浴衣とTシャツの温度差
あの日から、私の背後に小さな尻尾が生えた。
木島未央は影のように私に張り付くようになった。
休み時間のたびに会いに来て、放課後は一緒に帰り、トイレに行く時でさえドアの前で待っている。
最初は、正直ウザかった。
彼女は極度の人見知りで、私の友達に会うと貝のように口を閉ざし、私の背後に隠れて震えているだけだったからだ。
そのたびに私は、彼女の機嫌を取るために時間を割かなければならなかった。
でも、彼女が私に全幅の信頼を寄せ、「凛ちゃんが世界の全て」だと言わんばかりの目で私を見上げる時、私は……。
悪い気はしなかった。
「凛ちゃんカッコいい!」
「凛ちゃんがいれば、私なにも怖くないよ」
「ずっと凛ちゃんと一緒にいたいな」
必要とされている感覚。崇拝されている優越感。
それは私の虚栄心を、これ以上ないほど満たしてくれた。
あの花火大会の日までは。
実のところ、あの日私は未央を誘うつもりなんてなかった。
元々はクラスの友達と映画に行く約束をしていたのだが、そいつが急に風邪をひいてドタキャンになったのだ。
ぽっかり空いた土曜の夜を見つめ、私は適当に未央へLINEを送った。
『よう。今夜暇? 駅前で花火大会あるらしいけど、行かない?』
返信は秒で来た。
『行く!!! 絶対行く! すぐ準備するね!』
画面越しでも伝わってくる興奮。
当時の私は、深く考えもしなかった。
私にとっては、せっかくの休日を無駄にしたくないだけの暇つぶし。「映画」が「花火」に、「友達」が「未央」に置き換わっただけの話だ。
だが、それは間違いだった。
夜の六時。
駅前の待ち合わせ場所。
私はいつものTシャツにデニムのショートパンツ、手にはコーラの缶を持ち、サンダル履きでふらふらと現れた。
そして、彼女を見た。
未央は人混みの中で、異様なほど浮いていた。
彼女は桜の柄が入ったピンク色の高級そうな浴衣を着て、帯も完璧に結んでいた。
髪は丁寧にアップにされ、綺麗なかんざしが挿さっている。化粧も普段より気合が入っているのが分かった。
彼女はまるで、何か神聖な儀式に臨む姫君のように、ラフな格好の通行人たちの中でキラキラと輝いていた。
「……凛ちゃん!」
私を見つけると、彼女の瞳がパッと輝き、小走りで駆けてきた。下駄がカランコロンと清涼な音を立てる。
私は面食らい、無意識に自分のTシャツとサンダルを見下ろした。
「……うわ。気合入りすぎでしょ」
私は頭を掻き、軽口を叩いた。
「ただの地元の花火大会じゃん。浴衣とか暑くない? それに下駄とか歩きにくそうだし」
未央の笑顔が強張った。
彼女は自分が選んだ浴衣を見下ろし、次に私の適当な格好を見て、瞳の奥に微かな落胆の色を滲ませた。
「……だって、凛ちゃんと二人で遊ぶの、初めてだから」
彼女は袖口をギュッと握り、蚊の鳴くような声で言った。
「少し……ちゃんとした格好がいいかなって」
「そっか? まあ、好きにすればいいけど」
あの瞬間の私は、その「ちゃんとした格好」の裏にある重さを、全く読み取れていなかった。
ただ単に、大げさで、ちょっと面倒くさいなと思っただけだ。
「じゃ行こ。遅れると場所なくなるし」
私は背を向けて歩き出した。
可愛いねとも、ありがとうとも言わなかった。
彼女の目から光が消え失せた瞬間を、私は見逃していた。
今思えば、あれこそが、私たちの間の歯車が狂い始めた、最初の一撃(クリック音)だったのだ。
……
会場に着くと、人の波で溢れかえっていた。
賑やかな場所が好きな私にとっては、これこそがお祭りの醍醐味だ。
だが未央にとっては、そこは地獄のようだった。
慣れない下駄のせいで歩みは遅く、彼女は小股で私についてくるのがやっとだった。
はぐれるのを恐れるように、私のTシャツの裾を死に物狂いで掴んでいる。
「凛ちゃん……待って……」
「もー、早くしないと焼きそば売り切れちゃうじゃん!」
私は彼女の手を引き、人混みを強引に泳いだ。
手を繋いでさえいれば、大丈夫だと思っていた。
その時だった。
「あ! 凛じゃん!」
前方から聞き覚えのある声がした。
中学時代の遊び仲間たちだ。
「うわ! 由美! 久しぶりー!」
私は興奮して未央の手を離し、彼女たちの元へ駆け寄ってハイタッチを交わした。
「マジ奇遇! あんたたちも来てたの?」
「そーそー! 凛、相変わらずその格好ダサいんだけどウケるw」
その瞬間。
私は未央のことを忘れた。
たった数分のことだったと思う。
私は旧友との再会に浮かれ、過去の馬鹿話に花を咲かせ、腹を抱えて笑っていた。
夜空に最初の一発が打ち上がり、轟音が響くまで。
私は現実に引き戻された。
ハッとして振り返る。
「おい未央、始まったぞ……あれ?」
背後には黒い人の波。深海のように流動している。
あのピンク色の姿は、どこにもない。
「……未央?」
恐怖が、じわりと背筋を這い上がってきた。
「友達とはぐれた」という感覚ではない。
「隣の家の飼い猫を逃がしてしまった」時のような、自力では生存不可能な生物を放り出してしまったという、純粋な焦燥感。
三十分後。
私は河川敷の下、薄暗い茂みの陰で彼女を見つけた。
彼女は泣いてもいなかったし、走り回ってもいなかった。
ただ草むらにうずくまり、ピンクの浴衣の裾を泥だらけにしていた。
片方の下駄の鼻緒が切れ、裸足になった足を投げ出し、遠くの空で弾ける花火を呆然と見上げていた。
その背中は、あまりに孤独で、あまりに脆く見えた。
もし私が迎えに来なければ、彼女は世界の終わりまでそこでじっとしていて、そのまま腐り落ちていくのではないかと思えるほどに。
「……未央!」
私は駆け寄った。怒りと、罪悪感が入り混じっていた。「何やってんのよ! ついて来いって言ったじゃん!」
未央がゆっくりと顔を上げた。
化粧は少し崩れ、目は虚ろだった。
私を認識した瞬間、その瞳孔にようやく焦点が戻った。
「……凛ちゃん」
彼女は、私が手を離したことを責めなかった。友達と話し込んだことを咎めもしなかった。
ただ、消え入りそうなほど弱々しい笑顔を浮かべた。
「よかった……凛ちゃん、迎えに来てくれた」
「私……凛ちゃんに面倒がられて、捨てられちゃったのかと思った」
彼女は手を伸ばし、私のズボンの裾を掴んだ。
その手は氷のように冷たかった。
「ごめんね……凛ちゃん」
「私が歩くの遅いから。私が変な服着てきたから」
「私が凛ちゃんみたいにTシャツ着てくればよかったんだ……そうすれば、凛ちゃんについていけたのに」
その卑屈な謝罪を聞き、皮のめくれた足を見た瞬間。
私の中の怒りは霧散し、代わりに深い徒労感と、ある奇妙な確信が芽生えた。
ああ、やっぱりダメだ。
こいつは、私がいなきゃダメなんだ。
人間に飼い慣らされた家猫のように、一度野に放たれれば一分たりとも生きていけない。
人混みで生き抜く力もなければ、帰る場所を探す意志もない。
こいつの世界には私しかいない。
私が手を離せば、こいつは本当にそこで野垂れ死ぬ。
私は溜息をつき、彼女の前でしゃがみ込んだ。
「……乗んな」
「え?」
「おんぶしてやるよ。足、痛いんだろ?」
未央は一瞬呆け、それから恐る恐る私の背中にしがみついた。
身体は軽かった。羽毛のように重さを感じない。
けれど、肩にのしかかるその存在は、どんな荷物よりも重く感じられた。
「……凛ちゃんの背中、広いね」
彼女は私の耳元で囁いた。生温かい吐息が首筋にかかる。
「ずっと……ずっとこうして、凛ちゃんにおんぶされてたいな」
「バカなこと言ってないでよ。重いっつーの」
私は悪態をつきながらも、彼女がずり落ちないように、腕に力を込めた。
その夜の花火は綺麗だった。
でも私か覚えているのは、背中に感じる体温と、未央の寝言のような呟きだけだ。
それは契約でもなければ、呪いでもない。
私と彼女の間で、一つの致命的な「誤認」が根を張り、芽吹いた瞬間だった。
彼女は私なしでは生きられないと、私が思い込み。
私が自分を見捨てるはずがないと、彼女が思い込んだ。
それは噛み合わせの悪い二つの歯車だ。
回転してはいるが、絶えず互いを削り合い、金切り声を上げ続け――やがて完全に崩壊するその時まで、回り続ける運命にあったのだ。
【あとがき:背中の重さ】
作者「あぁ……。浴衣デートの失敗、これは痛い。未央ちゃんの健気さと、凛ちゃんの無神経さが残酷なコントラストを生んでますね」
霜月「この時点で、関係性は『対等な友人』から『保護者と被保護者』へと不可逆的に変質した。 凛は『私が守ってやらなきゃ』という庇護欲に酔い、未央は『無力であれば愛される』という歪んだ学習をしてしまった」
作者「おんぶされている時の『ずっとこうしてたいな』という言葉……。物理的な重さ以上に、未来への『枷』を感じます
それでは、また明日(19:10)にお会いしましょう!」




