに執念を燃やすあの星野千夏が、再びターゲットを僕にロックしたのだ。
星野千夏は授業ノートを手に持ち、僕の机の前に立った。
彼女の周りには取り巻きの女子が数人いて、彼女の威光を借りているようだ。
「霜月くん」
千夏はわずかに身を乗り出し、慈愛に満ちた眼差しを向けた。「今週の数学のノート、コピーまとめておいたよ。戻ってきたばかりで大変だと思うけど、分からないところがあったら、いつでも聞いてね」
そう言って、彼女は数枚のコピー用紙を僕の机に置いた。
周囲から小声の称賛が漏れる。
「委員長、マジ優しい」
「さっき無視されたのによくやるよな」
「ほんと、あいつ恩知らずだよな」
それらの声を背に受け、千夏の口角は正確に5度上昇した。
『このノートのためにわざわざコンビニ行って500円も使ったんだから。全ては今、この人気を回収するため。』
「だって私、委員長だもん。当然だよ」そう言って彼女は僕を見た。「それに霜月くんだって、わざと喧嘩したわけじゃないし……きっと何か事情があったんだよね?」
『みんな見てるわ。さあ、この舞台を完璧なフィナーレにしてよ。』
僕は彼女の眩しい笑顔を見つめた。
彼女の内なる声は、高周波でループ再生されている。
核心にある欲求は明確だ。コスト(ノート)の投入 → リターン(感謝と賞賛)の要求 → 目的(自己イメージの固定)の達成。
僕は現状を分析する。この相互作用モデルにおいて、僕は「助けを必要とするクラスメイト」として存在しているのではなく、「評価を稼ぐための道具」として使用されている。
それ自体に問題はない。人間社会とは本質的に、利用し利用される関係で満ちているからだ。
しかし、問題は今後の予測だ。
もし僕が彼女に合わせてこの取引を成立させてしまえば、彼女の中枢神経は「この行動は正のフィードバックをもたらす」という報酬系メカニズムを構築する。
行動心理学的に推測すれば、ドーパミンの分泌を維持するために、彼女が将来的に同様の「演技的交流」を僕に求めてくる確率は85%を超える。
結論。
これは僕の自由時間が継続的に占有され、かつ無意味な社交演技への協力を強いられることを意味する。
極めて非効率な時間リソースの浪費だ。
将来発生しうる長期的干渉を回避するための最適解は、今この瞬間に、このループを切断することにある。
そこで、僕は手元の本を閉じ、顔を上げた。
ヘッドホンを外す。
その感情のない瞳で、スキャナーのように静かに星野千夏の顔面を注視した。
千夏は僕の視線に虚を突かれたのか、笑顔に亀裂が走った。
『……なに? その目……なんか怖いんだけど。』
「星野さん」僕は口を開いた。抑揚のない、平坦な声で。
声は大きくないが、静まり返った教室では十分に明瞭だった。
「なにかな?」千夏は笑顔を維持し、小首をかしげた。「どこか分からないところでもあった?」
「いいえ」
僕は手を伸ばし、彼女の顔を指差して、観測された物理現象の陳述を開始した。
「あなたの大頬骨筋と眼輪筋が、不自然な緊張状態にあります」
「……え?」
千夏の笑顔が凝固した。
その単語は明らかに、彼女の日常会話データベースの範囲外だった。
僕は分析レポートを読み上げるような口調で解説を続けた。
「表情筋学によれば、自然な微笑みとはリラックスした状態で作られます。ですが今のあなたの表情は、筋肉の硬直度が高すぎます。非常に不自然で、いささか獰猛にさえ見えます」
教室の空気が、再び凍りついた。
千夏は突然電源を切られたロボットのように、その場で硬直した。
彼女は僕の冷淡さや拒絶は想定していただろうが、解剖学に基づく理性的分析は明らかに想定外だったようだ。
『……は?』
「それで、霜月くんは、何が言いたいの?」
僕は彼女の剥がれ落ちそうな仮面を見つめ、淡々と言った。
「僕には、あなたのそのくだらない茶番劇に付き合う義務はありません」
死寂。今度は徹底的な死寂だった。
千夏は口を開けたまま、顔色を蒼白にした。
精巧にメンテナンスされていた仮面に、あまりに赤裸々な解析を突きつけられ、ついに巨大な亀裂が入ったのだ。
『何言ってるの……こいつ……』
『見抜かれてる?』
『どうしよう? みんな変に思ってる?』
『早く、早く、早くこの話題を終わらせなきゃ!』
今、彼女の脳内を満たしているのは、システムエラーを起こした後のパニックだ。
彼女は台詞を忘れてしまい、「教室」という名の舞台で突然全裸にされた役者のように、恐怖以外の対応策を見出せずにいる。
「わ……私はただ……」
彼女の声が震えている。
「霜月! お前何考えてんだよ!」
近くにいた女子生徒がたまらず飛び出し、沈黙を破った。「千夏が親切でノートくれたのに、何わけのわかんないこと言ってんの!」
「そうだよ! 筋肉がどうとかキモいんだよ! 委員長はあんたのこと心配してんでしょ!」
非難の声が四方から上がる。
助け舟が来たのだ。
千夏は内心で安堵のため息をついたが、僕に底の底まで見透かされた恐怖は、依然として彼女の瞳の奥に残っていた。
彼女はもう僕と目を合わせることもできず、うつむき、周囲の援護射撃を利用して、先ほどの一瞬の硬直を誤魔化そうとしている。
『危なかった……バレるところだった。』
『なんなのこいつ……一体なんなの?』
『目……気持ち悪い。』
確認完了。
彼女は僕に対し「忌避」と「回避」の心理を抱いた。
これはつまり、向こうしばらくの間、彼女が評価稼ぎのために僕に不用意に接近してくることはないという意味だ。
干渉源は排除された。
僕は再びヘッドホンを装着した。
「僕は事実を指摘しただけです」
僕は淡々と言い、コピーされたノートを開いた。
「それと、字は丁寧でレイアウトも明瞭だ。資料としての価値は高い。感謝します」
これが、僕の学校復帰初日だ。
クラスからの排斥はより強烈になったが、一回の精密な論理的打撃によって、僕は未来のパーソナルスペースを確保することに成功した。
今回の作戦の費用対効果に対し、僕は満足の意を表した。
ヒロイン(?)の星野千夏、登場です。
そして即、拒絶(笑)。
「いい人」を演じている人ほど、理人のようなタイプは天敵かもしれません。
千夏の化けの皮がどう剥がれていくのか、ご期待ください。
**もし「理人の言い分、スカッとした!」という方は、**
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(本日ラストの更新です!)




